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「もののあはれは秋こそまされ」

 本稿は2023年11月25日、26日に金沢市立中村記念美術館 茶室 耕雲庵にて行われる企画「もののあはれは秋こそまされ」に際して筆者が記したステートメントである。筆者を含めた6名の日本画・工芸に携わる作家が参加する。
 本企画は、美術の制度論的な問いたてを起点として、茶室でのプラクティス・座談会トークを行う試みである。80年代に端をなす美術の制度論という、一見時代遅れとも捉えられるフィルターを通すことで、自分たちの足元を再考する。
 制度論をスタート地点として、その思考や近代の呪縛からどれどけ離れられるか、各々の在り方をいかに記述しうるか、というところに注目したい。

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 本企画では、茶室でのプラクティス(実践)と参加者による座談会形式のトークという流れを経て、「美術」「展覧会」「日本画」「工芸」などの美術的制度論への捉えなおしを試みます。「美術」という枠組みについて考えるとき、近代・明治はとても大きな意味を持つと言えるでしょう。私たちが自明としている「美術」「工芸」概念は非常に近代的なものであり、明治以前の日本に「美術」「工芸」という制度は存在していませんでした。私たちが所属する美術大学や、展覧会という制度もまた同時期に発生したものと言えます。

 展覧会においては、今日「美術品」や「工芸品」と呼ばれる制作物を分類し陳列することを通して、それぞれが元あった生活の場=用いることから引き離し、視覚の対象とした歴史があります。視ること、そのことがそのまま近代化における開明の装置として位置づけられました。  それら展覧会概念により周縁化されたものとして床の間芸術がひとつ上げられます。床の間芸術という言葉が現代の文脈で使われるとき、それは必ずしもポジティブなものではなく、視覚の対象として特権的立ち位置を持つ「美術」に対して、生活の中に堕した存在として位置づけられる場合があります。そのように貶辞とされる床の間芸術を、この企画では積極的に受け入れ、読み替えてみようと思います。

 近代に発生し、制度化された「美術」「工芸」「日本画」といった諸概念は様々な矛盾と齟齬を生み出しました。この周縁化や権力構造に対して先行世代(1980年代〜2000年初頭、北澤憲昭『眼の神殿』など制度研究に端をなす「Life/art」展や「No border 「日本画」から/「日本画」へ」展など)は「工芸」「日本画」の現代美術的、ポストモダン的な転位を試みました。それらの試みは、「日本画」「工芸」の新たな立ち位置を提示したという確実な達成を示すとともに、それが仮想敵を必要とする限定戦争であり、さらにはその仮想敵を内在させる自己への否定という側面によって推進力を得る仕組みであったこともまた事実です。ムーヴメントとしての制度論的美術史の読み直し、転位が、2000年代初頭に落ち着きを見せた理由として、彼らの掲げるマニュフェストが継続力を持つことが不可能な仕組みであったことが感じられます。

 そのような先行世代の一つの達成と挫折をみるとき、彼らが目指した「工芸」「日本画」の「美術」領域へのズらしではなく、工芸を「工芸」と美術を「美術」と、展覧会を「展覧会」とすら名付けない・・・それがそこにあるだけ—器が器である— という状態へと、茶室や用いることを通して(それぞれの領域の持つイデオロギーをある種前提として自覚しつつも)その当たり前に降りかかる「工芸」や「日本画」といった名前を、一度回避してみることから始めてみたいと思います。


【もののあはれは秋こそまされ】
2023.11.25(土)11.26(日)
金沢市立美術館 茶室 耕雲庵
参加作家
青木遼(日本画)・石綿結(工芸・染織)・今西泰赳(工芸・陶磁 特別出品)・大倉千宙(工芸・金工)・田中良征(日本画)・三上七恵(工芸・漆)
・茶会 11.25(土): 耕雲庵茶室
・座談会トーク 11.26(日): 耕雲庵和室(茶室隣)
9:30〜12:00 13:00〜15:30
予約・参加費不要 入退室自由
青木遼 石綿結 大倉千宙 田中良征 三上七恵

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