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「自信」を持つための、想像力と決断力の練習メニュー

4歳年下の妹が就職活動に励む頃、私は博論の研究のためのデータ収集としてコリアンコミュニティの友人・知人にインタビューを行っていました。その一環で、ホノルルに引っ越したカップルを訪ねていた初日の夜、妹からメッセージを受け取り、フライト疲れの割に数時間話し込んだことがあります。普段は頻繁には連絡を取り合わないのですが、どうやら就活に行き詰っていたようで、「面接で実力を発揮できない」という相談を受けました。「自分に自信がない」とのこと。

社会人として、自信を持てないなんて言語同断です。自己分析が足りないだけでなく、まだ完全に甘え切っている証拠です。もちろんそんな人誰も雇いたくありません。そういう人に限って、大した根拠も無いのに他人に優劣を付けたがります。データに基づかない曖昧な偏見で自分や他人を評価する人は、感情に左右されて、必ず仕事で失敗します。

とは言え、自信は論理だけでなく精神的な能力ですから、最終的には日々の鍛錬のみが実を結ぶものです。そこで重要なのが、自信という複雑な能力を「想像力」と「決断力」に分けて捉えることで鍛えやすくすることです。ここでは、三つの練習メニューを紹介します。まずは自分が笑っている瞬間を思い出すこと。そして自分が達成できることだけをこなすこと。最後は、自分は間違いなく頑張っていると認めることです。

自分が笑っている瞬間を思い出す

人が自分に自信を持てない理由はいろいろあると思います。根本的に愛情の乏しい家庭で育ったり、本当に怠惰で何も成し遂げていない人もいるかも知れません。でも、大概の人は「自信を持つ」とか「自分を好きになる」ということに憧れつつも、その目標に向かって努力する以前にそもそも自己肯定のイメージトレーニングができていません。ぼんやりと「あれができたら自信が出るのに」「あの人みたいになりたい」と思っているだけでは、自信を付ける前に諦めることを覚えてしまいます。自分を慈しみ、許すことは大切ですが、それは自己肯定とは似て非なるものです。

まずは、「相対評価」と「絶対評価」の区別を付けましょう。「あれができたら」「あの人みたいに」は相対評価です。軸が自分自身に無いので、いつまでも比較することにばかり気を取られてしまいます。目標に届いたと感じた瞬間だけは達成感があるので、それを自信と勘違いしてしまいがちですが、間もなくその高揚感も失われて後に何も残りません。むしろ、本当は着実に培ってきた実力にさえ自分で気付けなくなります。こうなると厄介です。

自分が成功しているところをイメージする、というと、何となく未来の自分を想像することが多いと思います。しかし、これは罠です。よっぽどのナルシストでないと、具体的な成功を想像することは困難だからです。なので、もう既に過去に起きた成功体験を一つずつ思い返していくのが本来の近道になります。ただここで相対評価に囚われていると、何も思い出せなかったり、思い出すそばから「あれは別にそれほどでもなかったし」と否定する癖が付いてくるのです。周囲がどんなに褒めようと、自信が無いのでその客観的な評価も信用できなくなり、人が離れていきます。私はこういう人にはうんざりするので絶対に関わりません。自己憐憫はありあまる愛をも無効化します。「自分を愛せない人は、人を愛せない」と言われるのはこういうことです。

自己肯定のイメトレは、自分が笑っている瞬間を思い出すことで行いましょう。未来の自分や憧れる他人では具体性が足りず、妄想には耽れども想像力は養えません。最近何かで笑っていた自分を思い返してください。おもろい番組を観ていた、友達と下ネタを喋っていた、めっちゃウマいラーメンを食べた、天気が良かった、コンビニの店員さんにありがとうと言ったなど、なるべく日常の瞬間を思い描いてください。笑顔の自分、ではダメです。鏡を見てもいけません。何か一つ大成功した非日常よりも、ありふれた場面で自分が笑っているのはどんな時か。その時自分の身体は何を感じていたか。

この練習は、一度やっても無意味です。自分が笑っている瞬間を思い出す練習を始めたら、その瞬間をまた経験できるようにわざと仕組んでください。またおもろい番組を観たり、また友達と下ネタで盛り上がったり、またウマいラーメン食ったりしているうちに、また天気が良いことに気が付きます。またコンビニの店員さんにありがとうと言えるようになります。想像したことを現実に行動するのです。自分の機嫌を自分で取れるようにする訓練です。想像力の無い人に自信は持てませんが、想像の仕方を間違ってはいけません。ぼんやりした未来や滅多にない非日常を想像しても自信には繋がりません。あくまでも最近のありふれた瞬間に集中し、今この瞬間に笑えるように努力するのです。

「自分が笑っている」ということは絶対です。優劣の比較をすることはできません。社会学的に言うと、「身体化された知」(Embodied Knowledge)です。自分の身体だけが触れることのできる、絶対的な真実を自ら創り出すのです。これが正しい自己肯定のイメージトレーニングのやり方です。

自分が達成できることだけをこなす

「自信」と「完璧」は似た系列の言葉に見えますが、実際には正反対の位置にあります。自信は存在しますが、完璧は存在しません。自信の無い人ほど、完璧を求めます。完璧とは自分の外側にある軸なので、相対評価です。完璧主義に囚われているうちは自信が付くことはありません。確固とした成功体験がまだ無かったり思い出せない人は、客観的に自分に何が出来て何が出来ないのか説明することが困難です。それが結局妄想に繋がって、身の丈に合っていない目標を自分に背負わせることがあります。

そこで二つ目の練習メニューは、自分が達成できることだけをこなすことに集中してください。無理や背伸びをして、結果的にそれが出来たとしても、次回は上手くいかないかも知れません。自信を喪失するのはそんな時です。結果と実力の因果関係が分かっていない、つまり何が原因で成功したのかという分析が出来ていない時期には、次に壁にぶつかった時にもその原因を特定することができません。失敗や挫折を冷静に反省して前に進むことよりも、自分の感情に飲み込まれて動けなくなってしまいます。

そこで役に立つ訓練が、できることだけ必ずやりきるということです。ここでも完璧を目指してはいけません。重要なのは、無駄な妄想を断ち切って、簡単な決断に集中すること。できるからやる。できないからやらない。毎日早起きはできないけど、栄養バランスの取れた食事はできる。映像配信はできないけど、文章は書ける。目上の人にゴマすりはできないけど、後輩に慕われることはできる。統計調査はできないけど、聞き取り調査はできる。この練習を通して付ける区別が「長所」と「短所」の線引きです。とりあえず短所は完全に諦めて、できることだけを続ければ、必ずそれが長所になります。自分に何もかも求めているうちは、絶対の自信を築くことは不可能です。

もちろん、仕事に関してはそんな選択肢を与えられることも滅多にないと思います。未経験でもやらされる仕事もたくさんあるでしょう。でもそれが上手くいかずに落ち込むのはお門違いです。あなたの能力を把握せずにできないことをやらせた上司の責任です。とは言え、即戦力を重視してスキル育成は自己責任でやらされる今の社会ではそんな理屈は通用しません。本来は、学校教育や大学での自主的な活動を通じてこの練習をするのが一番安上がりですが、組織や制度の中で自分の能力を見極めることが難しい場合は、資格や趣味を使ってもいいかも知れません。ただし、ここでのポイントは能力ではなく自信そのものを付けることなので、結果ではなくプロセスに重点を置くべきです。あくまでもできることだけに集中すること。「やってみないと分からない」のが能力で、「これなら絶対できる」が自信です。

この練習を続けていると、そのうち必ずもっと上を目指したくなります。むしろ最初から高い目標設定をしない、という練習なので、気持ちだけ焦ってしまうこともあると思います。しかし、大事なのは結果としてできるかできないかではなく、それを自分で決定することです。年齢とか経歴などの表面的なことに囚われてはいけません。「これぐらいできて当然なはずなのに」は相対評価です。周囲の視線はさておき、自分の成長に好奇心を持って主体的に取り組むことで、「私はこれならできる」と言えるようになる。そしたら自然と、「じゃあ次はこれができるかも」と思えるようになります。

自分は間違いなく頑張っていると認める

この記事の初めに、私は自信を「精神的な能力」と位置付けました。これはよく言う「気持ちの問題」という意味ではありません。気持ちはコントロールできませんが、精神とは鍛練できるものだからです。武道や書道・華道などの経験がある方には分かると思いますが、精神的な気力や心の強さは、結局肉体的な訓練を通してしか培えません。哲学も宗教も、勉強しただけで実践しなければ無意味です。自信を付けるための想像力と決断力も、上記のような身体的なプロセスで時間を掛けて築くしかありません。逆に言えば、正しい練習方法を続けていれば必ず得られる力です。

三つ目の練習メニューも同じく、想像力と決断力を鍛えるために行う身体的な訓練です。何があっても、誰に何を言われようと、自分は間違いなく頑張っていると認めてください。そういう決断を今ここで自分に下して、そこから絶対にブレないことに意識を集中しましょう。とりあえず私はここまで何とか生きてきた。それを当たり前と思ってはいけません。私たちはみんな必ず何かに生かされているし、どんなに死にたくてもとりあえず寝たり食べたりして死なない努力をしてきました。まずはその事実を認知してそこに身を委ねるのです。この練習は、想像力がないとできません。

学校や仕事などを、途中で抜け出した経験があるかも知れません。何かを放棄したと感じる後悔はしんどいものです。しかし、あなたがそこで進行方向を変えたのには必ず理由があったはず。何か他に優先させなければいけないことがあったのです。想像してください。もしかしたらそれは「自分でしっかり悩み抜く」ということを優先させるためにひとまず目の前の課題から手を引いたのかも知れません。それは本当はとても尊い決断です。何も考えずに与えられた課題を淡々とこなしていくことよりもずっと難しい選択をしたことに、しかるべき誇りを持ちましょう。

同時に、これは必ず誰もが人生で何度か通過する試練です。中学時代に立ち向かう人もいれば、定年退職後にぶつかる人もいます。女性は特に、仕事と家族とのどちらかを選ばされる社会ですので、どっちを取っても後悔が残るかも知れません。それでも、どちらも何もかも放棄するという選択もあり得た。スーツケース一つで放浪の旅に出る道もあったでしょう。自分が何を優先させたかに誇りを持つことは可能ですし、それは大人として必ずすべきことです。決断力とは、正しい決定を下す力ではなく、自分が決めたことに責任を持つ力です。誰かや何かに責任転嫁しているうちは自分の決断に自信を持つことはありません。

この練習は、単に「自分へのご褒美」を与えることではありません。根本的に人生への態度を見直すことです。まずは、自分以外の物事をコントロールすることをすっぱり諦めること。変わるつもりのない人間を変えることは絶対にできません。変えられるのは自分だけです。変えられたと思っていても、それは暴力や権力を自分本来の努力だと勘違いしているだけです。周囲の人間に相談はするべきですが、承認欲求を満たすために他者、特に自分の子どもに依存してはいけません。

それを理解した上で、自分は具体的に何を頑張ってきたのか、文章に書き起こしてください。自分ができなかったこと、やらずに後悔していることも、文章で分析します。その時自分は他の何を優先させたのか。その経験で得たものは何か。想像し、必ず答えを出して自分と向き合いましょう。案外、何も頑張ってこなかった人なんていないものです。そして、過去はどうあれ、今こうして自分と対峙していることそのものについて、自分は間違いなく頑張っていると認める覚悟を決めてください。声に出して言いましょう。正当な評価を下すためには、もう二度と自分からは逃げないと決意する時が来たのです。自分でそれを決められたら、自分は間違いなく頑張っているというイメージを保つために、無理せず自然と頑張れるようになります。

まとめ

自分に自信が無い人には、想像力と決断力が不足しています。絶対評価と相対評価の区別を付けられず、長所と短所をきっちり分けられていません。妄想の中に自分をはめ込んで、結局自分に何ができるのか把握できていないのです。この記事では三つの練習メニューを紹介しました。自分が笑っている瞬間を思い出すこと、自分が達成できることだけをこなすこと、そして自分は絶対に頑張っていると認めることです。どれも継続と覚悟を求められる、精神的な鍛練のプロセスです。でも、なんだか楽になれる気がしませんか。楽になれて当たり前です。自信が無い人はむやみに頑張り過ぎているからです。

私の妹も頑張り過ぎるタイプです。周囲の期待や社会の規範や自分の希望を、自己分析よりも先に考えてしまいがちな所があります。能力は「やってみないと分からない」。結果は「とりあえずこうなった」。そして自信は「これなら絶対できる」。どれも全然違うものです。そして、この宇宙に絶対はありません。自分の中だけに、時間と愛情を掛けた経験を通して築き上げるものです。自分にできることとできないことがはっきりすれば、意外ともう色々なことに悩まなくて済むようになります。社会学と仏教の考え方をブレンドしてみて辿り着いた、私なりの答えでした。


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