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つまり情熱がすべて:映画『ヒットマン』感想

この映画を観終わった時、もっと若い時にこの作品と出会いたかった、それこそ高校生や大学生で自己だと思っているものをじっくり見つめ直す時間のある時期に出会いたかった。そしてこの映画が自分を変えてくれたのだと言えるような、そんな体験がしたかった――そんなことを思った。
今日から僕のオールタイムベストは本作『ヒットマン』となる。

本作において主人公の運命が大きく変わりだすのはヒロインであるマディソンの依頼殺人を断り「この金で人生をやり直せ」と見逃す瞬間だろう。
それまでの主人公・ゲイリーは基本的に受け身な人間だ。仕事は誠実、他人とのコミュニケーションも問題なし。飼い猫二匹と暮らしている地味な風貌地味な生活を送る自分自身の人生だってまあ嫌いじゃない。
だけどそれはあくまで"嫌いじゃない"なのだ。

作中前半で主人公がたった一つ自分で積極的な判断を見せるのが、承前のマディソンの前にロンというゲイリー本人からはかけ離れた別人格の架空の殺し屋として現れた後に、その依頼を見逃すことだった。そこから主人公はあれよという間に積極性を発動することに躊躇いがなくなり、その結果というべきか代償というべきか、モラルと欲望の限りないグレーゾーンに落ちていく。
何故先述のような地味で目立たず見たそばから顔を忘れ去られそう(もっとも演じているのは『トップガン:マーヴェリック』や『ツイスターズ』で一度観たら忘れられない強烈なインパクトを残しているグレン・パウエルなのでそんなことはないのだが)な男が急に積極性を発揮できたのかといえば、彼は架空の殺し屋であるところのロンの人格を自分の中から引きずり出すことに成功したからだ。
そして彼は言う。分かるよ、ゲイリーよりロンのほうが好きだろ。僕だってそうだ。
自分自身を嫌いではないと評していた主人公・ゲイリーは、ゲイリー自身より演じている人格のロンのほうが好きだというのである。

ここで、本作の副テーマ(主テーマはゲイリーの運命はどうなるのか?という映画のあらすじそのものだとして、そこで同時並行的に走るもう一つのドラマが何かという意味で)を改めて説明すると「私とは何か」である。
こういったテーマはもう少し大人しめのヒューマンドラマやアート系の作品のほうが得意としそう(個人的な主観)だと思うのだが、それを王道の娯楽映画で調理しきっている。さすがリンクレイター監督。と思ったら脚本には主演のグレン・パウエルも参加しているのか。多彩だなこの人。

言ってしまえば、この「私とは何か」というのが本作では多数の別人格として架空の殺し屋になりきるゲイリー、そしてロンのほうが好きだというゲイリー自身によって語られている。
私とは何か、それは私にも分からないものであり、何でもあり、そして何でもない。自分がアイデンティティだと思っているものは結構容易に崩壊するし、そして裏を返せば自分を変えることもできるのだということを、本作はかなり分かりやすく示してくれている。
ただし、自分を変えようと思うなら――こうであれと願う自分になりたいのなら、そこにはゲイリーの行ったような分析による具体性と実地訓練、そしてそれらを続けるだけの情熱がなければならない。

僕は正直言って自分のことが嫌いだ。
詳しく言えば、自分のつけた名前で人前に出て芝居をしている時、歌を歌っている時、あるいは小説を書いている時、そういうパフォーマンスしている時の自分――本作でいうとロンの側の自分である――は好きだが(そうでなければ人前に出られないし、チケットや本を買ってくれたり投げ銭をしてくれたお客さんにも顔が立たない)、それ以外の自分――本作でいうゲイリー側の自分だ――は非常に退屈で出来が悪く、存在の意義のない人生に耐えられない気持ちでいる。
こんな人生変えられるのなら変えたいさ――と思っていた、少なくとも自分ではそう思っていたつもりだったが、本作を観たあとではまったく具体性もなければ行動も伴っていない、ましてや熱意など欠片もない自分の在り様に、結局そんな退屈で出来の悪い自分のことだって"嫌いじゃなく"て、かわいそうでかわいくて仕方ないだけなんだろうな、と喉元にナイフでも突きつけられたような気持ちになった。

お前本当にそれでいいのか?
本作はそういうことを逃げ場なく突きつけてくる。本当に嫌な作品だ。
僕はリンクレイター監督の作品だと他は『スクール・オブ・ロック』しか観たことないんだけど、あちらも作品後半で主人公は自分のクズっぷりと向き合わざるを得なくなる。そういう種類の大人の狡さに厳しい作家性なのかもしれない。

それで、シビアな問題を突きつけられ、向き合わざるを得なくなるような状況に追い込まれた僕は今、この文章を書いている。
なぜなら"シアターの扉を出た瞬間"から、僕はなりたい自分になるべきだからだ。
思うだけでは、願うだけでは、意味がない。具体性と必要性、そして積極性――つまりは情熱が必要だ。
僕は傷つきやすいという意味でも頭の回転がよろしくないという意味でもナイーブな人間で、死ぬまで終わることのない退屈な人生に疲れ切っていて、情熱なんて多分とっくに燃え殻だ。
だけど、燃え殻はある。
残りの人生を嫌いだと喚きながらも本当はかわいくて仕方ない、退屈な自分と生きていくくらいなら、燃え殻にもう一度火がつかないか試してみようと思う。

そしてそれが、自分の運命を変えるびっくりするようなセクシーな美女との出会いなしで起きたっていいじゃないか、とも僕は思うのだ。

※補記
映画としていわゆるファム・ファタルものの系譜であることは十全に理解し、楽しみました。その上で本作の副テーマとそのメッセージは、ファム・ファタルとかいう再現性のない不安定なパラメータなしで再現可能なものであるべきだと受け止めての最後の一文となります。
もちろんびっくりするようなセクシーな美女との出会いが僕に起きるのなら一度は起きてみてほしいものではありますが、きっと受け止めきれないでしょう。

※補記2
「パイの味は?」という合言葉は実際に使われていたものだそうですが、パイは「齧ってみるまで中身の分からない食べ物」なのも本作のテーマとリンクする部分がありますね。

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