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#73「人生という時間の針」

時計の秒針を見ていると、今この瞬間、確かに時間は経過しているんだという普遍の事実を突きつけられ、焦りを感じる。ショーウィンドウに並べられた無数の時計の秒針がそれぞれのタイミングで動いる光景が、どこか恐ろしく感じてしまった。

日々の暮らしの中で、秒針を見かける機会が以前と比べ、ずっと少なくなったような気がする。時間を確認する時、スマホやPCの画面で表示される数字を見て時間を認識している。長針や短針といった針の動くアナログ時計を見る機会は少ない。数字だけで示された時刻と、針が示してくれる時刻は、どうも異なる受け取り方をする。例えば、11時20分を表す際、数字だけであれば20分である事実にフォーカスするが、針で示された時刻だと、12時まであと40分もあるという感覚を受け取る。11時から12時の間の範囲で情報を捉えるため、まだ半分経過していないことに意識が向いてしまうからだ。

その空間にどんな時計を置くのかによって、お店の雰囲気作りやマーケティングとして利用できるから奥が深い。私がよく訪れる銭湯や温泉の脱衣所は針のあるアナログ時計を置くところがほとんどで、数字のみのデジタル時計を置いているところはほとんど見かけないような気がする。視覚的な情報の差やデザインの大切さを痛感させられる。

最近は時が経つのが本当に早い。何ヶ月も前から楽しみにしていた出来事や予定も、気付けばもう過去の記憶に変わっている。そこに対して寂しいという気持ちはあまりなくて、次はどんな未来が待っているだろうというワクワク感の方が強い。そう思っていた。しかし今日、久しぶりにアナログ時計の針を見て、疑心暗鬼に陥った。アナログ時計は、1〜12までの数字が書かれていて、過去も未来も針で示すことができる。でも、デジタル時計は今この瞬間のみを示し続ける。どちらが良い悪いではないが、アナログ時計の針を見た時に、一斉に動く秒針を見て、生と言うものを感じ取ったのかもしれない。

ここにある時計のように、私たち一人一人は別の時間軸で生活している。みな生まれた瞬間から秒針が動き始める。よって、共通した時刻で生活しながらも、一人ひとりの実際に生きた形跡としての時間は異なり、時計で示せば、バラバラな長針の動きをしていることになる。

一斉に動く時計と、人の生が重なってみえたのかもしれない。私には私のタイミングで動く針があり、彼女や家族とも違う進み方をしている。進むスピードはみな同じでも、スタートのタイミングと終わりのタイミングはみなバラバラなのだ。どこで針が止まるのか、それは誰にも分からない。

今私の家には、電池が切れて針の動かなくなった腕時計がある。終わりなんていつ来るか分からないから、今この瞬間を大切にすること。私の心の中で進み続ける針の動きが止まるその時まで、私は前に前にと進み続けたい。

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