短編小説「半分個」

「ねぇ半分個にしようよ」


彼女はまるで小さい子供が親に物をねだるような無邪気さと何かを企んでいるかのようなイタズラ心を併せ持った笑顔で言った。僕はこの笑顔にめっぽう弱い。僕は彼女の思うままに手に持っていたビスケットを半分にして大きい方を渡した。美味しそうに頬張る彼女を見て僕は笑った。これが僕らのいつものやり取りだった。何でもかんでも半分個。二人で一つ。それが僕らの日常で自然と笑みが溢れる瞬間でもあった。窓から差す陽の光は暖かく春の乾いた寒さをも忘れさせるほどだった。窓から見える中庭に佇む桜。風にさらわれ宙を待った花びらが右に左に揺れながら落ちていく。いつの間にか僕らの間に会話は無くなり無感情な静寂だけがこの病室を包み込んでいた。


医者にはもう長くないと言われた。始めは耳を疑った。信じなかった。何の変化もない彼女を見て何か悪い夢でも見ていたんじゃないかとすら思えた。それでも時間が経つにつれて彼女は確実に変わっていった。食事が喉を通らなくなり痩せ細り、今では自力で歩くことすら難しくなっていた。それでも彼女は笑った。弱音を吐かなかった。意地っ張りで負けず嫌いな彼女の事だからきっと弱い自分を見せたくなかったんだろう。それからも変わらず彼女はいつもの笑顔で笑っていた。僕はその健気さが少し辛かった。


沈黙を破ったのは彼女だった。「私ももうすぐあの桜の花びらのように散って消えてしまうのかな」彼女はか細い声でなおハッキリとそう呟いた。僕は彼女の頬を真っ直ぐに滑る滴を見逃せなかった。「私が居なくなっても君は幸せになってね。」その言葉を引き金にこれまで無自覚のうちに溜め込んでいた涙がまるでダムの水を開放したかのように音を立てながら溢れ出した。僕は人を恨んだ。神を恨んだ。運命を恨んだ。何より何も出来ずただ立ち尽くすことしか出来ない僕自身を恨んだ。僕は人のちっぽけさを知っている。どれだけ大事な存在を無くしても世界にとっては数多ある人の中の一人で散った命の重みなんて知らず明日も明後日もその先も世界は変わらずに進んでいく。僕はそれがやるせなかった。彼女だけが居ない世界で変わらず生きられる自信なんて無かった。


グシャグシャになった僕の顔を見て彼女は涙の跡を頬に残しながらも笑っていた。いつもと違うキレイに整った笑顔で。まるで何かを腹に決め未練を拭い去ったかのような笑顔で。もしも彼女の痛みを分かち合えたなら共に散ることが出来るのだろうか。僕は最後の拙い望みを込め震えた声で呟いた。「ねえ半分個にしようよ」彼女は首を横に振った。いつものやり取り。半分個に出来なかったのはこれが最初で最後だった。


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