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萩原治子の「この旅でいきいき」Vol. 2

ヴォルガ河クルーズの旅  2016年6月(上編)

前回の記事 vol.1  アイルランドを往く 2019/04/01

序文 :「この旅でいきいき」の第2弾はロシア旅行を選びました。これは私にとって、大旅行でした。ロシアだけでも2週間以上というだけでなく、西欧とはちょっと違う国、文化でした。さらにあの年の11月にトランプが大統領に選出されてから、ここ3年間は「ロシア疑惑」が新聞を賑わしてきました。そのため現在はまた全然違うロシア観があります。何か私が見たのは遠くまだ静かなロシアだったような気がします。実際ロシア国内の状況はこの3年間でそれほど変わってはいないでしょう。そして、このヴォルガ河クルーズのコースは当時はまだ珍しかったのですが、今はほとんどの旅行会社がオファーしています。まだ日本人向けのはないようですが、それも時間の問題でしょう。

『ヴォルガ河クルーズの旅』

私はこのロシア旅行でいきいきしただけでなく、すっかりロシアびいきになってしまった。帰途につく頃には、プーチンの顔も気にならなくなった。

この年、6月の旅行には東欧を考えていたが、いろいろスケジュールがかみ合わず、3月になっても、じゃこれでいこうという気にならなかった。それで秋の旅先の候補に上がっていたロシア旅行の内容をよく読んでみると、日の長い6月の方が秋よりいいという結論に達した。夏至前後のペテルブルクのホワイト・フェスティバルは有名だし、前年5月の南仏がまだまだの陽気だったということを考えると、モスクワだって、夏に行かない(でも蚊の多い8月は避けて)と、エンジョイできないのでは?

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いろいろ調べた結果、12泊13日のリバー・クルーズに決める。ペテルブルクとモスクワの2つの帝都に3日ずつ、そしてその間はヴォルガ河をクルーズ、これに引き込まれた。えッ?ヴォルガ河って、どこを流れていたんだっけ? すぐにヴォルガの舟歌を思い出し、頭の中でメロディーを歌いながら、水辺に建つオニオンドームの古い教会の写真を見て、6月は絶対これというほどまでに、行く気が起こって、参加に至る。

ロシア旅行は5年前に一度、行く話があり、その時Lonely PlanetのロシアとDKのモスクワの旅行書を買って、貪り読んだ。そのくらい面白かった。5年前はロシア連邦になってすでに20年目、それ以降ロシア社会はそれほど変化していないだろうと思い、その2冊をまた読んだ。その間にプーチンは再び大統領になり、クリミアを強行併合し、ウクライナ東部にミリシア(自衛団)を侵入させ、アムステルダム発シンガポール行きのマレーシア航空機をミサイルで撃ち落としたという疑惑が濃厚で、さらにシリア内紛の解決に一役買おうという姿勢は良かったが、アサッド政権支持で欧米は混乱している。ロシア国の人気は下がる一方。
私がロシアに行くというと、アメリカ人の友人たちはちょっと、不可思議という顔をした。でもこれだけの大国を私は一度はこの目に見ないという気持ちが強く、決行する。経済封鎖で、国内経済はよくない。だったら、ドルは強く、外国観光客は大事にされるだろうという見方もできる。

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サンクトペテルブルクの4日間

2016年5月25日 サンクトペテルブルクで集合、すぐにクルーズ船に

13日間のリバー・クルーズは、サンクトペテルブルクから始まった。1日目は集合日、世界のあちらこちらから来るので、皆バラバラと午後から夜にかけて、到着。私もパリからエアフランスで午後2時頃到着。迎えてくれたクルーズ会社のバスで船に直行。その日は荷解きして、時差に慣れて、明日から3日間の市内観光の強行スケジュールに備える。夕食のテーブルではすでに勝手気ままに自己紹介が始まっていた。西洋人は仲良くなるのが早い。私はここでノバスコチアからの70代のカナダ人夫婦とトロントのマックギル大学で生物学系の研究員をしている60代の一人旅女性と知り合う。

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5月26日(木) サンクトペテルブルクの市内観光

翌日の観光第一日目は、朝8時半までに朝食を済ませて下船する。乗客は全部で89人、3台のバスでペテルブルク市中心部へ。最初はバスで、後半は観光船で、歴史的地区(Historic Center)を中心に全体像を観る予定。お天気は良く、爽やか。ガイドさんはペテルブルクの歴史、文化、ロシア国の現状、今の政治などについて、冗談を交えながら喋りまくる。英語はうまい。

この帝都の正式名

私はこのクルーズに参加することで、いろいろな本を読むまで、ソ連崩壊後この都市の正式名がなんだか、不確かだった。意外にも、セントピーターズバーグ(日本語ではサンクトペテルブルク)と旧ロシアの名前に再びなっているのに、ちょっとびっくり。私はロシア革命に興味があったし、それが起こった当時のロシア社会の状況にも興味があった。またソ連崩壊後、どうなったかももちろん興味があった。
ツァーリ時代の帝都の一つであったこの都市の名前の変遷は、ここ300年のロシアの歴史を顕著に表している。1712年にピュートル大帝がモスクワから遷都してから、革命まではセントピーターズバーグ(聖パウロと同名の彼がこう命名した)。その間余りにドイツ的な名前なので、一時ロシア風にペテルグラードに変名。革命からソ連崩壊まではレーニンに敬意を表してレニングラード。ロシア連合になってから、国民の心の中のレーニンの地位はどうなっているのか? 沼地だったこの地にこの美しい都市を建設したピュートル大帝は偉大だったと言ってもツァーリだった。革命後、その偉業はどう評価されたのだろう? 評価はされても、革命中宗教は否定されたのに、今さら、「サンクト」とつけるのか? そのあたりの時代の移り変わり、国民の心変わり、複雑な歴史と複雑な国民感情を理解する材料になる。

歴史的地区を観光、ここは水の都

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この街の観光の中心はもちろん、「歴史的地区」にある、ツァーリの宮殿だったウィンターパレスは現在、エルミタージュ美術館。その周りにあるツァーリ直属、または彼の政府、軍直属の建物の大きさにまず、圧倒される。それから、その数。次は貴族のパレス、220もあるとガイドは言う。どういう人々が貴族になったか?元は地方の地主、豪族、近世においてはさらに政府、軍の重要地位を占める人々だろう。地方の地主でもツァーリのお膝元の都に皆、大きな館を建てさせられた。ピュートルは中世的ロシアの伝統文化を嫌い、ロシアの西欧化に徹した。海軍建設(ロシア広しといえども、冬に凍結しない港は少ない)、ロシアのヴェニスと言われるように運河が縦横に走る美しい都市建設、髭を剃らせ、裾長のガウンを廃止し、音楽、ダンスなどの楽しみを奨励する。日本の明治維新時代と似ている。そのピュートル大帝から約200年後、まだ開国50年の日本と戦争して、日本が勝ったのだから、日本はよくやった。その時の戦艦オーロラ号がネヴァ川の河口に停泊されて、今はミュージアムになっているのだが、ここ2年は修理中で見られなかった。ローカルガイドがその説明をしても、もちろん私以外の英語圏の人々からは、何の反応もないのは当然。10月革命の合図の大砲が打たれたことでも有名なのだが。日露戦争の勝敗が決まった後、交渉にテディー・ルーズベルト(26代目の米大統領)が勝利した日本を支援したことを私は最近知った。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、外務省の誰かがハーヴァード留学中、彼と同期だった縁らしい。その延長か、アメリカにはその頃から日本びいきの富豪が現れる。例えばロックフェラー家。親日派と言われるグループ。

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クルーズの乗客

このクルーズの乗客は89人(乗組員もそれとほぼ同数)、3分の1はアメリカ人、4分の1がカナダ、同数くらいのオーストラリア、ニュージーランド人、残りがイギリス人など。キャビン数は50ほど。私のように一人で一部屋占領している人が10人くらいいる。今まではどのツアーも値段は1部屋2人が基本で、一人で泊まりたい人は15から20パーセントくらい追加料金を取られるのが普通だった。しかし、近年一人旅の女性が特に多く、一部屋一人ベースの付加金免除をするところが出てきた。このツアーもその一つ。そのせいか、女性が多い。平均年齢が70歳を越しそうなこのグループ、先進国の人口分布からいっても女性の方が多くなるのは当然かもしれない。いや、でもこのツアーは7900ドルでお安くはない。5年前なら、そういう余裕のある女性のリタイアリーはそんなにはいなかった。私の年代から、アメリカでは女性の社会進出が顕著になった。それが今、こういう形で表れている。彼女たちと話すと一人旅の女性の中には未亡人もいるが、そうではない人もほとんどが孫の話を多いにする。ということは、一度は結婚していたこと、キャリアだけでなく、家庭生活もあった証拠、いいことではないか。

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ロシア国の歴史をワタシ流にまとめると

ルーリック王朝

ロシア国の原型は6世紀ごろ、南方からやってきたスラブ人が住みついた時に始まる。ちっとも統一できなく、外敵に略奪されるので、バルト海から、川をのぼって侵略してきていたバイキングに王になってもらう。8世紀のこと。これがルーリック王朝の始まりで、このあたりがルース国(ロシアの語源)と呼ばれるようになる。アイゼンスタインの映画で有名なアレキサンダー・ネブスキーはキエフ中心の13世紀の王で、このネヴァ川デルタまで進出していたスエーデン人を追い払った功績で、この川の名前をもらってネブスキーになる。この頃(1247年)、遠くモンゴルから、ジンギスカンが攻めてくる。モンゴル人は放牧民族だから、侵略、破壊した後も定住はしなかった。ローカルの王様はグランド・プリンスとして、税徴収係をやっていた。ルーリック王朝は北のスエーデン人や、西のドイツ人、さらに東からモンゴル人から攻め込まれ、その首都はキエフから、現在のモスクワの東の地域などに転々とする。一応ルーリック王朝は継続したが、残忍で、破壊的習性を持つモンゴル人から、240年間、多大な被害を受ける。

"Aleksandr Nevski " - ( Aleksandr Nevskiy) - Trailer.

キリスト教に改宗

この一帯は沼地で未開発だったといえども、スラブ人とスカンジナビア人が早くから、混じり合い、988年にルーリック王がギリシャ正教に改宗した時点から、ロシアという文化的には西欧圏に属する国の原型が出来上がったと私は考える。キリスト教的考え方、価値観、大きな体躯、金髪、碧眼、白い肌、そういうヨーロッパ的要素のことである。キリスト教の魅力は一神教だということ、そして聖書という本があったことが大きく影響している。それが古代ローマという当時抜きん出た文明とともに、広範囲に伝達された。文字を持たないスラブ人に伝道するため、9世紀ごろ、キリル文字というロシア・アルファベットが作られ、聖書(バイブル=ブック)が訳された。人間はどんなに野蛮でも、知能が発達した生き物だから、文明、文化には、それらに磁力があるかのように、惹きつけられる。特にこの広大な地域では、人々は人災を逃れ、どんどん奥地に入る。比較的安全で食料はあったとしても、文明、文化が発達する状態ではなかっただろう。だから、キリスト教は宗教というより、文化であり、文明だったと私は思う。

ツアーリの専制政治と混血民族

1712年以降、ロシアはこのサンクトペテルブルクの地から、専制君主の元に専制政治が行われた。この広いロシアで(全国には11の時間帯がある。地球全部で24だから、地球の半分近くの距離が国土というわけだ。シベリアを入れなくても、相当広い)、このヨーロピアン・ロシアと呼ばれるウラル山脈以西はポーランドや中欧に続く大平原で、遮るものがないため、常に4方から侵略されてきた。この国境がはっきりしない国で、全域(ウクライナとモスクワの東あたりまでの)統一ができて(イワン雷帝の頃)、一筋の王朝(ルーリック王朝は15世紀に途絶え、そのあとはロマノフ王朝)がどうやって続け得たのか、私にはまだ謎である。帝都建設など、文化的な面ではイタリア人が入り込み、海軍構築にはイギリス人、オランダ人、ドイツ人、それに専制政治と宮廷文化についてはフランスをお手本にしたのだろう。そして一気に近代化した。それまでに人種的にも幾つもの他民族が入り込んでいたが、ピラミッドの上に立つツァーリを始め、貴族は白人系のようだ。

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ルーリックはバイキングだし、988年にビザンティン皇帝の妹を大妃に迎えたのがキリスト教徒になるきっかけだが、ここでイタリア人の血も入ったことになる。ロマノフ朝のピュートル大帝以降の近代化の過程で、ドイツ人、他のスカンジナビア人の血も入る。ロシア人が近代に入って急速に台頭してきたのは、こうした混血による優性遺伝にも一因あると言われる。もちろんモンゴル系の影響もあったから、有色異民族への差別意識は西欧に比べれば、低いように見える。

バスと観光船で市内を一回り

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バスと観光船で町をぐるぐる回り、この街の大体の様子がわかる。なんといっても、水が多い。中心のネヴァ川の河口近く、エルミタージュが面している辺りの川幅は相当ある。フォンタナとモイカ川は運河だから、細く、信号を渡るくらいの感じで 橋がかかっている。その橋や川辺の欄干は装飾的で美しいが、パリほど立派ではない(時代が違う)。ツァーリの宮殿であったエルミタージュや兵器庫などの一群の建物が建つ地区はネヴァ川と運河に囲まれている。元沼地だったところだから、全く平坦で、そこに窓がなん百と並んだ美しい宮殿には城壁もなければ、堀もないし、塀すらない。

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エルミタージュの後ろには広大な宮殿広場があり(ここで血の日曜日事件が起こった)、中央に立つアレキサンダー円柱の反対側にエルミタージュと似た3階建ての長大な建物(参謀本部)が2棟170度くらい角度で並んでいる。継ぎ目部分は凱旋門のような大アーチになっていて、その上には勝利の女神が馬車でかけている。その広さはバチカンの聖ピーター寺院の広場を思い出させる。

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モイカ川の両側には貴族の館が並んでいる。モイカとはゴミの意味で建設当時、その辺りに住んでいたオランダ人がゴミを捨てていたことから、この名がついたと説明を受ける。マーブル・パレス、ピンクと白のストロガノフ家の館、そしてグレー色の地味な館はプーシキン・ミュージアム、隣がプシュカ・インですって!! このクルーズの最終地点、モスクワで解散した後、私はモスクワに1泊、さらに電車でペテルブルグに戻り、2泊することになっている。その時の宿がこのプシュカ・インである。私がモスクワの後戻って来るところは、こんなにもエルミタージュに近いところだった。隣にいたカナダ人夫婦に私は自慢げに話す。

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ネヴァ川の河口には大きな海洋クルーズ客船が停泊していた。私たちのリバー・クルーズの駅はネヴァ川をもっと中に入ったところにあり、バスで町の中心まで30分くらいかかる。朝のラッシュでは1時間かかった。どうしてもっと下流のヒストリック地区近くにしないのか?乗客には文句を言う人もいた。船会社は三日目は郊外に行くから、こちらの方が近いのよ、と説明する。

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ランチ・タイムでルーブルを下ろす

「血の上の教会」近くで観光船を降り、ランチのための自由時間になる。私はまだルーブルを持っていなかったので、まずランチを一緒に食べる仲間を確保してから、ATMでキャッシュを下ろす。1ドルが約60ルーブルとややこしい。いくらルーブルを下ろすべきか、全く見当がつかない。ほとんどの店でクレジットカードは使えるので、あまり要らない。が、ないと困る。それで1000ルーブルくらいを引き出す。カナダ人夫婦はこの国でクレジットカードを使いたくないので、このくらい!と、親指と人差し指で3センチくらいの厚さを作り、ルーブルの札束を持ってきたと言う。後から聞くと、今ロシアはハッカーで悪名高い。こう言う情報を盗まれないように、彼らのようにキャッシュオンリーにするべきだったかもと思ったりするが、too late.

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ローカルの人々で賑わう大きめの店に入って、ランチを食べる。メニューには、前菜、サラダ、スープから始まって、肉料理、魚料理、パスタ類、それにデザートと飲み物と、すべて揃っている。私たちはビーフ入りのボルシチを注文する。実際に食べ物が運ばれてくるまで、ゆうに30分はかかる。ボルシチでもこれだけかかるのなら、注文を受けてから作る料理はそれ以上かかる? これが旧ソ連的サービスとの最初の遭遇になる。
ロシアン美術館の前の公園にある、プーシキンの銅像で再集合する。

ペトロ・パウロ要塞

この日の午後は希望で(50ドルの追加料金で)ペトロ・パウロ要塞を見学する。スエーデンを撃ち破るためにピュートル大帝が最初に建設したものだ。クレムリンというのは、要塞という意味なので、中世からのロシアの古い町には必ずと言っていいほどクレムリンがある。ところが、ペテルブルクにはなく、ピュートルが最初に作った要塞はピュートル・パウロ要塞(Fortress)(ロシア語ではペトロパブロフスク)と呼ばれる。
要塞とは砲弾にも耐える分厚い壁で囲まれていることが第一条件。それから、当然のこととして、巨大な兵器庫、または爆弾庫がある。それから、長期こもることを予想して、きっと当時は食糧庫もあっただろう。しかし、今遺っていて、私たちが見学するところは大聖堂である。

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ロシアにはどこに行っても、教会がある。反対に言えば、古い時代の見所は要塞と教会しかなく、しかもロシアの場合、一緒になっていることが多い。考えてみれば当たり前のこと。ピュートルは戦争を起こす時、神からの啓示(ご神託)を待ち、神の保護を祈願しただろうし、戦争が終われば、神に感謝し、犠牲者を弔うことは民衆を味方につけるのには大事なことである。日本のお城には、それらしきものはあったのだろうか? また教会には鐘塔が必ずついている。ロシアは広く、また農民は無学だったから、鐘を鳴らして、時間だけでなく、警鐘としても重要な軍備の一環だったのだろう。このペトロ・パウロ要塞の教会の鐘塔は現在でも一番高い塔である。金色に光った122メートルの尖塔で、先に鐘がついているように見えない。大聖堂は外装は地味な褐色に塗られているが、中は広くはないが、いろいろな色の大理石をふんだんに使い、金色の装飾が施され、豪華な大シャンデリアが下がった華麗な内装である。ここにピュートル以降のツァーリの遺体が埋葬されている。19世紀になると、要塞の役目を果たさず、牢獄として、使われ、ロシア革命前に危険視されたドストエフスキー、ゴルキィ、トロッキーなどが、ここに投獄された。

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1917年10月にレーニンを中心にロシア革命が成功する。その後内紛が4、5年続くし、バルト海から、ドイツ、スエーデンなどからの攻撃を懸念して、レーニンは首都をモスクワに戻した。

夜はエルミタージュ宮殿でバレエを鑑賞

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この後、船に戻り、お昼寝をしてから、夕食を早めに食べ、バレエ鑑賞のためエルミタージュに行く。開演は9時。エルミタージュの一番東にある建物が小劇場になっている。エカテリーナ2世の命により、建設され、彼女はここで大いに観劇、バレエ、音楽会を楽しんだそう。古代ローマの半円形の劇場のような形で、舞台は底に、ベンチ式客席は半円形状に6列階段に作られている。座席の幅も広ければ、列の間も広くとってある。18世紀の大きく広がるスカートでも問題ないように。

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劇場に到着すると、100くらいある席はほとんど中国人で占領されていた。この日は白系ロシアの帝都見学のまだ第1日目、ロマノフ王朝の絢爛たる劇場で本場のバレヱ、チャイコフスキーの白鳥の湖を鑑賞するのに、あまり洗練されているとは言えない中国人の観光客で客席が埋まっているのは、面白くない。東洋人の私でさえ、そう思う。私たちのグループの白人たちは皆、そう思っている。しかし、これが21世紀の現実、仕方がない。それにしてもなぜあの人たちは、ああも大声で話すのか?
舞台は小さく、従ってオーケストラ用のピットも小さく、小さめのオーケストラの半分は次2段の階段の両側に陣取っている。幕が開いて、バレエが始まる。小さい舞台に20人くらいのスワンがぶつかりそうな間隔で踊る。質は其れなりに高いが、やはり、感激は薄い。彼らは同じプログラムを観光客のために来る日も来る日も踊っているのだから。

プーチンにしても、ロシアはヨーロッパではないと、注釈をつけるところが、私たち日本人にとって、ちょっと違和感を感じる。スラブ系が主流だから多少ヨーロッパ人と違った風貌かもしれないが、また、ロシア語は英語系でもロマンス語系でもないが、私たちから見ると、ヨーロッパに似た人種、文化に見える。それは白い肌とキリスト教徒だったからだろう。白い肌、金髪、碧い目は10世紀頃から、バイキング、つまりスカンジビア人と混血した結果、キリスト教は988年に王様がギリシャ正教に改教した。それ以前にギリシャ正教の宣教師(キリルとメソディウス 兄弟僧)が文字を持っていないスラブ人に布教するため、ギリシャ・アルファベットからロシア語アルファベットと作る。これの2つのことで、ロシア文化はヨーロッパと共通点ができ、文化的、人種的にもヨーロッパの一部になっていった。13世紀にモンゴルが来るまでは。

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5月27日(金) 待望のエルミタージュ見学

翌日はまた早めに朝食を終え、バスでエルミタージュへ。待望の美術館を観る日
なのだ。私たち高級クルーズ船のお客は、特別の計らいで、10時半の一般開館より、1時間早く入る。なんといっても、ここはペテルブルク一の観光地なのだ。一般客はインターネットでチケットを買っていない限り、切符を買うのにさらに1時間くらい並ぶという。

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今日のガイドはアート・ヒストリーを勉強した人。9時半に着いても、コートやバックパックをクロークに預けたり、トイレを使ったりするので、鑑賞開始はそれから20分後。皆早る心を抑える。それから2時間半、私たちはガイドの説明を聞きながら、主だった絵画や彫刻、大広間、謂れある美術品を走るように、時には人垣を押し分けながら、観て回る。階段を上ったり、降りたり、全面装飾された長い廊下を歩いたり、棟と棟との間の橋のような通路を渡ったり、次の品目の説明をイヤフォンで聞きながら、有名な絵の前でいい写真を撮るため順番待ちをしたりして、午前中を終える。30分の自由時間の後、バスに戻った時には、皆あまりの集中的体験でぐったり。

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エルミタージュの建物はネヴァ川に沿って、西から冬宮、小、新、旧、劇場の5つで、1754年にエリザベータ女帝の時宮殿として、まず冬宮が建てられた。その後、エカテリーナ2世が自分のエルミタージュ(仏語で“隠れ家”の意)として小宮殿を建てたことから、全体がエルミタージュと呼ばれるようになる。美術品のコレクションはピュートル1世から始まったが、エカテリーナ2世の時に飛躍的拡張された。さらにロシア革命後、貴族のコレクションは革命政府に没収され、ここに集中されたので、さらに3倍に増えた。その品数は3百万という。絵画ではオランダのものが多いとされている。中でもルーベンスとレンブラントが多い。しかし、これらの建物のアーキテクトはイタリア人だったし、コレクションもイタリアのものも多数。特にラファエロの開廊と呼ばれる通路はバチカンのそれをそっくり真似て再現させたもので、ロシアが第3のローマという認識をうかがわせる。

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バチカンに類似した宮殿を建設するため、イタリア人の建築家、アーティスト、アルティザンを雇った。デザイン的に見れば、当時絢爛たる宮殿文化をくり広げていたフランスの真似ももちろん大広間の装飾などに見られる。また貴族のファッションはもちろんフランスの影響、その頃すでに、ファッションの中心はパリだったようだ。エカテリーナの何千というドレス、あるツァーリ夫人の2万着以上のドレス、皆、最新のパリ・ファッションで作られた。

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こういう絢爛たる宮殿、宝石をいっぱいつけた王冠、ケープ、杓杖、ドレス、などなどを見るうちに、なぜ、ここまで、ロシアのツァーリは、金持ちだったのだろうと誰もが思う。王家の財力=権力を見せつけるためとはいえ、この部屋数、窓数、シャンデリアの数、階段の数、美術品の数、現代感覚からいくとキチガイじみている。人間一人が吸収できる量ではない。

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午前中の2時間半で走るようにして観た美術品はせいぜい50点、帰りのバスの中で何が印象に残ったか考えても、すぐには思い出せない。絵画なら、エル・グレコの使徒ペトロとパウロ、ラファエロの聖母子像、彫刻なら、ミケランジェロのうずくまる少年、家具なら、マラカイトという緑色の石のテーブルとラピスラズリの楕円形の大甕(ウラル山脈で大量に産出された貴石で、他の西洋貴族的芸術品コレクションで見られないもの)、内装なら鏡とシャンデリアが眩い大広間、または赤い布を貼った壁に何百という軍人のポートレートがかかった天窓のある部屋など。あとは大理石の円柱や階段、白と金色の装飾を施した壁や天井、色違いの木を使って作られたモザイクの床などなど、大きさと数と豪華さとに圧倒されてしまった。それと観光客の数にも。ここの絵画、彫刻コレクションは世界四大の一つと言われるが、第一回目訪問は宮殿だった建物、内装装飾、家具などに焦点を当てて観るのが良いようだ。これらの見どころも膨大な量というだけでなく、すべてが完成当時のように光り輝いているのだ。ロシア政府の力の入れようが伝わってくる。

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午後はもっと俗っぽいお屋敷を見学

圧倒されっぱなしで駆け回ったエルミタージュ美術館見学のあとは、一旦船に帰り、昼食をとってから、皆、お昼寝。折角のエルミタージに来たのに、たった2時間半の見学ではぜんぜん不十分っと、私はヴァージニアの大学でアート・ヒストリーを教えている女性と、午後も残って、見学する約束をしていたが、二人とももうダメ、中止!ということになる。これ以上、例えば、今回観られなかった印象派の作品や、黒海北岸から出土したスキタイの純金製の動物など、感覚も脳みそも疲れきっていて、観る元気は皆無と思われた。午後はもっと気楽に見られるユスーポフ・パレスの見学が予定されていた。旅行会社の人もよくわかっているようだ。
ユスーポフ・パレスが見学の一つに入っているのは、ユスーポフ伯爵はニコライ2世の姪と結婚しているし、名家だということ、そのパレスがその地位に相応して、大きく、立派で、絢爛豪華だということだけでない。一応いくつもの趣向を凝らした縦列に並んだ部屋を見学した後、さらに邸内にあるオペラ劇場で男声合唱を聞いた後、パレスの別棟に行き、そこからはラスプーチン事件の現場を見物する。日本はシベリアが近く、ロシアとは近世のいろいろな時期に接触があり、日露戦争に勝ったということもあって、ロシアについての知識はかなり高いとい言える。アメリカ人にとって、ロシアという国には、共産主義のソ連時代、特に第2次大戦後40年近く冷戦で張り合った相手国ということ以外では、ロシア帝国時代の華やかな時代にも興味を持っている。特にニコライ2世の娘アナスタシアの行方については偽物も現れて、長いことゴシップ欄を賑わした。もう一つの興味本位の対象はラスプーチンで、このツアーを組む人はそのことをよく理解している。ラスプーチンという怪僧がどうして、ニコライ2世の家族にあれほど、近づけたのか? あれほどの影響力があったのか? この事件、私もこの旅行の際読んだ旅行書で初めて知ったことだった。その記事は3分の2ページを割いて、書かれていた。ニコライ2世夫人だけでなく、当時の貴婦人たちに大いにモテた。それは性的な関係だったかららしい。この状況に危機感を持ったユスーポフ伯爵が暗殺を企てる。その舞台が彼のこのパレスだった。まず、お茶に呼んで、毒入りのお茶を飲ませるが、どうも効かない。それでピストルで撃って、その死体(と彼らは思ったが、まだ死んでなかった)を半分凍ったネヴァ川に放り込む。この事件をドラマチックに観光客に説明するために、蝋人形が作られている。今の感覚からいっても、この事件は異様である。こう言うことも、ロシア革命が起こったバックグラウンドとして、めちゃくちゃな帝政、全く実力のないツァーリ、を浮き彫りにしてくれている。アメリカ人はこう言うゴシップが大好きだ。ハリウッド映画的ではないか?

最後のツァーリ、ニコライ2世

このニコライ2世というのは、ロシア革命で倒された皇帝というだけでなく、明治の日本を訪問し、大津駅前で巡査に狙撃された。命を落とすような傷ではなかったが、その傷は顔に残り、そのあと、日本人のことを猿と呼んでいたらしい。(これは司馬遼太郎の「坂のうえの雲」による)。白人崇拝主義は当然のこと。

私はピュートル大帝の大ファン

私にとって、ロマノフ王朝の魅力はピュートル大帝がすべて。彼がツァーリ継承争いで肉親、近臣らが毒殺、幽閉、暗殺など企む中、田舎で戦争ごっこなどをしながら、のびのびと成長したということ自体、普通の人の何倍ものスケールを持った人だったことを信じさせる。武芸だけでなく、知的好奇心も旺盛で、モスクワ近くの特別村に住んでいた外国人顧問や商人から、西欧の先進文化、特に航海術と近代軍事技術などを学ぶ。背丈が2メートル24センチといのも、並の人間ではなく、巨人を思わせる。腹違いの姉を修道院に送り込んで、単独ツァーリになると、西欧諸国に視察・研修旅行に出かける。オランダで船大工として働いたり、イギリスでは造船や海軍に関する知識を深める。13世紀にアレキサンダー・ネブスキーがペテルブルク辺りに侵入していたスエーデンを追い出すのに成功したが、16、17世紀の混乱の時代には再び、スエーデン領になっていた。ピュートルはスエーデン攻撃を始め、ペテルブルクに要塞を建設し、ここを確保するために、大都市建設に踏み切る。その強行なやり方には、批判も多いが、この美しい都市が誕生し、「西洋への窓」が開かれたのだ。それだけでなく、ロシアを近代化、西欧化するのに成功している。そのほか、歯医者の技術も修得して、近臣たちを追いかけて虫歯を抜いたとかいう逸話もある。またペテルゴフ離宮では自ら噴水を設計するという器用な人。52歳という若さで亡くなる。海に落ちた海軍兵を助けるため、冷たい海に飛び込み、それが原因で持病が悪化して亡くなる。なんとも勇ましく心優しいツァーリではないか?

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その夫人は?

政略結婚した相手は極端な保守派で、離婚する。再婚相手はかなりいかがわしい経歴のロシア人でもない女。彼女はピュートルの子を12人も生む。成人したのは娘二人だけだったが。こうした私生活ぶりにも、ピュートルの強い個性が表れている。進歩派としての彼の功績は日本の明治維新の頃とよく比較される。確かに強行に近代化を進めたことは日本と似ている。しかし、日本の明治維新の功労者たちには、彼のように自ら率先して学術/技術を修得した人はいただろうか?また全く違う側面だが、彼のように素性に関係なく恋愛した女を正式に認めさせた人はいただろうか(唯一桂小五郎がいた)? 正妃にしたので、彼女は夫の死後、皇帝になることができた。封建時代は日本の方が長かったから、そうした社会構造はもっとしっかり出来上がっていただろうが、それだけではないと思う。西洋の国々を旅行するのが楽しいのは、古代から女性にも人権があり、美貌だけでなく、知性でもって、社会の一員としての役目を担っていることだ。日本の歴史にはそれがない。女性は奥にいて、存在感はない。あるのはせいぜい頼朝の政子だ。
英語でよく「新しい血が必要」We need new bloodということを言う。刷新が必要な時に。こういう言い方はもちろん遺伝学考察から来ている。そういう意味でもピュートルが民族的に違う女を妃にしたので、そこから健全な後継者が輩出したのかもしれない。彼の死後、18世紀はエカテリーナ2世以外、皇帝らしからぬ人物が継承するが、19世紀には彼女のラインからアレキサンダー1世、ニコラス1世、アレキサンダー2世と3世、と実に皇帝らしい風貌の、頭も精神も確かな男性が皇帝になって、ロシアの近代化をさらに進め、世界の大国の仲間入りをする。エカテリーナ2世はもともとドイツ人、アレキサンダー3世の妻、ニコラス2世の母はデンマーク王の娘、こうして、ドイツ、スカンジナビアの血が混じったのがよかったようだ。だがその次のニコラス2世の時はドイツの皇女をもらい、血友病という難病を遺伝して悲劇となる。この辺が世襲制の限界というところ。
ピュートルは海軍を作り、軍事を強化するだけでなく、軍人または官僚という新しい貴族層と階級制を作る。ロシア国に貢献していない地方の地主から土地を取り上げ、新興国家公務員に分け与える。つまり軍部組織、または事務官僚の仕事、国家への貢献度によって、ランクがつけられた。こうして、近代社会の骨格が作られていったのだ。

郊外にある観光必見の場所

3日目は朝8時出発で、ペテルブルク郊外を1時間ほど南に行って、エスカリーナ・パレスを見に行く。町の名前はプーシキン市という。帝政時代はその名もずばり、ツァールコエ・セロー(夏の離宮)と呼ばれていたが、現在のロシア政府はそういう名前をできるだけ避けようとしている。プーシキンはロシアのシェークスピアとも呼ばれ、今でもロシアで最も愛されている詩人、作家である。彼は幼年時代から、中学校くらいまで、ここにあった貴族のための学校に行ったので、この名前がついている。

まずはエスカリーナ・パレスを観る

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エスカリーナ・パレスの豪華絢爛さもエルミタージュ美術館に近いレベル。全て大きく、絢爛豪華である。外装もエルミタージュのようなスタイルの建物で、白、ミント緑色、金色に塗られている。白は白い肌、緑は碧眼の色、金色はブロンド髪の色だという。ピュートルの娘エリザベータの命で建設が始まり、母親エカテリーナ1に敬意を表してこの名前になっている。建設は主にエカテリーナ2の時代で、エルミタージュと同じくラストレッリというイタリア人のアーキテクトが受け持ったから、似ているはず。第2次大戦中、ナチスが占領したため、ひどい損傷被害を受けたが、今は綺麗に修復されている。エルミタージュと同じく、縦列に並んだ20あまりの部屋は、それどれ緑のダイニングルーム、白のダイニングルームなどと呼ばれ、テーブルセット、椅子、壁、床、壁紙全てがマッチマッチでデザインされている。お客を驚歎させるため、あの手この手で考えたという。なんという身勝手さ、無駄さ、くだらなさ、ただ呆れるばかり。

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このパレスでは特に「琥珀の間」が有名。第2次大戦中、占領したドイツ軍がそっくり持って行ってしまったが、残った資料をもとに復元されている。琥珀はもともと大理石のような硬い石ではないので細工ができない。薄くかたどったものを窓側以外の3面の壁の上から下まで貼って、装飾されている。ここだけは写真が撮れない。デザインを盗まれたくないらしい。そのくらい、ロシア政府はこの復元に投資したのだ。

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さらに庭園を見学。その広さ、そしていくつもの庭園がある。エカテリーナ2はこの宮殿がとても気にいっていたらしい。休憩所のような建物の中で、男性3人がロシア民謡をアカペラ合唱してくれる。前日のユスーポフから2回目の合唱を聞く。皆いい声をしている。ニューヨークのメトロポリタン・オペラでは今、ロシア人をはじめ、バルト海3国からのオペラ歌手が多く活躍している。あの辺の人は声がいいらしい。

次はペトロゴフの噴水庭園

次の目的地、ペトロゴフへバスで北上。バルト海沿岸にあるペトロゴフに着くと、まずはランチのため1時間半の自由行動。ロシア人の観光客も多い。カフェテリア式のレストランが4、5軒並び、その外側にはテントを張った土産物屋が何十と並ぶ。

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このパレスの見どころはピュートル大帝自身が設計、デザインした噴水。まず最初に大滝(Grand Fountain)。後方が海抜60メートルの丘になっているのを利用して、自然の水圧だけで水が吹き上がるように設計されている。こういう仕掛けは古くは古代ローマ時代からあったようだし、スペインのアラハンブラなどでも見た。しかしこのスケールの大きさ、噴きあげる水柱の高さ、その装飾的なデザイン、金色に光った幾つもの彫像、それらが水しぶきを浴びている光景には圧倒される。金色は本当の金箔が使われ、4、5年ごとに張り替えられるという。維持費もかかりそう。噴水第1号のグランドさに圧倒され、次に進む、大滝から流れる水は横に小さい噴水がついた運河を通ってバルト海に流れ込む。

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次はいたずら噴水の幾つか。ベンチに座ろうとすると水が噴き出し、ドレスがびしょびしょになるのを見て、ピュートルは喜んだ。そういうおかしいところのある人間だったよう。その次のいたずら噴水は広い散歩道の両側に仕掛けがあり、時間が来ると、公園の係がやってきて、噴水を上げる。水は道の両側から道の真ん中に向かって、噴きあげる。開始時間5分前には両側に見物人の列ができ、何人かは傘を持って、道の真ん中に立ち、水が吹き出すのを待つ。水が吹き上がると、ティーネイジャーが5人、10人その中を走る。若い子はどこの同じ。6月でも寒いくらいの気候の中、平気で水の中を走り回って狂喜乱舞している。

ダーチャの村

帰り道、ペテルブルクまでの40分くらい間に、バスの窓から垣間見える現在のロシア国民の生活について、ガイドさんは話してくれる。ペテルブルクを出てすぐは、アパート群があり、建てられた時期によって、スタイルも規模をいろいろ。帰り道は農地でもなし、森林でもない地域だった。その辺りはペテルブルクの市民のダーチャが多くあるところだった。ダーチャとは、都会に住む人々のウィークエンド・ハウス。それを所有し、週末家族ぐるみでのんびりとした田舎生活をするのが、ロシア国民の最大の楽しみだとどこかで読んだ。チェーホフの戯曲にも出てくる。もちろんチェーホフ劇の登場人物は貴族とか中産階級だから、大家族と召使いが住めるくらいの立派なものだが、ソ連時代に庶民が獲得したものはそんなものではないと、ガイドさんは詳しく説明してくれる。ソ連時代は不動産所有権が存在しなかったから、皆都会でアパートを借りる。国民が何か国または党に貢献するようなことをすると、ご褒美に田舎の小さな土地を長期使用する権利を貰えたらしい。その小さな土地に人々はほとんどが手製の小屋を建て、週末や夏休みに暮らせるようにしていった。小屋の次は野菜畑、果樹園などを作り、多少の食料自給にも役だった。小屋の中は大きな一部屋に台所に食卓、居間用家具とベッドが入っている。そして、近所に住む同じような人々と情報交換をする。どうすれば、生活必需品が手に入れられか。それぞれが人脈網と物流源情報を持って、少しでも豊かな物質生活ができるように、小まめに近所付き合いをする。それがソ連時代の生き方だったし、楽しみだった。ソ連崩壊後、徐々にダーチャは使用権の持ち主に売却されたという。

記念の買い物

この日私は2つ、買い物をした。一つはエカテリーナ宮殿のギフトショップで琥珀のペンダントを買う。2つ目はペテルゴフの土産物屋でフリンジがついた、ロシアスタイルのショール。ものは白地のウールにピンク、紫、グレーの花柄に、白シルクのフリンジ。2000ルーブル(3千円)だった。安い。船でロシア語のレッスンの時、値切る方法を習ったが、私はとても値切れない。この時、1ドルは65ルーブルくらいで、数年前より、半分くらいにルーブル安になっているのだ。この綺麗なウールのショールが30ドルくらいで買えるのなら、もう十分得していると思ってしまう。だからこの店の男は日本人大好きだよっていうのだろう。

琥珀のペンダントについては、5センチの長さの梨型で鎖を通すところに金の細工があるものが気に入る。琥珀の玉の中には一見金箔に見えるようなゴミが見える。これが安いか、どうかは、相場がわからないので、なんとも言えないが、ミュージアムのギフトショップで買えば間違いない(「琥珀の間」の修復製作をしていたアーティストがここの商品を作っていると本にあった)ということだったので、決まった。買ってすぐその晩から愛用している。それをして夕食に行くと、同じテーブルの面々が「わっ、素敵、それ、今日買ったの?」っとコメントしてくる。皆目ざといし、褒めるのがうまい。

サンクトペテルブルクとお別れで、出航パーティー

ペトロゴフから帰ると、もう出航の準備ができていた。船にはすでに4日も宿泊していたのに、遭難を予想しての避難訓練は、この時初めて行われた。停泊している船で避難訓練は必要ないというわけだ。客室キャビンのクローゼットから救命用の浮きをつけ廊下に立ち、点検を受ける。そのあと、すぐに船は出航する。そしてやっと船長ご招待のウェルカム・パーティが開かれた。ちょっと小太りのこの船長さん、いかにもスラブ系という風貌。英語ができないので、挨拶はロシア語で、その後、マネージャーのオルガが英訳する。乾杯はレシービングラインで受け取ったシャンペーンで。その後、幾つかのオードブルが配られる。3日間の強行観光スケジュールをこなして、皆ホッとした様子。これからしばらくは、一息つける。

私はこう言うイベントのため、ドレスを2枚用意してきた。少なくともはじめと終わりにパーティがあるのを知っていたから。初めてのクルーズは1998年に乗ったアラスカンクルーズで、当時こういう場面では、皆もっとおしゃれをしていた。おしゃれというか、結婚式のお客さん程度の床まであるロングドレスを着たご婦人が多かった。18年も経つと、世の中の習慣は変わって、今回は、ワンピース姿がせいぜいだった。でもそれなりにアクセサリーやお化粧や、髪型で、皆さん少し華やかに装って、パーティー気分を盛り上げている。私は紺色の段々になったフレンチスリーブのドレスにその日エカテリーナ宮殿の土産物屋で買った白地にピンク、藤色、ブルーのペイズリー模様のショールをしていったところ、「オー、ロシア人見たいよ!」とロシア人のスタッフに大人気だった。

Saint Petersburg, Hermitage museum at night

ネヴァ川を上る?下る?

1時間後、食堂に移って、いつもよりちょっと豪華なディナーが始まる。船はこの3日間、その静かなことに驚いたが、まだエンジンがかかっていなかったことに気づく。出航と同時に、エンジンはフル回転しているはずだが、それでもとても静かで、鏡のような水面を走っている。窓から見える両岸の町中の景色がどんどん変わる。どのルートを通って、どっちの方向に行っているのかと、iPhoneのGPSをオンにすると、ネヴァ川を上流に向かって、走っていることがわかった。スマホの威力は、海外旅行で多いに発揮される。メールをチェックしたり、ニューヨークタイムズを読んだりは、ホテルのワイファイで、5、6年前からやっていたが、ここ1、2年はパスポートと云う海外でもスマホが使えるように、月60ドルを払って、海外に出る(といっても、まだヨーロッパとロシアだけだが)。こうすると、街を歩いている時にもスマホが使える。電話をかけることはほとんどないが、GPSが使える。碁盤の目状でないパリのような街を歩く時など、素晴らしい。このクルーズでは、初めて使ってみる。感度はよく、すぐに反応。どこにいるかはすぐ、わかったが、下流に向かっているのか、上流に向かっているのかが分かるまでには、10分くらい画面とにらめっこしていた。そして私たちはネヴァ川を上流に向かっていることを知る。バルト海には出ないで、上流に向かって直接ラドガ湖に入る。このルートについてはどこかで読んだことがある。このペテルブルグは第2次大戦中、847日もの間、ナチスに封鎖される。唯一、使えたのが、このルート。すべてが凍てついた冬にはここを通って、逃亡したり、細々だったが、市内に食料や燃料が運ばれた。
第2次大戦でロシアは2千6百万人の犠牲者を出した(ペテルブルクだけでも120万人)。日本人はロシアは大戦最後に対日戦争に参戦して、戦後、日本人捕虜を酷使したと恨む傾向にあるが(私の父がそうだったし、私も同感)、ロシア国民の犠牲を考えると、あまり責められない。もちろん、スターリンの戦略の失敗に起因する部分が大きな要因というが、ヒットラーに徹底的に攻撃されたこともある。戦争を責めるしかないと思う。
夜11時頃になっても、まだ闇夜ではなく(5月28日だから)、湖にも達していない。両岸に人家の明かりはない。

夕食での同行客との団欒で、これまでの観光の感想としては、ペテルブルクは皆あまりにも帝政時代のものばかりで、もっと、現代のものが見たいということで、意見一致。この日から始まったクルーズ中期は現代どころか、主に中世のものを見ることになる。(中篇に続く)

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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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