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233.人生という劇場に幕間は必要なのか?

まるで、息を止めて走っているかのような。
息継ぎなしで、芽が出るまで駆け抜けているような。

そんな感覚が続く毎日を過ごしています。
なんだか、学生時代に野球を全力でやっていたときのようです。

なんなら野球の方がよっぽど確率論で、管理下にないことに左右されることも多いぐらいかもしれません。

さて、野球をやっている当時の僕は、普段あまり遊びに行くこともなければ、旅行に行くこともありませんでした。

高校時代も、練習が終わったら話す部員たちを置いて一人で帰って、黙々と素振りをしていたタイプです。
空いている時間があればバットを振る、みたいな生き方をしてきて、オフの日はゲームをきたり本を読んだり、当時はそんな日々。

その生活のおかげで高校では一年秋から試合に出て、その後大学まで野球を続けられました。

一点集中する時期は、何においても大切です。

仕事でも然り。
ただ、果たして人生という視点で見ても、同じなのでしょうか。

仕事と遊びと、その境目。
狂気的なまでに本気で物事に取り組む時期と、息抜きのような一瞬。
劇場や芝居でいう幕間のような。
そんな時間の使い方。

このバランス感覚と、そもそもの捉え方自体から、今大きく変えています。

息抜きをする暇はあるのか?

先日、一泊の旅行に行きました。
友人のツテで長野の山荘に行き、溢れる緑の中でBBQを楽しむ、とにかく飲む、みたいな時間を過ごしました。

山の中なので、電波が非常に弱いです。
仕事や、普段やっている作業が物理的にできません。

電波が届かなくなったら、今までの毎日だととても困っていたでしょう。
今回の場合はどうしようもないので、必要な作業をするのは諦めることにしました。

息抜きの暇なんて、ないと思っていました。
そんな時間があるなら、何かできるんじゃないか。
そう思っていました。

デジタルデトックスならぬ、作業デトックスとでもいいましょうか。
スマートフォンがないとどうしようもないと思っている日常も、案外一日ぐらいなら何とでもなるように、作業や仕事が一日ストップしてもまあ何とかなります。

強制的にインターネットでできることが途絶えても、別に仕事が進まなくて崩壊するわけではありませんでした。

実際に息抜きをしてみたら、意外と時間は作ることができましたし、何より息抜きも副次的にいろんな効果があることがわかりました。

仕事と遊びの境界線をぶっ壊す

何もしない時間を作るわけではありません。
仕事や作業ができない時間は、代わりにBBQをして友人と話します。

友人だけでなく、仕事やプロジェクトのつながりもあります。
その人たちとアナログのコミュニケーションが取れます。

息抜きと思っていた時間も、そうしたコミュニケーションを取ることで今後の仕事や作業に生きる。
真面目な話だけでなく、人としてのつながりがその後の人生に影響を及ぼす。
あと何より、面白い。

遊んでいること、息抜きをしていること、仕事をしていること、それらの時間がすべてに作用して、すべてに生きてくる。
仕事が遊びで、遊びが仕事。

大統領のように働き、王様のように遊ぶ。

バブル期の時代のCMで流れていた言葉です。

仕事がまるで遊びのようで、遊びがどこかで仕事にもなる。

そんな価値観、仕事観が身につけられるような生き方をしたいものです。

結局、バット振った人が打てる

とはいっても、遊び倒せばいいわけではありません。

結局結果を出すことがまずやるべきことで、その先に自由が待っているのです。

野球で結果を出している人は、一時的にど集中して素振りをした時期があるはずです。
結局何と言おうと、バットを振った人が打てるのです。

狂気的な時間を経て、息抜きが仕事にもつながるような、そんな生き方を手に入れられると信じています。

人生という劇場には、四六時中素振りをするような異常なほどの集中時期もあれば、こうした幕間の時間が生きることもあるのではないでしょうか。

幕間ばかりの劇がないように、効果的にそういった時間を創ることができれば、より彩り溢れる人生の時間が生み出せると思います。

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