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体があるうちに

明日、納骨するための骨を、先週実家に引き取りに行った。

今年の1月に心筋梗塞で急逝した母の骨。

実家は駅から歩いて20分、延々続く坂道。
シャツはすぐ汗でべとべとになった。
目の前にはずっと生駒山がある。

この道は私が幼稚園の頃
めずらしく雪が積もった時
きゃあきゃあ言いながら母の手をつないで
すべらないように歩いた道。

この道は母のバイクの後ろに乗って
絵画教室に通った道。


30年分の記憶が刺して痛い。

母がいなくなってもう7ヶ月もたつのに
母との日々を思い出すと、涙はいつも急にでてくる。失禁みたいに予告なく、止まらない。

亡くなる一週間前、お正月で夫と3歳の息子と実家に帰っていた。
皆でこたつに入って、狭いから肩ぎゅうぎゅうに寄せて
二見の豚まんを食べた。その時触れた母の腕の柔らかみや
温かさが残っている矢先の訃報だった。

そのこたつで母は亡くなった。
おそらく苦しまず、眠るように。

まだ私が実家で生活していた頃、隣で寝ている母の寝息が止まってないか
怖くて不安でよく確認していたことを思い出す。
おそれていたことは現実になった。

傲慢な私は実家に帰るたびに
家汚い、母、寝間着みたいな服で嫌、スリッパなんでないの?と
ブウブウ言っていた。

そんなもんどうでもよかった。
家が汚かろうが、母が寝間着みたいな服だろうが、スリッパがなかろうが
母がいて、母の手が体が匂いがぬくもりがあって
ただ、いてくれればよかったのに。なんて傲慢。

もう母の手も体も匂いもぬくもりも、声もない。
どこにもない。

どこまで行っても会えない。
例えブラジルまで行っても母はいない。
どこまで行ってもいない。

携帯に電話をかけても
「は~い」とあの声で返事をしてくれる人はいない。
携帯は私が先々月に解約した。

今は母の声を覚えているけど
私はきっとだんだん忘れるんだろう。

一番背中が凍り付いた瞬間は
警察の冷暗所で母と対面した時でも
納棺の時でもない。

母が亡くなった朝6時頃に兄からの2通に分けたショートメールの最後の行の
「検死」の文字を見た時。

「私は母にまだ何もしていない」が一番最初にきた感情。

大事な人は多くない。

なのに大事な人を大事にできなくて、私は何をやっていたのか。

叶わなくなってから言うなんて卑怯すぎる。
だからもう何も出来なかった、なんて言いたくはないし言わない。
けどどうしてもふつふつ沸いてきてしまう。


大事にするってどういうことか。

それはただ
一緒に時間を過ごすこと。

ご飯を食べる。
話をする。
手を繋いで歩く。
同じものを見る。
同じ空間にいる。

体を使ってできることを
ただたくさんするだけで、きっと良かった。
そんな単純な日々の営みを
体がなくなるまでに
持っている時間の最大限を使って積み重ねれば良かっただけ。

私は何をしていたのだろう。
優先順位がばらばらだ。

大事にしたい人や事のために
自分の命の時間を使わないでどうするのだ。
くだらないことに時間を散財してばかりだった。

「母が亡くなりました」という言葉がいつまでもしっくりしない。
「お母さんが死んじゃったんだよ」の方が今の気持ちに添う。


明日は東京から兄夫婦も来て、納骨しにいく。
父は高齢のため、自宅にいる。
もしかしたら母は自分の実家のお墓に入りたかったのかもしれない。

でももう聞けない。
聞きたいことは、山ほどあるのに
もう母からの返事は聞けない。








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