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268.色眼鏡なしに言葉を捉えることはできるのか

メディアやインターネットによって、浅く広く知識や知見が知れ渡るようになりました。
情報過多の社会といわれるぐらいですから、今大事なのは情報をたくさん収集することではなく、厳選することだと改めて感じています。

どこから、誰から情報を取るかということと、机上の空論ではなく実際に見たこと、実践したことを信じること。

ただ一般的には、フィルターがかかって収集された情報が、自分の世界の全てだと思い込んでしまう。

こうした事象はそこら中で起こっています。

自戒の意味も込めて、改めて考えてみました。

情報どころか、昔ながらの「言葉」ですら、すでに独り歩きしていると感じています。

特に言葉については、こうして物書きとして言葉を扱う以上、フラットに捉えたいものです。
完全には不可能ですが、できる限り色眼鏡なしに、偏見も思い込みも排除して、言葉を捉えたいものなのです。

言葉から連想されるもの

例えば、洗脳、と聞いた際に思い浮かべることは何でしょうか。

怪しい宗教の集会の図でしょうか?
何かよくわからない修行を延々とやっている図でしょうか?

洗脳された人、といいますが、自分は洗脳されていないといつから錯覚しているのでしょう?(BLEACHの藍染風に)

学生生活はどうでしょう。
貯金や就活という世の中の当たり前とされていることはどうでしょう。

靴を脱いで室内に入ることですら、文化という皮を被っていつの間にか常識として刷り込まれています。

青信号は、緑色じゃないですか?
という実業家のローランドの言葉を思い出しました。

周りの人がそうだから。

これだけで常識はつくられるのです。
刷り込みだという認識もなく、いつの間にかそうなっているのです。
あれは緑じゃなくて、青。
いつの間にか、誰もが青と言いますね。
これは刷り込み、言葉の意味的には洗脳の一つと捉えてもおかしくないかもしれません。

もっとも、その洗脳や刷り込みによって人はどこかに向かうことができ、人生や経済が前進すると思っています。

良いか悪いかという議論ではなく、特におかしいことではないよね、ということです。

多分、洗脳が駄目なのは人の道に外したり、悪いことをしたり、人に迷惑をかけることが駄目なのです。
その先の行いが駄目なのであって、洗脳自体は今まで生きてきた人生振り返れば、何度も経験していると思います。

高校野球の練習は最たる例かもしれませんね。
十分に経験してきましたが、学生の本分は勉学だといくら言われても、甲子園を目指したい人は目指したいのです。
勝ちたい人は、狂ったようにバットを振るのです。

僕も一日700スイングを続けていた時代がありました。
あれは野球の試合で勝つ、ヒットを打つという目標や名目がなければ、ただの拷問か苦行でしかないのです。

あの頃は野球というスポーツに洗脳されていました。
そんな人間、めちゃくちゃいると思うんですけどね。

今は、どうでしょう。

周りの人は、自分は、どうでしょう。

何者かになるために、何かを成し遂げるために。

何かに洗脳されていますか?

言葉はイメージと結びつく

少々強い単語を例に出しましたが、このように言葉はイメージと強く結びついています。

転職、と言われれば心配され、起業、と言われれば止められ、夢を追う、なんて言われると否定される。

そういった時代は確かにあったかもしれません。

僕も止められたり否定されたり、心配されたりすることは何度もありました。

例えば、親の時代は当たり前でなかったことを子どもがやろうとしたら、心配しますし止めると思います。

自分たちの時代には、あるいは自分の知っている世界では当たり前でないことは、わからないので一旦否定的な立ち位置になります。

それはもう、仕方ありません。

やったこともないことをわかれというのが酷なのです。

年収数千万稼いでいるけど何の仕事している人かわからない人は怪しく見えます。
自分の知っている仕事の形がこの世のすべてだと、思い込んでいるからです。

勧誘という言葉だって、中学の部活でも大学のサークルやバイトでもしている人はたくさんいました。何なら就活も人集めですね。
ただどうして社会に出ると、途端に怪しい響きだと捉えられるのでしょう。

きっと、それを扱う人の差だとは思いますが。

ともかく、言葉はイメージと結びついています。

僕も、無意識のうちにそうした結びつきを連想している言葉はたくさんあると思います。
まだまだ経験もしていないのに判断していることや認識していることはたくさんあると思います。

なんだかネガティブな連想ばかり例に挙げましたが、ポジティブな言葉と連想も数多く存在しています。

それこそ甲子園なんて、一見華やかな場で高校球児の姿に感動できますが、他の国にはない文化なので高校野球を知らない人からしたら異様な日本の盛り上がりに映るかもしれません。

つまり、どこかに属して生きている以上、知ってか知らぬかはともかく、何かに染まって生きているのです。

色眼鏡なしに物事を見ることは、僕は不可能だと思っています。

それが人間の複雑さであり、多様性であり、美しさだと思います。

選べるのは、どの常識に身を置いて生きるかということだけ。

海外はなぜ靴を履いて家にあがるんだ!という意味のない評論を万物に対してしていないか、今一度自分に問いかけます。

外の世界は、あなたにはわかりっこありません。
僕もわかりません。

なので、身を置く世界を選びましょう。

それが、過多な情報を選別すること、言葉の捉え方を知ること、だと思います。

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