見出し画像

心の中のライブの位置づけ

不要不急の言葉で片づけれられることが多くなった
ライブやイベント、そしてエンターテイメント。

多くの人が携わり、力をもらえるものが
不要であるはずがないのは間違えない。

2020年の2月まで、おそらく普通の人がひくくらいに
ライブハウスに通っていた。
勿論世の中にはもっとすごい猛者はいるのだけれども
年間100本程度、北海道から沖縄場合によっては
国境も越えていた私は相当ライブに入れ込んでいたし、
同時に力をもらっていたと思う。

勿論友人たちにもそういう人間が多い。
行く数の多少はあれど、ライブという空間から
力をもらっている人たちは沢山いる。

中でも私は徹底的な現場主義だった。
アーティストの作る音楽を音源で楽しむ人、映像で楽しむ人。
生活スタイルや環境も含めて人それぞれあると思うのだけれど、
私はその場でその人たちの奏でる音を聞く、
その人たちが演奏している姿を見る、
そのことに固執していた。

生活の一部どころか、メインにさえおかれていたライブ通い。
でもコロナ禍によってそれがすべてなくなってしまった。

大勢の人たちが中止は悲しい、早くライブに行きたいと嘆く中で
不思議と悲しいとも寂しいとも恋しいとも思わない自分がいた。
おそらく知っている限りの中では私が一番足繁く通っていたのに。
中止の日々がつづいてからは、寂しい悲しいより
何故私はあれほどまでに焦がれるように
あの場所へ足を運んでいたのだろうと思う日が増えた。
呆れでも後悔でもなく、単純な疑問。

そんななか、今月好きだったバンドさんのライブ開催の告知があった。
感染対策を徹底して今年はライブを行うと。
待ち望んでる人たちは山のようにいる開催の決定。

そのライブの開催にあたり、たくさんの注意書きが流れてきた。
歓声や応援はもちろん禁止、ジャンプも禁止。
ライブ会場ではよく見られるモッシュ等の行為や
ヘッドバンキングも禁止のアナウンス。
最近のライブではよくとられている措置ではあるが、
中でもかなり注意書きが多い方だったとは思う。

私は元よりあまり動かずでステージを見る方だった。
モッシュやヘドバンが嫌いというわけでなく
ステージをただ目に焼き付けたいというか、
上記のような動きを積極的にする方ではなかった。


けれど、このアナウンスを見て、最初からそれをしてないのに
なんだかとても窮屈に感じた。


昨年の夏ごろから徐々にイベントやライブが開催されていく中、
こういった注意事項を流す主催者はライブに限らず沢山あった。
それは当たり前のことで、この状況下でもたくさんの対策を講じて
やろうとしているその姿勢を、素晴らしいと思っていたはずなのに。
改めて注意事項をみたときに思ってしまった。
私はそこまでして「ライブ」にいきたいんだろうか?

いろんな人が、いろんなことをエンタメに臨んでいる。
生で見ることの楽しさはきっと他に変えられないもので、
動いている姿を見たい、生で音楽を聴きたい。
沢山のことをかなえられるのは現地開催のライブしかない。
注意事項は窮屈ではあるけれど、
そういった楽しさを味わうのを決して妨げるものではない。
なのに窮屈に感じた私の気持ちはなんだったんだろう。

その時、ふと思った。
私はかつてライブに行っていた時、心が自由だったんだと思う。
泣いても笑っても楽しんでも喜んでも悲しんでもなんでもいい。
死にたいも生きたいも何を想っても許される場所。
心が自由になる空間を、求めていたのかもしれないと思った。
映画や本でも勿論味わえることなんだけれど、たまたま私には
ライブという空間が心が一番自由にいられる場所だったんだと思う。

だけれども「注意事項」を見たことで
心が縛られるそんな感覚があったのかもしれない。

結局実際に足を運んだ先ではそんなことはなかった。
注意事項も気にならないほどに、その空間を楽しめる場所だった。

けれどもステージと私の間にはなんとなく
薄い膜があるように感じた。
物理的に何があるわけではないのに、遠くに感じる。

いつか、このパンデミックがおわったら、
また私はその空間で自由になれるんだろうか?
ぼんやりとそんなことを想いながら眺めてた。



日々を生きていく力にします。本当に、ありがとうございます。