見出し画像

昨日の祈りへの諭し。ウチの原節子。

朝起きて、昨日の自らの問いかけについてその質問自体が間違っていると諭されたような気がした。
誰かに諭されたわけではない。諭しは上の方から来た。優しい語りかけだった。

私達が何かをしたからこうなったのか…。答えは「はい」かもしれないけれど、その問いかけ自体が間違っている。ような気がする。「ような気がする」としか言えないけれど。
災害や人災、戦争が起こることはしかし、予告はされていて、それに耐えるようにと言われている。耐えている中で、本当の幸いを得られるとも語られている。

自分の業界のことを言うならば、つまるところ職人な我々は、仕事がしたいんだ、それができないのがつらいんだ。もうそれしかない。お金のことも確かにあるが、何より仕事がしたい―当たり前すぎるだろうか。

私たちは日々努力して頭を動かして口を動かして、こちらにいる人とあちらにいる人の間のコミュニケーションを成立させ、はい終わりましたよと、その場を立ち去ることで、幸せを得ている業種なのだ。


それを来る日も来る日も繰り返すことで、それ以外のすべてが後からついてきた、幸いな職種なのだ。
営業をすることもない。人をこき下ろす必要もない。

怠けたい…、ネガティブなものが沸き起こる…、奢り高ぶる…そういう自らの心以外、敵という敵もない。

ピアニストがピアノを弾けない

俳優が演じられない

料理人が料理できない
せっかくしても大量に捨てなければいけない

これは明らかな不幸なんだ。

人はつながりを求めている。
実際に会って話がしたい。人と空間と時間を共有したい。

それはもう、否定のしようがない。

そのうちにワクチンができれば、すべてが解決するんだ。それを待つしかない。

さて、散歩に出ようと言うと、犬が床に伏せをしたまま優しい目でこちらを見る。

時々こういうことがある。大抵の場合、時間になると「散歩!」と無言の圧をかけるが、今日のように雨が降っていると、優しい目でこちらを見て

いってらっしゃい

とまるで昭和の女性代表、原節子のように言う。(若い方でもっと直近の比喩が思い浮かんだ方はコメントを…)

「いってらっしゃいって何だ」「あなたが行かなくてどうするの」と人間は口々に言う。
するとタッと立って玄関に行くのかと思ったら水を飲み出した。そして辺りを無駄に嗅ぎまわっている。雨が降っているので、行きたくないことを誤魔化している感、満載。

まんま「首に縄をつけて」むりやり散歩に行った。

大雨の中を町田まで運転。詩人が途中、渋滞はなんで「渋」という字が入っているんだと聞く。知らんと言う。(後から知ったが「渋」も「滞」も両方滞るという意味なんだってさ。)

じゃあ「苦渋」になんで「渋」が入ってるんだ?と聞かれそっちは苦くて渋いんだよ多分、と答えた。これは合ってると、しきりに動いているワイパーを見ながら考える。

町田インターの名古屋方面の混みようを見ると、連休明けはまた感染者数が大幅に上昇するだろうな、と思わされる。

昼:果物とごはん
夜:まぐろ丼、ズッキーニ、トマトとキャベツのサラダ

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,537件