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幼かった私のために、過去を変えていく

連休は地元に帰っていたよ。

友人の結婚式に合わせて地元に帰り、
その前後でさまざまな予定を入れたので、比較的長めに滞在した。

各々の健康状態や家族構成や職業、それらによる衛生への気遣いの度合いなど考慮しなければならないことがたくさんあって、なかなか連絡できずにあれよあれよと数年が過ぎてしまったんだけど、高校時代の友人たちに久しぶりに会った。

10年前の過去にタイムスリップしたかのようだった。
会えずにいた数年なんて、まるでなかったかのように!

過去は変えられる

平野啓一郎著『マチネの終わりに』の中で、印象に残っている台詞があって、

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えているんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える

『マチネの終わりに』

過去って思い出すと結構あちゃ〜なことが多く、失敗と後悔の繰り返しで、「あの時もっとうまくやれていたら」とか、そんなことばっかり。
油断すると、過去のだめな自分に引きずられてしまう。もう何年も経っているのに。

まあ「大学に落ちた」とかの事実は変わらないけど、人との関係性を丁寧に紡いでいくことで、過去の自分を肯定しなおすことができる気がしている。
私ちゃんと頑張って、ちゃんと楽しんでたじゃん、よかった〜って思える。

ちなみに「大学落ちた」のエピソードにはやさしい思い出も紐づいていて、
私が大学に落ちたとき、友人にその旨を連絡したら、すぐに家まで会いに来てくれた。私たちの家は、決して近所ではなかったのに。そして私の家で、私の家族と一緒に夕飯を食べた。
彼女自身の受験もある中で、それでも会いに来てくれたことが、今でも思い出すと涙が出そうになるくらい嬉しかった。
ちなみにその彼女にも今回の連休で会うことができた。あの時と変わらず優しく賢く思いやりに溢れていて、素敵な人生を歩んでいる姿に胸がいっぱいになりました。

大学に落ちたことは、悔しい過去ではなくて、気付いたら彼女との思い出のひとつに形を変えていた。

関係性をケアして自分を肯定する

友人たちと会った時間は、私にしばらく幸せな余韻を残した。他人との関係性を良好に保つことが自己肯定感につながる、というのをここ数年実感している。
ほとんどの人が自然と理解しているんだろうけど、私はこれに気づくのに結構時間がかかってしまった。

特に家族に対しては非常に難しかった。身近すぎるがゆえに理解しあえないことがもどかしく、彼らの考える理想の中で期待されるのも窮屈だった。
生きている時代も全く違うし、それぞれの考えや経験で作られる別の個体だし当たり前なんだけど。

ちなみに我が家は夫が料理を作るんだけど、
先日父に「なんでお前が料理を作らないんだ?」と言われて、久しぶりに昭和のパンチを喰らってついついぐぬぬとなったけれど、、
(顔には出てたかも。我々は共働きぞ!?)

今となっては昭和すぎるその考え方は、一家の大黒柱を立派に務めた父の責任感と覚悟を作りあげただろうし、言い返したいのは私のエゴでしかないのでぐっと堪えました。大人になったねえ。もう少し若かったらギャンギャンに噛み付いていたよ。

理解しあえないのは前提、だって別の人間だから、のマインドを強く持って、仲良くやっていかないとな。それは親孝行でもあるし、私のためにも。

家族には頻繁に贈り物をしているんだけど、もちろん相手に喜んでほしいという気持ちはちゃんとあるものの、そうして関係性を良好にする行動を重ねることが、私の精神衛生上にとって何より大切なのだ。

両親に育てられた幼い頃の私が、幸せだったと言い切るためには、今も、これからも良好な関係性であり続けなければならない、そして決して胡座をかくことなく努力や気遣いを忘れてはならない。過去を悲しいものに変えてしまわないよう。
これは未来の私へのメモであり決意表明も兼ねて。

ちなみに今回の写真は、時系列は遡るものの、先日両親と食べたピザです。
中目黒の聖林館。美味しかった🍕

そうしてちょっと乱暴なご自愛

そんなこんなで、地元をかなり満喫し、自宅に戻りました。
戻った日の夜は近所のカレー屋さんでスパイスキーマカレーを食べました。

地元でのゆるやかな日々から都心に戻り、ちょっとばかし気持ちの寒暖差にやられてしまい、カレーを食べたのに、さらに家でカップヌードルを食べました。
これも自分のケアのひとつということで。