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『心の遺産』

 甘く見ていた。

 |天野美琴≪あまのみこと≫は大きく揺れるバスの中で車内を見渡した。座席は満席、通路にもびっしりと人が詰められており、事実美琴も押しつぶされそうになるのを窓に置いた両手で何とか堪えている状況だ。ゴールデンウィークの最終日だからと高を括っていたが、この小さな古都には国内はおろか世界中より人が訪れることを忘れていた。

 達磨の様に揺れるバスは京都を北上していく。左へ曲がったその時、美琴の前に朱の門が現れた。階段上に構えられた門は荘厳と佇立している。全国各地に鎮座する祇園信仰の総本山、『祇園さん』で知られる八坂神社だ。しかし、美琴は門ではなく、階段下でカメラやスマートフォンを構える観光客に視線を向けていた。写真を撮り終えて門をくぐる男性、自撮りの角度に苦労する女の子たち、中には目もくれずに通り過ぎるサラリーマン。実に多種多様な光景だ。

 だけど、と思った時だった。

「|素戔嗚尊≪スサノオノミコト≫もあれでは気疲れもするだろう」

 窮屈な車内で首を巡らせたが特に変わりない。しかし、幻聴ではなく、確かにどこかから声が聞こえた。ねじったような声で鼻垂れた言葉は、意外にも美琴が考えていることと同意見だった。

 偶然なのだろうか。窓に張り付けていた手で目頭を押さえて、再び目を開いた美琴はしばらく体が動かなかった。

 手前の一人座席に座っていた少年がじっとこちらを見上げていたのだ。小学生くらいだろうか、丸い目が微妙に離れており頬がふっくらとしている。その少年が美琴と目が合っていることを認識しているにも関わらず、微笑の一つも浮かべずにじっと見つめている。

 たじろぐ美琴に少年は薄い唇をそっと開いた。

「素戔嗚尊はファッションモデルでもゆるキャラでもない。そもそも八坂神社の祭神のことについてなぞ、あの者たちが感じているかは疑問だがね」

 過ぎ去る観光客に一瞥をくれた少年は、何もなかったように窓外を眺めている。子供とは思えない古びた言葉遣いに美琴は静かに驚く。

 少年は明らかに美琴に話しかけていたが、美琴の思い当たる交友関係にこのような少年はいない。

 しかし、どういうわけか美琴はこの少年から目が離せなかった。言葉で言い表せない直感を抱きながら、バスは緩やかな坂を上っていく。

 

 バスから降り立った美琴の目の前に枝垂れ柳が立っていた。ぬるりとした風をすり抜けていく細長い葉は侘しくもあり、縦横無尽に思えた。出町柳と言う地名がすんなりと頭に入ってきた。

その奥に視線を移せば、北から流れる鴨川と高瀬川が重なり、一つの河川として加茂大橋をゆるりと流れているのが見えた。

「鴨川デルタだ」

 ぎょっとして隣を見れば、先ほどのバスの少年が平然と立っていた。鴨川に視線を落とす少年の顔を美琴は覗き込んだ。

「ねえ君ひとり? それにどうして私に―」

 突然の叫び声に美琴の声はかき消されてしまった。何事かと橋の下を見れば、学生らしきグループがバーベキューをしていた。

「乾杯!」の合図に持っていた缶ビールを乱暴に合わせて、これまた乱暴に酒を煽っていた。陽気な音楽をスピーカーから大音量で流しながら彼らは肉に食らいつく。

 もちろんいい気分はしない。美琴も学生時代には多少羽目を外すこともあったが、場所はわきまえていたつもりだった。しかし、今の彼らは静かな景色から見て異様で、明らかに浮いていた。

「これが今の京都であり、日本のありさまだ。肌や心で感じる不確かなものを無いものと否定して、形あるものばかり求めている」

 少年は冷ややかに彼らを一瞥してその場を離れていく。徐々に離れていく後姿がくるりと振り向いた。

 口を開かず、また離れていく少年を気づけば追っていた。確固たる自信はないが、確かに少年は美琴に告げた。

「君も来るかい」

 

 鴨川沿いの加茂街道から少年は小道へと入った。美琴もすぐさま後へ続いたが、ふと空気が静かになった。振り返ると煌めく鴨川が見えるが、とても遠くに感じた。

 少年が待っているのに気づいて早足で向かう。そこで音以外に、周囲が薄暗いことに気づいた。両脇に立ち並ぶ建物は高いわけではない。首を巡らせた美琴が見たのは、眼前にそびえる山だった。青々とした山に安心感を抱くと同時に立ち入ってはいけない威圧感があった。

「静かな町……」

「ただ静かなだけではない。よく耳を澄ましてみろ」

 目だけで合図する少年の言うとおりに美琴は周りの音に集中する。鳥のさえずり、水の流れる音、葉擦れ、家の中からは子供の笑声や野菜を切る音。先ほど聞こえてこなかったあらゆる音が美琴の耳に流れてきた。音がないわけではない、なのに雑音に聞こえない不思議な空間に驚嘆する美琴に少年が口を開く。

「静かな町には二種類ある。死んだ町と活きる町だ。その中でもここ北区は活きる町の代表と言ってもいい。人は自然の一部に溶け込み、自然は人の暮らしに調和する。古来の人々が残した最後の遺産だ」

 朗々とした声に、そしてこの町の音に美琴は自然と聞き入る。

 何の迷いもなく少年が訪れたのは一軒の甘味処だった。

『|一文字屋和輔≪いちもんじやわすけ≫』。

 店名の書かれた暖簾の前で美琴は立ちすくむ。瓦屋根に焼けた板、木組みの格子など見るからに老舗だと分かった。今宮神社参道に位置するお店では、奥の座敷や外の椅子に幾人か客がいるだけだった。

 その店前で女将らしき女性と愉しげに話していた少年がくるりと振り返り、そのまま美琴の前に向かってきた。そして自らの両手を差し出した。

 その意味を理解するのにしばらく時間がかかった。つまり、金をよこせとのことらしい。美琴は自信の直感を信じたことに後悔した。やはり初対面の子供なんかについてくるべきではなかった。しかし、すでに注文は済ませているようで、奥にちょこんと立つ女将は微笑しながら待っている。

 美琴は大きくため息をついてから少年に五千円札を渡した。

 

「どうぞごゆっくり」

 注文した品を持ってきた女将は一礼とともに去っていった。その行動には挙措があり、ひとつ一つのしぐさに無駄がない。無理に話しかけてこず、ただ訪れた客を丁寧にもてなす、一種の神様のように思えた。

 新たに訪れた外国人客の接客に向かう女将を見てから、美琴は視線を畳上に置かれた盆に移す。緑茶が二つ、そして親指ほどの小さな餅が竹串に刺さって並んでいた。

 その湯呑の一つを少年が取って静かに傾ける。美琴は餅を一つ口に入れた。

「あ、美味しい」

 先端が結構焦げていたので心配していたが、周りにかかった白味噌の甘味の効果で焦げの苦みも随分和らいで、帰って咀嚼するたびに香ばしさが癖になる。食べたことはないのに、懐かしい気分にさせられる。

「阿ぶり餅だ」

 すぐさま二本目を咥えたところで少年が美琴の気持ちを汲んで答えた。なるほど、言われてみれば確かに炭の味がした。

 それにしても、と美琴は店内を見回した。

「ずいぶんな老舗よねここ。外見にも驚いたけれど、中はより歴史を感じるわね。百年、いや百五十」

「千年だ」と言い切る少年は平然と茶をすする。その途方もない数字は頭で理解できても信じがたかった。

「嘘でしょう」

「冗談ならもっとましなことを言うさ。創業千年を超えている、日本最古と言われている」

 ようやく阿ぶり餅に手を付けようとした少年の手がぴたりと止まった。すでに皿の半分は空いており、残りの餅が気まずそうに並んでいた。

 あきれた目で見る少年に急に恥ずかしくなったが、ふんと鼻を鳴らす。

「良いでしょう私が払ったんだから。それにしても千年って尋常じゃないわね」

「当たり前だ。応仁の乱や天皇が京都を離れていくとき、近年では第二次世界大戦までも潜り抜けたのだから只者ではない」

 咀嚼し終えた少年は人差し指を上に立てた。「屋根を見てみろ」と言われたので立ち上がり表へ出る。

「そこに鍾馗(しょうき)様がおられるだろう」

 鍾馗と言う言葉は初めて聞いたが、瓦の上に立つ小さな石像がそれだと分かった。遠目からでもわかるぽってりとしたお腹が印象的な男性の像だ。しかも、一体ではなくて、端と間に二体の鍾馗様が並んで同じように佇立している。

「千年も居続ければ被害はある。ここは幾度も火災に見舞われたが、その鍾馗様だけは燃え残ったらしい。云わばこの店の心ともいえる」

「でもそれって」

「偶然だと、君はそう思うかい?」

 足組みをした少年が真剣なまなざしを美琴に向けていた。

「目に見えること、聞いた話がすべてではない」

 少年は餅を咥えたまま美琴の隣に並んだ。

「そもそも、私たちの知るすべてなどほんの一部にしか過ぎない。要は感じるかだ。そこが大事なのだ。しかし、昨今の日本人は欧化に走っている。欧米に憧憬するのは結構だが、自国を知ろうともせず劣等感を抱くのは間違っている。イエスかノーでは決められない事柄がちりばめられているのだ。昔の日本人はそのグレー部分を感じることに長けていた。さらにそれをひけらかすことはせず、そっと心の中で感じている。それができなくなった者が増えているのは嘆かわしいな」

 美琴は道中で見かけた八坂神社を撮る観光客や鴨川デルタで叫ぶ学生たちを思い浮かべた。感じることができればあのような行動はとらない。美琴は違和感の根幹に気づかされた。

 日本人が日本の心を失ってきている。

 口の中に入れた餅から竹串を抜いた少年は屋根上に立つ、鍾馗様を眺めた。

「何より、偶然と決めつけるより、神様のご加護だと想像して神様を感じることができたほうが複雑で混乱していくこの世をよっぽど生きたくなるとは思わないかい」

 横顔でわからないが、少年がほのかに笑った気がした。

 

 和輔を後にした美琴は、再び少年の後に続いて歩いていく。猪熊通りを抜けて御薗(みその)橋を渡り、上賀茂本通のころには頭上に灰色の雲が浮かんで、夕方だというのにあたりは薄暗くなっていた。これは火と雨降りそうな予感だ。

 美琴は雨なんか気にもせずに前へと進む少年に声をかけた。

「君はそろそろ家に帰らなくていいの? お母さんたち心配しているんじゃないかな」

「最後に君を連れていきたい場所がある」

 振り向きもせず少年は言った。

「そして、私の家ともいえる場所だ」

 少年が跳ねる様に足音を鳴らした。

 

 大田神社。大きく刻まれた石碑の前に立つ美琴はその奥に続く森の参道を見つめた。朱色の鳥居のさらに奥はここからでは見えない。

 少年と鳥居をくぐると右側に人だかりができていた。静かな境内にシャッター音と蛙の声が鳴り響く。

「|杜若≪かきつばた≫の群生だ」

 人だかりの後方でつぶやく少年と並ぶが、ここから出杜若一本も見えない。

 頭に冷たいものを感じると、それはぽつぽつと次第に降り始めた。雨脚が増すにつれて前にいた人だかりがばらけていく。気づけば立っているのは美琴と少年のみだった。

「嘗て藤原俊成が歌にしたことをはじめ、多くの人が心を動かされた淡い花である」

 服も髪も張り付く中、少年の朗々とした声が沢に響く。確かに細長い茎の先に開いた紫の花ははかなくも美しい。

「日本の心だ」

 少年が言った途端、ふっと雨が引いた。それだけかと思えば、薄暗い雲の一点が開いて奇しくも沢を照らした。光を浴びた沼地に杜若が反射して密集する。濡れた杜若は宙に浮くように煌めいている。すぐに光は閉じて、空からは冷たい前が降る。

 あっ、と息をするのがやっとのひと時だった。美琴は陶然としていた。何もかもが決まっていたかのような景色だった。確かに美琴の心は感じた。

「本殿でしっかり挨拶してくると良い。祭神、天細女(あまのうずめの)命(みこと)に」

 まだ沢に目を向けている美琴の耳に笑声が聞こえた。

「君がこの町で何を感じるのか見届けるのが楽しみだ」

 うん、と隣を見た美琴は目を丸くした。先ほどまでいた少年は姿を消しており、美琴はただ一人雨の中立っていた。

 どこへ行ったのか首を巡らせたときだった。足元で鳴く一匹のタゴガエルを見つけた。蛙はこちらをじっと見つめたかと思いきや、後ろ足を伸ばして沢へと飛び込んだ。

 取り残された美琴だったが、くすりと微笑して沢を背に本殿へ向かった。

 参拝を終えた美琴は先ほどの蛙を思い浮かべていた。確証はないがあの眼差しに面影があった。

『グレー部分を感じること』

 思わず足取りが軽くなる。北区最高峰の桟敷ヶ岳を背にすれば、眼前には最後の遺産の町が広がる。

 自然と人間が心を通わせる町。美琴は濡れた髪をさっとかき上げて前へ進む。

 遠くから蛙の鳴き声がいつまでも京都に響いていた。

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