302.かつて年末年始も関係なく野球をしていたぐらいなのだから
いよいよ年の瀬の12月30日。
この日は野球をする予定でした。(結局グラウンドに霜が降りて中止になりました。)
寒いだろって?
めちゃくちゃ寒いです。野球やる気温じゃない。
と思いつつも、よく考えてみたら高校生、大学生の頃は年末年始も関係なく野球をやっていたな、とふと思うわけです。
年末年始だから、ゴールデンウィークだから、お盆だから、といって休みだった経験は殆どありません。
長期休暇は一日中練習なので、どちらかというと来てほしくないと思っている方でした。
今もある意味そうです。
年末年始だからといって、仕事も、やるべき作業も、人と会うことも、自分の人生に向き合うことも休むことはありません。
野球だって、かつては年末年始も何も関係なく取り組んでいたのです。
人生懸けてやっていることがあるのなら、そりゃ休みなんて概念は端から存在しません。
そもそも休みは必要なのか
大学四回生の頃はもう引退していましたから、最後に年末野球をしていたのは大学三回生の頃でしょうか。
高校生の頃は、年末年始に人生で一番バットを振る一週間をつくろうという、謎の挑戦をしていたことも覚えています。
なぜこんなことができたのでしょう。
なぜ、上記の記事にあるような、都度それぞれの挑戦を繰り返してきたのでしょう。
休んだほうが楽です。
年末年始もそうですよね。
楽なのです。
何も考えず、プレッシャーもなく、日々の強制された何かから解放される、そんな一瞬は確かにあってもいいかもしれません。
ただ、解放そのものが必要ない場合もあります。
好きでやっていること、意味があると思ってやっていることの場合は、解放されている場合ではありません。
一日バットを振らなかったら、取り戻すのに三日かかると言われてきました。
本当にその通りです。
野球を頑張っているときは、何としてもヒットが打ちたいと思っているときは、休みは逆に後々の自分を苦しめてしまうことになりかねないのです。
同じようなことが、今起こっていないでしょうか。
後々の自分のために、今できることをやる。
そこに年末年始とか、長期休暇とか関係ありません。
という人生を歩んできたので、僕はそもそもゆっくりする、休む、みたいな概念はなかったのかもしれません。
ただ、何につながっているのか意味がよく見出せないことや、やらされていることからの解放を求める、という意味では休むという選択をしていた社会人一年目二年目の頃はありました。
今は違います。
年末年始は人間が設定した区切りで、別に僕のレベルが急に上がったり、変化したりすることはありません。誕生日と似ていますね。
具体的に人生良くしていきたいなら、ずーっと動く。
これは続けたら人生良くなるな、という実感が持てたら、後は願望の赴くままに身を委ねるだけです。
かつても、そういう生き方をしてきました。
今も、そしてこれからも、僕の成し遂げたいことに向けて着々と。
年末年始こそ、より加速させるチャンスなのです。
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