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萩原治子の「この旅でいきいき」Vol.5

「アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏

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アイスランドについての予備知識:面積は北海道+四国くらいだそう。北極圏の少し南、ヨーロッパの北西に位置して、グリーンランド(デンマーク属の自治国)の方が近い。人口は34万人。人種的には6、7世紀にほとんど無人の島に移住定着したバイキングと、さらってきたアイリッシュの子孫。北欧文化に近く、キリスト教はプロテスタントで軍隊を持たない民主国家。現在も活発な火山活動が続いている。私が行った季節は8月の1週目。

前回までの記事
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く

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魅力#1: ヴァトナヨークル万年雪とその周辺

アイスランドの地図を広げると、真ん中に白抜きになった部分がいくつかある。これはアイス・キャップ、万年雪が横たわっているところ。つまり、その下がどういう地形になっているかまだわかっていないから白抜きなのだ。この島の南半分に4つあり、圧倒的に大きいのが南東部にあるヴァトナヨークル万年雪。面積にして、島の8分の1くらいはありそう。そこを目指した。

私は「エクストリーム・アイスランド・ツアー」という地元のツアー会社がやっている1泊2日のツアーに参加。15人乗りくらいの立派な黒塗りベンツのヴァンが、レイキャビックのホテルで私をピックアップしてくれた。運転手兼ガイドはマイケルという40代のアイスランド男性。夏に観光業をやっていないときはロックバンドをやっていて、40カ国は回ったというから、かなりサクセスフルなミュージシャンらしい。英語もうまい。同乗者は台湾からの女二人(バーガール?)と男一人の三人組み、中国から男性二人(多分ゲイ・カップル)、インドから2組の若い夫婦(金持ち姉妹とその夫たち)、それにロシアから株屋の男性一人(ロシアでも株で儲けられるらしい)。私も含めて、皆自分で運転したくない人たちだ。

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灰色の土砂流に流された原野を往く

レイキャビックからリングロード(Ring Road=島を一周する国道)を南東方向へ約2時間ドライブ。途中、スコゥガフォスという大滝を見学。そのあと島の南端のヴィーク(ここは玄武岩で有名)から、今度は東北東方向に1時間ほどドライブして、ヴァトナ万年雪に近づく。左手奥に見える山並みも始めは緑がかっていたが、だんだん雨が降ってきたこともあって、ダークグレーになり、その上から白い雲が垂れ下がっている。霧も出ている。
それから2、30分、あたり一面チャコールグレイの原野を走る。水をたっぷり含んだ火山灰の泥地のようで、その中を川がいく筋も蛇行しているのが見える。ヴァトナの中にある活火山が1996年に噴火して、その上にあった万年雪が吹き飛ばされ、土砂流となった。その過程に巨大カルデラができ、それいっぱいに土砂と水が溜まったが、数ヶ月後それが決壊した(glacial bursts)。横を走っていたリングロードの距離にすると12キロあまりの範囲に亘って、土砂と水と氷が一斉に海岸に向かって流れ、この私たちが今走っているグレイの灰で覆われた原野になったそう。それ以前にあった鉄橋など、押しつぶされてひん曲がって残っている。
見渡す限りオーガニックなものは水以外全くなし。だが、美しかった。その滑らかな表面も、その中を流れる幾筋もの大小の川も、ちょうど雲が薄くなり漏れてきた夕日を浴びて光っているからか、死んだという印象ではない。

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途中、灰色がかったモスグリーン色の苔が被った大小の丸っこいものが一面を覆っているところを見学する。マイケルの説明によると、噴火時に溶岩や火山灰に覆われ、生物が全くいなくなった土地にも、何十年という年月が経つと、この気候でも少しずつ苔が生えてという。さらに何十年すると、その丸っぽい溶岩が分解されて、凸凹が少なくなる。そこに、アイスランドのファーマーは羊を放し飼いにする。羊は苔を食べ、辺りの生物活動は活性化される。こうした長期に亘たる努力のすえ、放牧地として採算が取れる状態になる。すでになったところも西部地方にはあるが、ここ南東部はそこまでいくにはまだまだ数十年かかるという。

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氷河を間近に見る

この凍結した巨大なヴァトナ山岳地帯(氷河期ではなく、2500年前ごろできたという)からいくつもの渓谷が海岸に向かって連なっている。山の上、稜線には陽も当たって表面の氷は溶けるが、谷あいは凍ったまま。それが下に横たわる火山の熱や外気の温度で溶けて、または自分の重みで、ずり落ちていく。その姿はまるで河が流れているように見えるから「氷河」。そういうものがいくつも左手奥に見え隠れしている。

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チャコールグレイ色の泥地をひたすら、1時間ほど走ってから、氷河が道路近くまできている地点の駐車場に、マイケルは車を止めた。観光客がそうした氷河を間近に見学できるところがあるからだ。5分ほど平地を歩くとインフォメーションセンターもあり、ヴィトナヨーカル国立公園のトレッキング基点となっているという。さらに前方にある山の裾野の勾配がある道を10分ほど登っていく。道に沿って左に曲がると、右手の視界がひらけた。目に飛び込んできたのは、ブルーホワイトの大氷河が谷をずり落ちて、そこまできている光景だった。そして右下に目と移すと、その氷河の河口ともいうべき部分が見え、泥色の液体の上に氷河の欠片が浮いていた。欠片は大、中、小、大きさは様々、形も様々、中にはムーアの彫刻を思い出させるのもある。色も基本は氷の白だが、透き通ったブルーに見えるのもあるし、それに黒の線や面が入っているのもあり、皆泥の池に浮かんでいる。池の水面は動きがないように見える。なんとも異様な光景。マイケルは夏場は氷河の表面の温度が上がり、溶け方の早いので、じっと見ていると下降方向に落ちて行くのがわかるよっと説明。確かにじっと見ていると、海岸方向にゆっくり移動している。あまりの異様で殺伐とした光景に私たちはただ呆然。泥水色と氷河にかぶさっていた火山灰の黒とで、美しいとは言えないが、氷河が崩れているところに、こうも近くまで接近できたことに感動する。
マイケルは帰り道、今見た光景と違って、冷たい霧の中でこの自然に色を添えてくれている高山植物的な草花の説明してくれる。

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ヨークルスアゥルロゥン(氷河湖)

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車に戻り、さらに30分ほどで今日の目的地ヨークルスアゥンロァンに着く。アイスランド語でヨークルが氷、サァンが川、ロァンがラグーンで、くっつけて氷河湖、そのままヨーカルスアゥンロァン、英語でジョカルサーロンという地名になっている。ラグーンと言えば、南洋の海岸の浅瀬しか知らなかったが、こういう海のそばの水溜りを意味するらしい。ここは海岸から100メートル位のところに位置し、氷河はラグーンの山側のついそこまできている。このラグーンはさっきのところよりずっと大きく、湖のよう。水はもっと水色で、風がないので水面は鏡のよう。氷河の欠片はさまざまな形だが、相当大きなものも氷河のマスから分離して、水の中で泥を洗い落として、美しい青味を帯びた氷の造形物となって、澄んだ水の中に好き勝手に浮かんでいる。そしてじっとみていると、浮かんでいる氷片は一方方向に流れているのがはっきりわかる。その方向に目を移すと、湖はだんだん川のように細くなり、その上に今私たちが通った鉄橋が見える。その先は海岸らしい。
そこまで迫っている氷河からとけ流れ出る水が、20世紀に起こった地殻変化でせき止められ、このラグーンができたと説明書にある。近年の地球温暖化で年々、水量が増え、今では水深250メートとアイスランドで一番深い湖だという。だからここは比較的新しい観光名所なのだ。
5分ほどもじっと見ていると、大小の氷河の欠片がどんどん海の方向に流されていく。私たちは茫然と岸際を行ったり来たりしたり、または少し離れた丘の上に登って、ラグーンの奥からゆっくり移動してくる氷の造形物を目で追い、川下で少し勢いを増して流れて海に向かって小さくなっていくと、また上流に目を向ける。何千年と眠っていた氷が今こうして自分の目の前で溶けて消滅していく姿を脳裏に焼き付ける。

8月4日(金)

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翌朝、その鉄橋の反対側にある海岸に行く。ここで私は決定的にアイスランドならではの光景を、目撃してiPhoneに収めることができた。遠浅の静かなビーチに流されてきた氷の塊が、氷の彫刻のような欠片になって波間を漂っている。ビーチの砂はまっ黒、その上を白い波がジワジワと押し寄せては、サーっと退いて行くのが繰り返えされる。
その日の空は薄曇り。蒼い空ではない。波に洗われている氷河の塊は泥の池の中のときと違い、完全に泥を落として、多分その過程でさらに小さくブレイクした氷片となって、浜辺の波に身をまかせている。

白っぽいのや、全体がブルーとか、透明でレースのようになっているものなど、さまざま。寄せては退く波の中の芸術品を何10分も飽きずに眺める。美しい氷の彫刻が消えて行くのはかわいそうという気持ちにもなる。この曇り空がよけいに感傷的な光景にしている。しかしそう簡単に溶けないことがわかる。氷は冷蔵庫の氷より硬いのだ。きっと何万年も凍っていたのだから。自然の魔力を目撃しているようだった。

そのあと、前日行ったラグーンに戻り、水陸両用の乗り物で氷の間を2、30分走り、さまざまな造形物を近い距離から鑑賞。船はあまり近くまでは行かない。氷山と同じく、ちょっとした波にもひっくり返ることもあるからだ。カヌーに乗った係員がフットボール大の氷を届けてくれる。それは完全に透明で滑らかな丸っこいものだった。

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魅力#2: ゴールデンサークル 栄光の建国時代を偲ぶ

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一般的なアイスランド観光のナンバー1スポットはこのゴールデンサークル。レイキャビックから車で約1時間、内陸に入ったところ。ここはアイルランド建国ゆかりの地。このとき暦は盛夏だったから、高い木はなくても、背の低い灌木類や草、苔で美しい緑色と湖水の風景があり、自然の豊かさを感じさせる。ここはこの美しい自然だけでなく、アイスランドの歴史的に重要なところ。約1090年前(西暦930年から)にここに定住したバイキングたちが、初の全員参加の集会、アルシンギを開いたという。共同体の話し合い場所として、彼らは島の中心に位置するこの地を選んだ。彼らは知らなかっただろうが、実はここは北米プレートとユーラシア・プレートがぶつかっているところ。二つのプレートの狭間に水がたまり、細長い湖になっている(この湖をアクアラングをつけて、潜ることもできる!)。そして二つのプレートがまだ熱い溶岩状態でぶつかったときにできた岩の壁が、ほとんど垂直に、境界線に沿ってそそり立っている。1000年前に直接民主主義集会(アルシンギ)にこの場が選ばれた理由は、マイクロフォンがない時代にこの壁が反響版の役目をして1万人の直接議事進行が可能だったからだという。この人間の知恵!わたしは感激してしまった。

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アイスランド建国の頃

アイスランドの最初の定住者は6、7世紀にアイルランドからきた修道士だった。その次がバイキング。彼らは航海術がうまくなると、また南方にもっと住みやすい気候の土地が空いているのを知って、船に家族、家畜を積み込んで、定住するべく無人の地を探すようになる。9世紀にその定住地をアイスランドに求めた。初めは往ったり来たりだったようだが、その内にコミュニティを作って、畑を開墾、羊を飼い、定住するようになる。西暦930年に全員参加の集会が開かれる。当時の人口は2万程度。だから半直接民主主義が可能だった。バイキングの土着宗教とキリスト教とどちらを選択するかに迫られ、優秀な法学士がノルウェーに送られ、彼が勉強(文字が無い時代、彼は全てを暗記)、研究した結果、アイスランドにはキリスト教が適しているという結論を出して、そうなった。西暦1000年頃のことである。その前後200年が独立共同体としての全盛期。今でもその頃からの伝説が受け継がれている。

その昔はいまのように木はなかった(近代に植林された)ようだが、この美しい景観の場所できっと年で一番気候の良い時期に、島のあっちこっちから、家族も一緒に集まり、島の運営を話し合った。またお嫁さん探しも行われたという。島民の生活はそれなりに進歩したが、1104年に火山の噴火があり、農業は凶作で、生活は困窮していく。

それだけでなく、このような民主的な運営体制も、家対家、村対村、地域対地域の利害関係から、闘争になり、自然消滅したらしい。国として、成り立たなくなり、デンマークの属国となる。さらにこんな地球の果てのような離島にも、15世紀には、他のヨーロッパ諸国と同様、黒死病が襲い、人口が半分になったり、17世紀初頭にはトルコの海賊に占領されたり、さらに火山の大噴火にも見舞われる。1783年のラキ火山の大噴火からの灰はヨーロッパ全体を覆い、本土でも不作続きとなる。これが遠因でフランス革命が起こったと、ガイドはちょっと得意げに教えてくれた。

グトルフォス

ゴールデンサークルから、少し東に行き、観光名所をもう一つ見る。グトルフォスという大滝。駐車場から、滝までのアプローチがいい。滝から落ちた水が流れる川の横を歩くうちに大滝の全景が見えてくる。マジェスティックひとこと! 幸運にもその日、空は蒼く、白い雲が浮かび、滝からゴーゴーと流れ落ちる大量の水から、水煙がたち、虹が出ている。水煙の水の粒に真夏の太陽が光り、名前の通り「黄金の滝」に見える! 滝壺の左手にまるで人工的に造ったような自然の展望台があり、大量の水が上流の広い川幅から流れ、滝のところで狭まり、ゴーゴーと流れ落ちるのがよく見える。滝の落差は30メートルくらい。その水は清流ではなく、氷河からの泥が混じった濁流、それでも水が落ちるところは真っ白になっている。

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魅力#3: 観光で湧く首都レイキャビックとブルー・ラグーン

昔(60年代)、アメリカの大学生が夏休みなどにヨーロッパに行けるようになった時、アイスランド経由というのが流行った。安いから。その頃はまだプロペラ機で、大西洋を横断するのに途中で給油が必要だった。その給油地点がアイスランドだった。アリスも初めてパリに行った時、このルートだった。ここからルクセンブルクに飛んだ。だから、私にとって何か懐かしいものがある。

アリス:カリフォルニア・クイジーヌで有名になったアリス・ウォータースのこと。筆者は彼女に関する評伝「アリス・ウォータースとシェ・パニース」を翻訳している。

レイキャビックのダウンタウン

この国のインターネット普及率は世界一、またスカンジナビアの伝統文化を受け継いでか、世界有数の福祉国家でもある。34万の国民の75%が住んでいるという首都、レイキャビックは、特に夏はなかなかいい街である。街を歩いてみると、若者が多いことに気づく。しかし観光客なのか地元の若者なのかの区別はつかない。観光客というより、一年中世界を放浪している人々なのかもしれない。現在この街はそういう人々を惹きつけている。

町の真ん中にあるチョルトニン湖はどちらかというと池という大きさ。私は町の南にあるアイスランド大学のキャンパスの端にある国立ミュージアムの帰りに、北に向かって歩いてこの池にたどり着いた。両岸が緑の公園になっていて、日向ぼっこの人々が見える。その外側は赤い屋根の住宅が並んでいる。
遠くに見える塔はハットルグリムス教会。1974年に完成したこの街最大のもの。

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チョルトニン湖の北岸とオールド港の間はオールド・タウンと呼ばれる。近世以前に存在したレイキャビックは、ここら辺が中心の小さい町だった。近年、辺りを発掘した結果、過去千年の昔からの漁船の修理小屋、鍛冶屋、大工、石屋、それに羊毛加工工場、港から揚がってくる魚介類の処理場のあとが見つかったという。
その横に19世紀に建てられた国会議事堂(玄武岩が使われている)が頑丈で威厳ある姿で立っている。

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現在のオールド港にはパッフィンやクジラを見に行くツアー船の発着場が並んでいる。港の東側の突き出した部分に、“ハルパ”というコンサートホールがある。なかなかインプレッシブな建物。種々の賞を取ったデザインというのは納得できる。私が見に行った時は、ちょうど建物に夕日(夜9時ごろ)が当たり、いろいろな角度にセットされた窓ガラスがモザイクのように見える外観に、反映して美しかった。窓ガラスが4角ではないのは、これもアイスランドに多い、5角、6角の玄武岩の柱をイメージしている。この国としては破格の資金をつぎ込んだ大規模プロジェクトで、建設中途で2008年の経済危機に見舞われ、国と市が残りを引き受けて2011年に完成。申し分ない洗練された現代美が、この近代化した町のシンボルとなって、観光ブームを助けている。近くにはシャレたカフェやレストランも並んでいる。

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帰国前には空港そばのブルーラグーンへ

有名なブルーラグーンという温水プールは、レイキャビックから南西に車で30分くらいのところにある。このグリーンブルーに濁ったお湯と、あっちこっちからモクモクたつ湯けむりの風景は絶対外せないツーリストスポット。
摂氏37度のお湯は地熱発電に使われた後の排出水を活用。2度目のご奉公というわけだ。このブルーグリーンの色は一種の藻が発生しているからだという。かなり広い面積がプールになっている。形は丸型を3つ4つ組み合わせたようなもので、湯水の高さは大人の胸くらい。大人は少し腰を落とせば、肩くらいまで浸かれる。4歳の孫は両腕に浮き輪をつけて泳いで移動。温度は摂氏37度から40度にセットしてある。温かいお湯が出てくる周辺は暖かい。立ち上がると夏といえども20度しかない気候だから、涼しい。入場券には飲み物と白いマスクを顔に塗る洗顔美容体験も含まれている。両方ともお湯に浸かったまま、中に設置されたバーでこのサービスを受ける。

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ここは観光客に大人気で、2、3年前は芋の子を洗う混雑ぶりだったという。それで予約制を導入した。全てはインターネット上で行われる。それから取り残された人々が来るところではないらしい。冬にはこのお湯に浸かりながら、オーロラを見ることもできるとどこかで読んだ。北極圏に近いこの国の冬は暗いが、気温も氷点下に少しいく位。積雪もほんのり白くなる程度だという。
1時間半くらいでランチ時間となり、ゴム草履(持ち帰りOK)を履いて、用意されたバスローブを羽織ってそのままレストランへ。ガラス越しにさんさんと陽があたる室内でラム・チョップとか、バケツに入ったムール貝とか、ベーコンとチキンの入ったサラダとかを食べる。全ての出入りもレストランの支払いも手首に巻いたテープで可能だった。

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魅力#4: アイスランドの生存をかけた驚くべき歴史

#2のゴールデン・サークルのところで書いたように 、11、12世紀はこの国の輝かしいゴールデン・エイジだった。そのあとは気候の変化もあり、火山の大爆発も続き、生存が難しくなっていく。ノルウェーの属国となって、援助を受ける。宗主国はスウェーデンのことも、デンマークのこともあった。どこかの離島では住民の赤ちゃんが育たなかったらしい。人口千人くらいでは近親相姦も多く、遺伝的にも問題。

緯度は北極圏の少し南。それでもあの偉大なメキシコ湾流のお陰で、緯度の割には酷寒ではない。草は生えるが、木は育たない。だから船が造れない。だからデンマークなどに頼らざるをえなかった。鱈は近海にいくらでもいたが、小さな手漕ぎ舟での零細漁業しかできなかった。それが14世紀になって、イギリスなどからの投資で、少し遠くへ行く漁業が可能になった。タラやニシンを大量に獲り、干したものをイギリスが買ってくれた。こうして、国として少しは潤ってくるが、そのあと黒死病で人口は半分になり、そんなところにもトルコの海賊が襲ってくる。

17、8世紀にまた火山の噴火で灰に覆われ、不作続きとなる。まさしくダーク・エイジ。19世紀にはカナダなどへの移民も増える。

国運は第2次大戦で変わる。大戦中、この最北の地理的位置が利点となり、連合軍側の英国とアメリカがアイスランドにきて、ここをドイツ攻撃の拠点とした。運よく連合軍が勝利した。中立国(軍隊なしの)という国策があるので、戦後はすぐにお引き取りいただこうとするが、一方で1944年に独立国となり、戦後はすぐにNATOに参加したから、その関係で戦後もアメリカ軍が1950年代まで駐留していた。その間に国は近代化に成功し発展する。 だから英語とコカコーラが国民に浸透している。

1974年にはリング・ロードと呼ばれる島を1周する道路が建設される。1980年には世界初の女性首相を選出。だが21世紀初頭には流行りの金融改革に手を出し、豊かになった国民の生活の記事が一時は欧米の新聞を賑わしたが、2008年のリーマンショックで貨幣暴落。全ては元の木阿弥となる。それ以降は観光に力を入れ、アイスランドらしい地味な生活に戻って、穏健な生活をしている。そして2010年の火山爆発。次の爆発もいつ起こるかわからない。

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魅力#5:他のヨーロッパの国々にはないユニークなところ

北ヨーロッパ初の文学文化
最果ての島だが、古代ギリシャの探検家ピュテアスはアイスランドを‘トゥーレ“と呼んで、存在を記述している。12、3世紀には、自国の歴史的な出来事やファミリー・ヒストリーを”サガ(物語)“として散文調で羊皮に記述した。これらは北ヨーロッパ最初の自国語(ラテン語以外)で書かれた文学書。ノルウェーやデンマークの王家の記録も書き、文書はアイスランドから持ち出され、18世紀にアイスランドに独立運動の動きが起こってから里帰りする。
ダーク・エイジ中も、火と氷の神秘的な自然環境とドラマに満ちたサガ物語は、北部ヨーロッパ人の想像力を掻き立てたと思われる。ワグナーの「リング・サイクル」の話は、北欧およびドイツ神話が元になっているが、ブルンヒルデが火に囲まれて眠るところなど、アイスランドの自然環境からヒントを得たのではないか? またジュール・ヴェルヌの「地球の中心への旅(日本語題は「地底旅行」」(1864年)という初のS F小説は、ドイツ人博士がアイスランドのサガ物語を読むところから始まり、レイキャビックの北にあるスナイフェルスヨーカルという活火山から地球の中心に向かう(出てきたところはイタリアのストロンボリ)。

アイスランドは軍隊を持たない中立国

アイスランドはNATO(北大西洋条約機構)には参加しているが、軍隊は持たない。ボビー・フィッシャーという1970年代に有名になったチェスの天才は、国政を破った問題で母国アメリカに帰れず、日本に長期居住していたが、最後はここに来て、亡くなった。お墓があるそう。1972年に当時のチェスの最高峰であったアメリカのフィッシャー対ソ連のスパッスキーの試合はここで行われた。アイスランドには大昔からチェスのようなボード・ゲームがあった。それでチェスの世界選手権ともいうべきこの二人の試合にアイスランドが選ばれた、と私は思っていたが、ウィキペディアを読むと、それは違っていた。1970年代は米ソ冷戦の真っ最中で、軍装備と宇宙開発だけでなく、チェスゲームでも競争していた。アイスランドは西欧にある中立国としての役割を仰せつかったということらしい。だからもっと後年(1986年)レーガン/ゴルバチョフ会談の場にもなったと思われる。

アイスランドは捕鯨国

アイスランドは日本とノルウェーとともに、世界で捕鯨をしている近代国家3カ国の一つ。この国では伝統的に食する人は少数派。また商業的にやった歴史もない。ノルウェー人が獲ったクジラを解体する工場をここでやっていたこともあった。また小舟で獲った小さめの鯨やビーチに打ち上げられた鯨はその肉はもちろん、その皮も骨(骨は建材として貴重)も全てが活用された記録はある。
現在の国家の方針では、ミンク鯨は近海に十分の数が棲息しているということで、今年は238頭まで獲っていいことに決定(日本も科学的研究目的で、ほぼ同数を捕獲していたが、この7月から商業的な捕鯨が始まった)。ある家族が何代かに亘って(もちろん人を雇って)それを生業としている。西北のフィヨルド地方に工場があるらしい。動物愛護グループやグリーンな人々から批判を受けているが、現代の捕鯨技術では、銛の先に爆発物がついていて、刺さって体内に入るとそれが爆発するので、鯨は苦しむことなく即死だという。そして解体された鯨肉のほとんどは日本に輸出されるという記事を最近ニューヨーク・タイムズで読む。日本の生鮮食品管理の基準が厳しく大変だというオーナーのコメントがあった。日本は大国だからここ何十年大っぴらに捕鯨ができなかった。この7月からの商業捕鯨再開でも、捕獲数は同じ程度らしい。鯨料理店の数は今すでに減ったとはいえ、まだファンはいるらしく、こうやってアイスランド(それにノルウェー)から鯨肉を買って、国内消費に対応しているというのが現状らしい。

私はこの国際的規制に関しては、欧米諸国の味方ではない。サステイナブルな範囲で許可されるべきだと考える。19世紀から鯨油のために彼らは世界中で獲りまくった。年間5万頭という鯨が捕獲されたという。彼らが乱獲したから、今保護しなければならない状況なのだ。あまりに勝手な言い分だと思う。しかし、数の問題ではなく、動物愛護の観点から、また万物の霊長として、殺生については倫理的に検証したいと西洋人は考える。鯨のように知能指数の高い動物を殺して食べるのは、共食いになるのではないかという意見のグループもある。イルカ保護も似た見解で、4、5年前のドキュメンタリー映画に日本の和歌山のどこかで大量のイルカを湾に追い込んで棍棒で叩いて殺すシーンが世界的は反響を起こしたのも、イルカの知能指数が高いから。ニューヨーク・タイムズの記事でも、現在爆弾付きの銛を使っているとわざわざ書くのは、そういうことなのだ。

アイスランドは地熱と水力で電力100%を自給

この国は火山の地熱を上手に利用している。政府は全島に配管をして、冷たい水道水と別に温泉のお湯を各家庭にタダで供給している。温水は摂氏38度に保たれている。私も島東部のホテルでそのお湯でシャワーをしたが、熱くなく、冷たくなくちょうどよいお湯加減だった。あの有名はブルー・ラグーンのお湯は地熱発電の際の冷却水、それをプールに貯めている。

緯度は63度から66度だが、メキシコ湾流のおかげで、冬もそう寒くない。雪も降るし、氷点下に下がることもあるけど、温泉があっちこっちに湧き出ている。1920年代、ここの生活が厳しくなって、カナダに移民した人々はカナダの極寒環境に馴染めず、多くは何年か後、本国に戻ったという。

アイスランド人がコロンブスより500年前にアメリカ大陸を発見した!

レイキャビックにある有名なハットルグリムス教会(41年間かかって1974年に完成。このデザインはヴィークの海岸にある柱型の玄武岩をイメージしている)と向き合っている銅像はレイフ・エリックソン(彼の父親、“赤毛のエリック”はグリーンランドに定住を試みた)という国民的英雄。西暦1000年頃に彼は北アメリカまで行ったと伝えられる。その頃までにドイツ人からワインという美酒についての噂を聞いていた。新大陸でその元となるブドウを発見。そこで新大陸は“Vinland(ワインの地)”と呼ばれ、彼の後も後継者団が2、3百年はブドウを求めて新天地に移住を試みたが、その度に敵対心の強い原住民に追い返されたという記録が残っているという。

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彼らが最終的に新大陸を諦めたのは1347年。コロンブスは1477年にイギリス船の乗組員として、アイスランドに行っている。そのときにアイスランド人から、この話を聞いたのではないかと、コロンブスの息子がどこかに書いているという。何れにしても、500年も前にアメリカ大陸を発見したということは事実ではあるが、地球儀で観ると、ノルウェー、アイスランド、グリーンランド、それにカナダの北部は距離的に近いことがわかる。しかもこの辺り一帯は冬は氷結する。グリーンランドはアラスカのイヌイットが住んでいるし、スカンディナヴィアのラップ族もアジア系。彼らが行った頃にはアメリカ大陸だけでなく、北極圏内もすでにアジア系に占領されていて、白人系は仕方なしにアイスランドに戻ったようだ。


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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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