地獄の沙汰も金次第
先日、後輩の職員のおじいさんがなくなった。90代で老衰だった。男性としては長生きした年齢である。
仕事を休んで、地元に帰り葬儀の手続きをしている彼から夜遅くに一報があった。
寺の住職と葬儀の打ち合わせしたところ、けっこうな額をふっかけられている気がしてならないと相談してきたのだ。
特定の宗教がなかった彼の家では、いわゆるはじめての仏さんだとのことで、葬儀屋が紹介してくれた寺から当たったとのことだった。通夜や葬儀の日程が既に決まり、短い日程で解決しないといけないとなるとユーザー側が弱い。
都会では、そんなん無宗教でええやんと言い切ってしまえる案件も、群馬の田舎では親戚の目もあるのだ。
笑ったのは、オプションでどんどん和尚が増えていくシステムの提案をされたということだ。
田舎で育った私は、曹洞宗の寺の檀家の家に生まれた。日曜朝はじいさんと寺まで散歩して座禅を組む。そんなのが日常だった。年1回くらいは墓参りをしないと気持ち悪い性分はこの辺りから来ているんだろう。
10年以上前になる話だ。結婚したての頃、妻の実家の墓参りをさせてほしいと話したところ、何年も墓には行っていないと言われかなり驚愕したのを覚えている。
習志野の集団墓地をきれいにし、それから何年かおきにはそちらにも挨拶をしている。
経営者だった私の祖父は、寺をすごく大事にしていた。東北からわざわざ比叡山に出かけたり、東京で仕事がある際は鶴見の總持寺をよく参っていた。
子どもや孫にあまりお金を残さなかった彼が、100万単位の寄付を何回も寺にしているのを見て、子どもながらに不思議に思ったことがあった。
祖父が亡くなり、葬式がひと段落したとき、父にたずねた。子どもや孫より金をかける宗教ってなんなのかと。
父の答えは明確だった。大事なのは祖先に敬意をもつことで、キリストだとか仏教だとかはそのプラットフォームにすぎないと。
金に不自由なく育った父らしい答えだなと疎ましく思う反面、ギスギスしていない人が出した答えがこの案件では正解に近いのかもしれないと思ったものだった。
祖父が何百万のお布施をしていても、子や孫は大学を出、そこまで不自由ではない生活ができている。年 1の墓参りはかかさぬ私でも、この辺が仏教のやつらのうまいとこなのかもなと最近思う。
私の周りにも、平日は教員だったり、医師や歯科医師だったりする住職が何人もいる。医療法人には、宗教法人を買わないかなんて話もたまに来たりする。休日坊主からも普通に税金とれば良いのにね。
プラットフォームは、使い手によって良いものにも悪いものにもなるから、特別扱いしないで極めて普通対応するのが大切なんじゃないんだろうか。
盆は墓参りに行こうと思う。
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