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萩原治子の「この旅でいきいき」(だった)

シリーズVol.11    エジプトの旅 (下編)

その1:エジプト博物館

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2020年4月1日

私が住んでいるニューヨークは今、新型コロナウイルス感染のエピセンターです。3月2日に公開した「エジプトの旅(上編)」で、私は3週間後くらいに下編を、公開する予定と書きました。日本はその頃すでに、ダイアモンド・プリンセス・クルーズ船などで、感染拡大の可能性があり、大混乱のようでしたが、私にとっては全く「対岸の火事」で、しかも私はアメリカの医療機関を信じていたので、のん気に構えていました。
しかし、この3週間で状況は180度転換し、ハイ・リスク層に属する私は、ここ2週間、自己隔離を実行しています。
その中で、読者の皆さんにお約束した下編を徐々に仕上げました。この非常事態の中で、こんな紀行エッセイを公開するのは、感覚がずれているかとも思いましたが、自宅待機での唯一の楽しみはネット・サーフィングという現実の中、私の記事が読者の気分転換のお役に立てばと思い、公開を決めました。
前編で書いたナイル河クルーズで感染した観光客の中には、日本人も数人いらっしゃったようです。日本帰国後、病状がどのようになったのか、わかりませんが、速やかな回復を心からお祈りします。  萩原治子

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前回までの記事

vol.10 エジプトの旅 2018年11月末 (上編) 
vol.9 モロッコ旅行初めてのアフリカ国 2018年9月
vol.8 パリと南仏の旅 2015年5月
Vol.7 オーストラリアとニュージーランドの旅2017年10月(下編)
Vol.6 オーストラリアとニュージーランドの旅 2017年10月(上編)
Vol.5 アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol.2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

Vol. 10「エジプトの旅(上編)」では、古代エジプトの遺跡見学中心の紀行エッセイを書いた。それだけで、3万字と130枚の写真!この旅はやはり、1回では済まないことになった。エジプトは古、中、新王国の古代史だけではないのだ。

テーベのカルナク神殿から始まったツアーの最後はギザのピラミッドで、一応、古代史、紀元前2500年から、紀元後のローマ、ギリシャが入ってきた頃までカバーしたが、まだ書いてなかった重要なことが2つ。それはエジプト博物館の展示物とミイラについて。この編ではここから始めたい。

エジプト博物館

カイロにあるエジプト博物館は、ピラミッドに次いで、カイロ市の見どころ2位。エジプト中にある遺跡から出土した質の高いもの多くが、この博物館に集中されている。

西洋諸国を中心に19世紀に始まった遺跡発掘調査で、続々と見つかった出土品を納める為に、1863年に初の国立博物館がカイロにできたが、30年で手狭になり、現在のものが建設される。
博物館の前庭に116周年記念という大きなサインがあった。建物の立派な玄関口の上には、左に1897年、右に1901年とある。建設、展示準備に4年かかった。建設に奔走したのはオーガスタ・マリエッテというフランス人。ガイドのサメーによると他の大美術館、博物館と違って、ここは初めから博物館のために建てられた最初のものという。

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ナポレオンのエジプト遠征(1798年から1802年)以来、フランス国のエジプト考古学への貢献度は計り知れない。ナポレオンは初期のフランス革命政府にエジプト征服を命じられて、やってきた。彼は何十人もの多分野の学者団を一緒に連れてくる(アレキサンダー大王を見習う?)。そしてロゼッタ・ストーンが運よく偶然見つかる。彼はたった3年で引き上げ、そのあと英国がエジプトを統治することになるが、フランス国の学者たちは、埋もれている古代エジプトの未曽有の文化遺産に気がつき、文化使節団を送り続ける。

ロゼッタ・ストーン発見から22年後、フランスの天才言語学者シャンポリオンは、1820年代から徐々に象形文字解読に成功。近代のエジプト考古学、エジプトロジーはこうして始まった。
マリエッテは1850年に、ルーブル美術館から学芸員として、カイロに送られる。この人は特に考古学を勉強したわけではなかったが、若い頃にエジプトの歴史、アートに興味を持ち、独学で研究し、フランスの故郷のミュージアムで、それに関する仕事を始める。実にいろいろな才能を持っていただけでなく、職経験も豊富な人間で、エジプトでまだ初期の段階の遺跡発掘に参加して、次々に砂に埋もれていた遺跡を発見、成果をあげる(サッカラの階段ピラミッド、およびギザではスフィンクスからクフのピラミッドまで続く参道を発見)。この博物館建設には絶大な貢献をしたことで、彼のお墓が敷地内にある。

館内の展示

博物館の2階建て建物の中は広く、大中小、様々なものが限りなく、旧式な方法で陳列されている(新しい博物館が現在建設中)。石棺の列、立て掛けられたミイラ柩の列、ミイラを包んでいた麻布の中にばらまかれていた小さなお守りや装飾品の夥しい数々。

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何よりもここで有名な展示は、ツータンカーメンの埋葬品と、ロイヤルミイラ。

ツータンカーメンの墓(KV62)からの埋葬品5000点

ルクサーの西岸にある「王陵の谷」の項で書いたが、ツータンカーメンの墓所はKV62で、1922年に英国貴族の資金援助で遺跡発掘調査をしていたハワード・カーターが発見する。12メートルの廊下を下った先には4部屋あり、埋葬からそれほど経っていない時期に、2回墓泥棒に破られていたが、奥の漆喰壁の内側にある埋葬室内の、4重の棺箱の2箱目からミイラまで、埋葬後3500年間ノータッチの状態で見つかる。

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ツータンカーメンは新王国時代の第18王朝期に、9歳か10歳でファラオとなり、10年後に亡くなる(1352年BCから1342年BC)。ツータンカーメンの治世は短く、ファラオとしての功績があったわけではないので、彼の埋葬品類が他のファラオと比べて、特に豪華だったというわけではないらしいが、とにかく、荒らされずに埋葬時のまま、3500年後に発見されたということは、驚くべきこと。
さらに現代人の目からみると、埋葬品は純金製とか貴石とかが多く使われた、非常に豪華なもので、世界中にセンセーションを巻き起こした。夥しい数の遺品が全て記録され、運び出されるのは8年かかった。

KV62から発見されたものは約5千点におよび、エジプト博物館の2階の相当の広い展示部分を占領している。

世界で一番有名な古代埋葬品、ツータンカーメンの黄金のマミー・マスクとミイラ柩

ツータンカーメンの石棺の中には3重のミイラ柩があり、1922年にKV62にカーターが墓内に入ってから、ミイラを取り出すまでに、3年かかっている。最初のミイラ柩は金の板で覆われたもの。それと宝飾で覆われた2番目ミイラ柩の間は、ヤニの使い過ぎで、中身がなかなか取り出せなかった。なんとかヤニを溶かして、取り出すと、それはカラフルな鳥の羽のモチーフの美しい柩だった。そしてとても重かった。さらにその蓋を開けると、3番目の純金製の柩が現れる(それで重かった)。その中には黄金製のマミー・マスクと、何重にも麻布で巻かれたミイラが現れる。それ自体は相当痛んでいたが、その顔と胸を覆う「黄金のマミー・マスク」は3500年の塵と埃を除くと、ほとんど損傷がなかった。

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エジプト博物館内で最も警備が厳重な特別展示室には、このマスクと美しく装飾された2番目の柩が展示されていた。残念なことに写真が撮れなかった。

この見事なデザインのマミー・マスクは純金製で、水色、柿色、紺色ラピスラズリやトルコ石、カーネリアンなどの貴石と彩色ガラスが使われている。

ここには2番目のミイラ柩も展示されていた。同じようなマスクのデザインに、手はクロスしてファラオの道具を持ち、胸から下の胴体、足部分も、水色、柿色、紺色の細かい鳥の羽モチーフで覆われている。さらに何重ものネックレス、ペンダント、腕輪など、古代エジプトの宝飾細工技術の驚くべき質の高さが現れている。

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4重の棺箱

KV62墓所の階段と坂を12メートル下ったところの4つの部屋のうち、漆喰の壁で封鎖されていた右手奥の埋葬室(Burial Chamber)には、4重の金色の棺箱、その中に石の石棺があり、その中に3重のミイラ柩が入っていた。

この部屋はカラフルな壁画で囲まれ、ほとんど部屋いっぱいの大きさの棺箱が入っていた(図1)。金色の下地の上に美しい水色(彩色ガラス)をバックに対になった2種類のモチーフの連続模様が全体を包んでいる。大きさは縦5m、横2.75 m、高さ3m強の大きなもの 。 このバランスのとれた、洗練されたデザイン!

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(図1) 一番外側の柩箱

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そのドアの部分

この箱の中にはさらに3つの箱が入っていて、これは2番目の棺箱。短い方の辺に開き扉があり、4面すべてに金色地には、多分「死者の書」に書かれたようなシーンが線で描かれている。

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これは3番目の棺箱。この開き戸に付けられた縄と漆喰の封が、破られていなかったことから、そこから内部は、1922年にカーター博士により開けられまで、ツータンカーメンのミイラが埋葬された時のままの状態だと証明される。

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3番目の柩箱。封印されたまま発見される。

宝物室のアヌビス神の御輿

棺箱が入っていた埋葬室の横に、漆喰壁で封鎖されたもう一つの部屋があり、そこは宝物室と呼ばれる。そこにはジャッケル、黒いアヌビス像が乗った御輿があった。葬儀を司るアヌビス神はレリーフ画などには、ファラオのヘッドスカーフをして、体は人間で描かれているので、これがアヌビスだとは、私はすぐには気がつかなかった。黒い色は黒い漆、目には金とクオーツなどが使われている。内側が黄金色に塗られ、ピンと立った立派な二つの耳は、その獰猛さの中に気品を備え、首に巻かれた2重の金色リボンで、さらにロイヤル感が出ている。彼が乗っているのはミニ神殿で、お神輿のように担げるようになっている。御輿の側面は黄金地にやはりいろいろなシーンがレリーフ、または線描きされている。

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内臓保存壺、キャノピック・ジャー収納庫

宝物室の奥にあった(上述のアヌビス神が護衛していた?)のが、キャノピック神殿。棺箱と同じくらいの高さで、同じように全体が黄金色に塗られた四角い縦長の箱は、4面を金色に塗られた愛らしい4人の女神が護衛している。上部にはコブラの列が2段に並んでいる。

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さらにこの中に入っていたアラベスク石でできた四角い箱が、その横に展示されていた。蓋を開けた中には、3人のファラオが立っている(もともと4体あったが、中を見せるため1体はミッシング)。真っ白なアラベスク石の像は、ヘッドスカーフを被り、黒いアイ・メークで凛とした表情のファラオの像。
キャノピック・ジャーとは、遺体からミイラにする時、抜き取った内臓を保存する4つ壷のこと。内臓を入れ、固く栓したものをミイラと別に埋葬する。ここではツータンカーメンの顔と胸の像が、栓になっているらしい。この美しいキャノピック・ジャーを入れる箱は用意されたが、実際には、彼の内臓は別の方法で保存されていたという。

アラベスクという半透明の石は、エジプトに多く産出され、白いものは埋葬儀式の装具の素材として多く使われている。

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下の写真はその一部。真ん中の舟に亡くなったファラオが乗って天国に行く。両脇の水差しも多く見られるもの。右のものはパピルスと睡蓮の花をモチーフにした、とても凝った細工のデザイン。

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等身大の彫像

これはファラオ自身の姿、対になっていて埋葬室の入り口の左右に立ち、自らの柩を護衛した形になっている。

ツータンカーメンは身長170センチくらいで、これは等身大らしい。肌は黒く塗られ、装身具はすべてゴールド。円形の胸飾りの上にペンダントもしている。下半身を包むのはキルトと呼ばれ、その前にエプロンが突き出ている。サンダルもファッショナブルなデザイン!

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箱の中から出てきた、ツータンカーメンの像。これは銛で獲物を捕らえる姿。その躍動的な姿はアマルナ美術の影響と言われている。

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若い頃の像。ういういしい。

宝飾類のいくつか

ミイラにかぶさっていたマミー・マスクには、いくつもの襟飾り、首飾り、ペンダントがかけられていた。これが襟飾りの一つで、ハゲタカが大きく翼を広げている

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これはペクトラルと呼ばれる胸飾りで、素晴らしいデザインと細工のものがいくつも展示されていた。

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私はクルーズ最後の夜、船内のギフト・ショップで、何か記念品をと、このペンダントを買った。店主がこれはツータンカーメンのペンダントだという。同じデザインのものが、エジプト博物館に展示されているという。トルコ石のものとラピスラズリの2種類あり、私はラピスラズリのものを買う。値札はなし。店主は秤にペンダントを乗せ、重さを計り、その日の金の値段を掛け合わせて、ペンダントの値段(1000ドルくらい)を私に提示。このエジプト式値段の決め方は、旅行書に書いてあった通りだった。

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エジプト博物館で私が買ったペンダントの本物を見るチャンスはなかったが、写真集に載っているのを発見。確かに同じような、象徴的なモチーフがいくつも組み合わされている!

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玉座2脚

この玉座は背もたれの図の内容から、若い頃使用されたと言われている。そのレリーフ画は金、銀の他、ラピスラズリや彩色ガラスが使われた豪華なもの。そのデザインの美しさやクラフトマンシップの素晴らしさよりも、ファラオと王妃の間に上から燦々と照らす太陽の図に注目。実はこの太陽のデザインが、この玉座はツータンカーメンが若い頃に使っていたと言われている所以。

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それはなぜか?この太陽のシンボルは、ツータンカーメンの2代前のアクナトン時代に、彼の都、アマルナで展開されたアトン太陽神信仰のシンボルだから。ツータンカーメンはアクナトンの女婿で、彼の治世初期の名前は、ツータンカートンだったということは、彼のことを読むと必ず入っている注釈。カートンはアクナトンのアトン神に仕えていることを示す。アクナトンについては、次の項に書くが、彼は一代きりの反乱を起こし、そのあと彼に関するものは全て破棄、破壊されたので、長い間詳しい研究は困難だった。その後の遺跡発掘調査で、徐々にアクナトンのことが解明されてくる。この墓に入っていたこの椅子の背もたれの絵から、この椅子はアマルナ時代に、ツータンカートンだった時に、愛用していたものと言われている。

この椅子は折りたたみ式。狩に行く時などに、使われたのか?素晴らしい装飾が背もたれ、座席に施してある。座席の周りの黒白の模様は、人類初のアニマル・プリント模様!

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狩の様子が描かれた素晴らしいデザインとクラフトマンシップの長持ち

ロイヤル・マミーの展示

エジプト博物館のもう一つの有名な展示は、お墓から見つかったファラオたちのミイラの展示室。ここも特別料金を払って見学。残念ながら、ここも撮影禁止だった。展示室には20体くらいのマミーが、どれもあちこちに茶色のシミがある麻布に包まれて並んでいる。一番よく保存されていると言われるラムゼス3世のマミーは、体躯の特徴だけでなく、顔にもその面影が残っていると言われる。

ミイラとその他の埋葬品と死後の世界について

古代エジプトといえば、ミイラ、英語でマミーと言われるもの。どうしてこう言う風習が生まれたのか?
私が買った旅行書「DK EyeWitness Travel エジプト編」には、Natural Mummification自然によるミイラ化、として、エジプトの気候では、死体を熱い砂の上に放置すれば、自然にミイラになるとある。砂が死体の水分を吸収し、細胞は保存されると。

サッカラの階段ピラミッドのところで書いたが、太古の時代には、原始的な砂の墓に埋葬していたが、それではオオカミに食べられてしまうので、上を石片で覆うようになり、そこから発展してピラミッドになった。同時に遺体も自然乾燥では不十分なので、特にファラオを始め、高貴な人のミイラ作りは研究されたよう。

初期にはそのまま乾燥させたが、中期、後期には、頭からは脳みそ、胴体からは心臓などの内臓を取り出し、別の壺(キャノピック・ジャー)に入れた。
この写真は内臓を取り出す時に使われた道具と、保存剤としての塩、薬草など。

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取り出した内臓を保管するキャノピック・ジャー。これは茶色のアラベスク製。

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空洞になった遺体には、中に塩や薬草などを詰め込み、麻布でぐるぐる巻きにした。最後に立てて、口部分の布を切り開けて、息を吹き込む儀式をする。これでミイラになったファラオは、黄泉に行く準備が完了。

取り出した心臓は特に、「死者の書」に従って、天秤にかけ、鳥の羽と比べ、心臓の方が重ければ、生存中に行いが悪かったとして、地獄に落とされる。

「王陵の谷」で見た墓所の内部の壁画には、アヌビスというオオカミ頭の埋葬の神が、ミイラの準備をして、心臓を天秤に乗せるシーンが多く描かれている(私がルクサーで買ったパピルス画にもこのシーン入っている)。また黄泉の世界へ行くには舟が必要で、埋葬品には必ず入っている。

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死後の世界を信じていたからこそ、このような行程が守られた。また、食べ物飲み物も十分用意されている。

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その他、古代エジプト人の様子が伺える質の高い像の数々、  古王国時代の素晴らしい彫像3点

このファラオを真ん中にハーサー女神と地元の女神が立っている像はいくつもある。地方豪族を制覇したことを象徴しているという。非常に硬い石、硬砂岩が使われている。使った工具も展示されていて、銅またはもっと硬い石でこれだけのものを作った。
これは2500年BC、古王国、第4王朝期の頃のもの。つまりサッカラとギザにピラミッドが建設された頃の作品。すでにファラオや女神の顔、体躯から、象徴的装飾品、左足を一歩踏み出したファラオの姿まで、すでにその後2000年以上続くスタイルが確立されている!

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高級官吏のご夫婦のカラー像。夫の方の茶色の肌は、毎日戸外で仕事をするため、日焼けをしたからだそう。奥様は色白で、真っ白なミディのドレスに、カラフルなヘアバンドと胸まで覆う10段くらいのネックレスなども美しく、またブラをしている。お二人は右手を心臓あたりにおき、足はきっちり揃え、お行儀よく同じサイズの椅子に座っている。奥様は特に穏やかな表情の中に威厳が感じられる。この種の彫像には、二人の子供も一緒になったものもあり、その場合、子供達は膝の高さ。微笑ましい。これも2600年BC頃の作品。

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これは他の彫像と違い、シカモア木製。サッカラで出土。古王国時代の2500年B C。埋葬式でお経を唱える高僧の像。1860年の遺跡発掘で、この像の出土を手伝ったローカル人夫たちは、彼らの村の村長さんとそっくりだと大変驚いたそう。それで一般には「村の村長さん」と呼ばれる。目には水晶とクォーツが使われている。目のアイラインは銅。

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次号(その2)につづく


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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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