『怪物』ー「理解できない他人」ではなく、「他者の理解できなさ」を描く。

◾️序 火事から始まる物語

冒頭の凄まじい火事から、惹き込まれる。
街の中心で燃え盛る高層ビル、剥がれ落ちる外壁、またたくサイレンとともにあらわれる消防車から梯子がのび、人々が見つめるなか、散水がはじまる。

映画はこの火事の場面にはじまり、安藤サクラ演じる母親視点で展開したのち、また冒頭の火事に戻り永山瑛太演じる担任教師視点で展開、また火事に戻る、といった具合で繰り返される。
巨大な火事を、登場人物たちがそれぞれの視点から眺めていたことが、後に明らかとなる。

このシーンによってすでに、この映画の構造が明かされていた。すなわちこの物語は、閉じたエデンに生きる麦野湊と星川依里、二人の少年の巻き起こす火遊びに、周囲の大人たちが翻弄されるというものだ。それぞれの視点の違いによって生じる食い違いの数々が、やがて大きな歪みを生み、悲劇が展開していく。

ー映画の最後になってようやく、母親と担任教師は自分たちの誤解に気がつき、少年たちの関係を理解する。しかし、時すでに遅しー
こうした結末だという誤解を生みかねないラストにこそ、この映画の本質がある。
「他人を理解した」。そう思いきやその他人は、まったく異なる世界でまったく異なる景色を見ていた。湊と依里が生きるエデンを、母親と担任教師は、覗き込むことすら許されない。乗り越えようのない隔たり。その絶望的な大きさをこそ、この映画は鑑賞者に思い知らせる。
「理解がある人物」、自他ともにそう認め、映画の鑑賞者にさえそう思わせる人物でさえ、「他者の理解できなさ」から逃れることはできない。それは決して悪いことではないし、避けられることでもない。にも関わらずわたしたちは、他者の「理解できなさ」を恐怖する。
タイトルの「怪物」は、「理解できない他人」に与えられた呼称ではなく、「他者の理解できなさ」を恐怖し、それ故に暴走していく、わたしたち自身に与えられた呼称だ。

◾️1 火を恐れるものたち ー見えない規範が生む悲劇ー

麦野早織(安藤サクラ)は、いかにもひたむきに生きるシングルマザー。小学校に通う息子の麦野湊に対し、飾らないカジュアルな接し方を心がけ、いかにも理解ある母親である。しかし息子の不審な挙動から、彼が学校でいじめられているのではないかと疑念を抱く。ところが担任教師には、息子こそがいじめている側だと告げられる。母は一時は湊を疑うものの、担任教師と学校にこそ問題があると追求し、やがては担任教師を退職に追い込んでいく。早織の目から見ると、校長をはじめとするロボットのような対応を繰り返す学校の教師たちは、いかにも気色が悪い「怪物」である。

担任教師の保利道敏(永山瑛太)は、誤植を見つけては出版社にそれを報告するという変わった趣味を持ち、笑みを浮かべて趣味に興じる表情に狂気が漂うことから、誤解されやすいところがあるものの、偉ぶることなく生徒と接する善良な教師である。しかし早織から暴力教師の烙印を押され、学校を追われる。自分を信じてくれるだろうと期待を寄せていた生徒たちさえもが、ことごとく保利に暴力教師の烙印を押していく。保利の目から見ると、被害者意識から、あるいは周囲の空気に飲まれて、あるいは保身や事なかれ主義によって、自分を犯罪者に仕立てていく母親や生徒たちや周りの教師たちは、いかにも残酷な「怪物」である。

そして湊の目線で物語が語られはじめると、鑑賞者はすぐさま、母親と担任教師こそが湊を抑圧していた「怪物」であることを知る。
シングルマザーの負い目から、湊の幸せを切望する母親は、「結婚して家庭をもつ」という凡庸な期待を湊に押し付ける。保利も無意識のうちに、湊や依里に「男らしさ」という規範を押し付けていた。

星川依里は、そうした規範に縛られない、法の外に生きる自由の象徴だ。女子生徒と仲がよく、それもあって男子生徒たちにいじめられる依里。そのいじめを見過ごせない湊であるが、依里と仲良くしていることを男子生徒たちにいじられることには耐えられない。

それでも湊と依里は、廃墟となったトンネルの奥で、二人の世界を紡いでいく。廃車の電車の車両の内部に、キラキラと輝くモビールの装飾を施し、親密に語らう。かと思いきや日光に照らされて燦々と煌めく草原を走り回る。どこまでも続く線路を二人一緒に見つめる。
『銀河鉄道の夜』や『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる楽園に、二人は生きる。しかしそのエデンの外で、湊は依里との関係を明かすことはない。

とりわけ依里に対する特別な感情が、「幸せになれない」、母親や担任教師が考える「規範」に外れるものであることを湊は察して、苦しむ。母親と担任教師の抑圧に対し、湊は依里との関係を隠すために、嘘を重ねていく。その嘘がやがては、担任教師を退職に追い込んでいく。

◾️2 火をつけられるものたち ー法の外へー

ー大人の理解できない世界に住むこどもたちと、理解の及ばない大人ー
この映画は決して、こんな単純な二項対立にはとどまらない。次第に不穏になっていく物語に、さらなる不協和音をもたらすのが、終始意図不明な言動で登場人物や鑑賞者の注意をひく、校長・伏見真木子(田中裕子)である。

時に嫌味に、時に淡々と機械のように振る舞い、母親からも担任教師からも軽蔑される校長。しかし彼女は唯一、湊に対し、規範を押し付けない大人となって登場する。
「一部の人」(規範に適合できる人)だけが手にできる幸せを否定し、「誰にでも」(男が好きな男であっても)手にできる幸せを肯定する校長だけは、湊に規範からの解放を促す。
言えないことは、楽器に吐き出せばよい。二人がともに吹き、学校中に響きわたるトロンボーンとホルンの不気味な音は、響く人には響き、響かない人には響かない。

校長もまた湊と同様に、なにかを隠し、守っている。そんな校長が湊と共鳴するきっかけを与えたのは、冒頭の火事であり、星川依里であった。

あの巨大な火事のとき、校長は橋にたたずみ、川を眺めながらタバコをくわえていた。そこにスキップで通り過ぎる星川依里が、チャッカマンを落としていく。
校長は落としたことを伝え、星川依里はそれを拾って去っていく。

すでに鑑賞者は、巨大な火事の原因が、星川依里のこのチャッカマンであろうこと、湊がそのことで依里を攻めてチャカマンを奪い、持ち帰ったそれを母親が発見し、湊を不審がるという一連を見ている。

依里はそのアイテムの名の通り「着火する人」なのだろう。チャッカマンは法外の象徴として機能する。校長は湊の落としたチャッカマンによって火をつけられ(力を与えられ)、そうだからこそ湊と一緒にホルンを吹けたのではないか。

ホルンとトロンボーンの音は、担任教師には響き、彼は足をとめて飛び降り自殺をやめた。しかし母親には響かなかった。このことは、登場人物たちが、どれくらい星川依里に共鳴できるかの、グラデーションを示している。

つまりこの映画は、星川依里によって力を与えられ法外に引き寄せられるもの、られないものを、湊>校長>担任教師>母親のグラデーションで示している。

湊と校長は、法外と法内のあいだで揺れて苦しみ、湊は依里とともに法外へ(死へ)、校長は法内に(なりすましの生へ)すすむ。

◾️3 火を消されるものたち ー法の内へー

星川依里は言う。宇宙が膨張しきって破裂するとき、ぼくたちは生まれ変わる。
ラストシーン、嵐が訪れ行方不明となった湊と依里を、母親と担任教師が捜索する。あの廃車の車両は横転し、土砂にまみれていた。今では天井となった車両の側面の窓、そこに次々落ちる泥と雨を、母親と担任教師が決死の思いで拭い去り、窓を開ける。

その様子がが車両の内側から映し出される。窓の泥に雨粒があたり、泥が拭われるその様子は、星々が明滅し、流れ星になり、まさしく宇宙を眺めるが如くだ。ただし、その宇宙は、車両の内側からしか、見ることができない。再び『銀河鉄道の夜』が想起され、依里の苗字が「星川」であることも思い起こされる。

最後に、嵐の去ったエデンで、トンネルから抜け出し、輝く草原をかけまわる二人は、生きているのか死んでいるのか。どこまでも続く線路の前に、以前にあった柵が、最後にはなくなっていた。

母親と担任教師によって窓が開かれたとき、それは宇宙が破裂することをあらわしている。ラストシーンは生まれ変わった二人の姿だと言わざるを得ない。

こう言える理由がもう一つある。星川依里の燃え盛る炎が、嵐の最中に完全に消されていたからだ。依里を「豚の脳が入った」「怪物」だといい、どうやら依里が同性に思いを寄せることをその要因としている父親(中村獅童)がいる。初登場シーンで彼は、尋ねてきた担任教師の前でおもむろに庭の木々に散水をはじめる。息子を「正常」にすると、豪語しながら。

振り返れば冒頭の巨大な火事を消化する消防士に向かって、ベランダからその様子を見つめる早織は、大声で「がんばってー」と叫んでいた。湊の目の前で。依里がチャッカマンで点火し、今や巨大に燃え盛るその火の消化活動に向けられたそのエールは、早織自身に向けられていたようだ。

湊に異変を感じ、その火を消そうとする早織は、作中で繰り返し湊に、水筒やペットボトルのお茶を飲ませようとしていた。湊がそれを飲む様子は描かれない。

たほうで、湊が依里をいじめていると聞いて、早織が依里を訪ねたとき、依里は不自然にごくごくと、水道の水をコップにいれて飲んでいた。あるいは依里がトイレで男子生徒たちに閉じ込められたとき、助けをもとめても応えない湊に対し、依里はトイレの水を流しながら不貞腐れていた。

依里が湊のために自らを殺そうとするときには、いつも水が、依里の炎を鎮めていた。そして嵐のとき、依里は自宅の浴室で、びしょ濡れになってバスタブのなかで倒れていた。これが父親のいう「正常」なのだろう。湊は依里を発見し、バスタブがから引きずり出す。

このシーンはなんだったのか、よくわからない。直後のシーンで、湊と依里は、嵐の中を二人のエデンにむかって駆けていき、あのトンネルを抜ける。直前での浴室のシーンやぐったりとした依里の姿など、存在しなかったかのように、嬉々として嵐を逃れて車両に乗り込み、出発の音ー土砂の雪崩れる音ーを聞く。

トンネルに駆け込んだ時点で二人は、すでに生まれ変わりの最中にあったのではないか。ぐっしょり濡れた依里は、『銀河鉄道の夜』の旅の最中で、濡れた姿であらわれる、カムパネルラに重なる。彼は溺れたジョバンニを救うために、川に飛び込んで命を落としていた。

依里が湊につけた火は、あの火事の時から燃え続け、揺らぎながらも消されることはなかった。嵐の日についに燃え盛ったその炎が、消されてしまった火種の依里を救い出した。そして今度は、湊が依里の火を灯す。生まれ変わってともに生きるために。

◼️結 理解という誤解

湊と早織の苗字の「麦野」が喚起するのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつまえて』。作中では大人のいないライ麦畑で走り回り、崖から転がり落ちそうになるこどもたちが語られる。落ちないようにつかまえたい、けれども自由にも走らせたい。その折り合いのつかなさのなかで、わたしたちは生きるしかない。

退職した保利は、かつて提出された依里の作文に、湊の名前が隠されていることを読み取り、二人の親密な関係を知る。嵐の日に、港への誤解を謝りたいと訪れた保利とともに、早織は二人を捜索する。

湊が依里をいじめていたというのは自分たちの誤解だった。そう理解を共にした二人が協力して、土砂を堀り起こし、電車の窓を開けて中を覗き込んだものの、湊と依里の姿はなかった。
晴れあがったエデンを駆け抜ける湊と依里のラストシーンは、母親と担任教師のまったく預かり知らぬ場での出来事に違いない。

確かに保利は、湊と依里の友情を理解し、母親もそれを共有した。しかし、湊と依里の関係は、そんな理解からずっと遠い、他者の届かぬところにあった。
この映画が描くのは、徹底したすれ違いと、理解できなさに他ならない。
それは埋められるものでも、埋めなければならないものでもない。

この「理解できなさ」を抱えながら生きることだけが、他者の幸せを可能にする。この「理解できなさ」を恐怖するわたしたちは、いつだって誰だって簡単に、「怪物」になる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?