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五代友厚に関する誤解 開拓使官有物払い下げ事件を検証する その2

五代友厚の評判を下げている、「北海道開拓使官有物払下げ事件」について検証するnote、その2です。

まずは、その1のおさらいから。
「北海道開拓使官有物払下げ事件」とは何だったか、から始めます。

開拓使の廃止を前に、長官の黒田清隆が同じ薩摩出身の政商五代友厚に、約2000万円を投じた事業を38万円余という安い価格で払い下げようとして問題となった。(清水書院 『高等学校日本史B 新訂版』 令和2年2月15日 第3版発行)

そして、この事件についてその1で検証した内容を3つにまとめます。

1.五代友厚は北海道開拓使長官・黒田清隆と結託して北海道開拓使官有物の払い下げを一手に引き受けようなどとしていない。少なくともそれを証明する十分な根拠は存在しない。

2.「北海道開拓使官有物」の払い下げを一手に引き受けようとしたのは、開拓使を辞職した官吏4人による新会社・北海社である。

3.新聞の誤報をもとにした「大久保利謙論文」の記載が、定説として定着したことが、教科書への誤った載せ方の原因となっている。

「その1」の中で、「政局の混乱と自由民権運動の高まりが背景にある」と書きました。今回は、この背景に触れつつ、開拓使官有物払い下げ事件が、当時の政局にどのような影響を与えたかを紐解いていきます。

政局の混乱

1877年に起きた、最大の不平士族の反乱・西南戦争の際に莫大な戦費を支出したこと、国立銀行条例が出たことで紙幣流通量が増えたことで激しいインフレが起こります。時の大蔵卿大隈重信が、この問題に適切に対処できなかったことで、政府内での立場が悪くなります。薩摩藩出身でも長州藩出身でもない大隈(佐賀藩出身)にとって、財政運営能力を問われることは、政府内での立場を危うくすることに直結していたのです。

自由民権運動の高まり

ほぼ同時期、自由民権運動による国会開設の要望が高まってきます。1879年に政府は内部の偉い人(参議)たちに、憲法に関する意見書の提出を求めます。

当然、大隈重信も提出するのですが、その内容がとても急進的なものであったこと、他の参議(伊藤博文ら)には秘密裏に提出されたことから、政府内で非難を受けることになります。

大隈重信には、後ろ盾として三菱(払い下げを断られて腹を立てている)、福沢諭吉(マスコミに通じている)がいて、自由民権派に通じていると思われていました

当時の政府は、自由民権派の活動を抑え込みつつ、どうやって自分たちの考える形で憲法を制定し、国会を作るかを考えていました。もしも大隈重信が民権派とつながって、その活動を支えているようだったら見過ごせないという部分があったのでしょう。

そんな中、北海道開拓使官有物払下げ事件は起こりました。

開拓使長官だった黒田清隆(薩摩藩出身)は各新聞が開拓使官有物払い下げについて批判を展開する中で、その元凶が大隈重信であると考えます。

大隈重信が、三菱(払下げを却下されて腹を立てている)と結託し、開拓使官有物払い下げに反対していて、福沢諭吉を通じてマスコミにリークしたと考えたのでしょう。しかし少なくとも建議書には、大隈重信のハンコも押してありますし、反対していると考える根拠は薄いように思えます。

大隈と五代友厚の関係

開拓使官有物払下げ事件で、矢面に立たされた五代友厚は、明治初期から、大隈重信と親交がありました。

新聞紙上で五代友厚への攻撃が盛んにされていたころ、五代友厚自身が自分に対する攻撃を嘆く手紙を大隈に送っています。また、五代友厚の事業に大隈重信が協力している様子も見られ、少なくともこの2人の仲は決して悪くなかったのです。

この事を考えると、やはり大隈のマスコミへのリークは根拠が薄いと言えます。なぜなら、黒田清隆は建議書を作成した本人ですから、払下げ先が五代友厚の会社ではない事を、知っていたはず。

新聞にリークしたのがもし大隈(稟議が回っているので、建議書の内容を知っている)なら、わざわざ報道機関を使って、五代友厚を陥れようとしたことになります。2人の関係を考えると、ありえないと言えそうです。

関わっていたとすれば、三菱や福沢諭吉・その門下生なら可能性としてあり得ます。自由民権運動を盛り上げ、世論を作ることで憲法制定を認めさせようと考えたのかもしれません。

終わりに

この後、大隈重信は政府を追われる形となりますが、これを「明治十四年の政変」と言います。

明治十四年の政変という出来事につながっていく過程で、北海道開拓使官有物払い下げ事件が起きました。それまでも政府内で大隈重信はいろいろな意味で浮いていたわけですが、その「いろんな意味で浮いていたこと」で政府内薩長藩閥が悪感情を大隈に持っていたところに、開拓使官有物払い下げ事件が起きたため、黒田清隆が大隈重信のマスコミへのリークを疑うことに至ったのです。ついには薩長藩閥で団結して、政府から追放するところまで来てしまいます。

ちなみに、マスコミを使って五代友厚を責めたてたのは、誰だったのかについてですが、一説によれば三菱と福沢とも言われます。しかし福沢諭吉の門下生が勝手に暴走したという説もあり、定かではありません。

いずれにしても、その1から見てきた過程を振り返ってみると、五代友厚は事件に全く関係ないにも関わらず、自由民権運動を盛り上げたかった何らかの勢力により、スケープゴートにされ、攻め立てられた犠牲者であると言えそうです。

参考文献 「新・五代友厚伝」  八木孝昌著

     「明治史講義【テーマ編】」小林和幸編

おまけ

当時の明治政府の中枢には「寺島宗則」という薩摩出身の人物がいます。

この方、実は「天外者」で、海軍伝習所で訓練する五代才助が指導教官に喰ってかかるのを止め、薩英戦争でともに捕虜になったあの「松木弘安」です。「天外者」ではとても影の薄い役でしたが、史実では明治初期をともに支えた「戦友」だったのです。

【訂正】作品中では、「森元」という架空の人物でした。松木弘安だとすると、色々ストーリーに無理が生じます。お詫びして訂正します(2021/02/16)


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