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江戸時代を学ぶ・救荒作物

 江戸時代の飢饉はそれは凄かったようで、農業従事者が100万人単位でいなくなったそうだ(#最近の学び)

 それで、思い出したのは、祖父のこと。
「庭の柿の木は切るな」
と、いつも言っていた。コメの実りの良くない年は、柿が豊作になるのだそうだ。
 何も食べる物がなくなったら、柿を喰えという。
 子どもの私は戸惑った。うちの柿は、とんでもない渋柿だったから!
 でも、渋柿だからこその救荒作物だったのかもしれない。
 困ったときしか、食べないから。

 そういえば、花壇の仕切りにお茶も植えていた。
 隙間がないほど、びっしり樹も植えていた、これは関東平野の屋敷林(風を防ぎ、水を地下に貯める知恵)の流れだろう、だが、屋敷というほどの面積のない町場の貧乏家には近所迷惑そのものだったかもしれない、父は守ったが、父が死ぬと母は全部切ってしまった。笑ってしまうけど、欅が3本?桜、檜、それと地震対策の竹藪!めいわくだよねー。
 (私は大好きだったから、母にどうして切っちゃったの?と。困らせたかも)
 そのころ、市道整備のセットバックが入って・・・とかも思い出した、いろいろ事情が錯綜する。

 祖父は心がけて、梅だの梨だの、食べられる樹を植えていた。
 木登りするガキ大将に怒ってたけど(思い出した!梅は折れやすく、落ちたら怪我する、枝が刺さると重症)、梨の実が成ったら、みんなに押し付けてニコニコしていた。昔ならともかく、あの子たちはうれしかったかなぁ?
 ちなみに、柿は焼酎に付け、梅は梅干しにして無駄にはしない。といっても、祖父はやらない。父と母がやっていた。

 柿ばかりでない、雑草のようなものも、植えていた。なんか・・・絶やしてはいけないものだったみたい。
 園芸に興味を持ったばかりの私が植えた「トビキリきれいな花」は全部処分していたくせに!私はきれいな花は枯れやすいんだって思ってたけど、学校に行った後にそっと抜いて捨てたらしい。こっちは本格的な「雑草(庭において増えたら困る草)」だったから。今なら納得できる。野の花は野に。
 祖父が毎年種を取って植えていたあの草々。不肖の孫は名前さえ覚えていない。それとも、普通に野菜だったのだろうか。
 一つは思い出した、ドクダミだ。十薬という。あと、ゲンノショウコもあったし、タンポポ系の何か。菜の花に似た草。道路に面した場所の碧はなんだったか。父が植えた黒い実の樹の下のとっときの場所、たしか蘭科。池に岩松、シダの類。あとは・・・。
 薬草といえば、朝顔は蚊に刺されたらつまんで絞って塗ってくれた。かゆみがスーッと引いた。

 救荒作物で忘れられないのは、鹿児島県に住んでいたとき、徳之島で勉強会があって「ソテツ地獄」について話を聞いたこと。
 島では、いや、島だから、嵐とか舟が来なくて孤立することがあって(そんな生易しい状況ではなかったけど・・・)、そういうときのために畑の周りにソテツを植える。
 それしか食べる物がない、ということ自体、ソテツ地獄なのだけど。
 ソテツの実には毒があり、食べるときは晒しに曝す。それでも、毒が抜けてなくて、苦しんで死んでいく人がいたそうだ。

 今は、足りなければすぐに買い物ができる時代。
 <いざとなったら>を見通すのは、生易しいことじゃない。
 年寄りの経験を引き継がずに大丈夫だろうか。
 でもま、今の年寄り(100歳くらいの人を想定)もまた新時代を生きていて、飢饉なんて覚えていないだろう<と思う>

 江戸時代には、準備がなくて、貧しい人・弱い人から飢餓状態になったそうだ。
 飢餓とは、食べ物が届いても、もう、食べることもできなくなることだそう。そこまで行ったら、救いの手が届かない。

 ググってみた。江戸時代の救荒対策。

減租…年貢の軽減策。
貸与…米麦や金銭などの低利貸付。食料・種子、米銭
拝借金…藩に対する貸付
施与…米銭もしくは日用品を支給したり、粥などを振舞う
御救普請…公共工事で窮民を雇い入れ
飯米喰延…加工品の製造禁止(原料を食料に)や粥食化など呼びかけ。
救荒食物…代用となる食物の栽培・消費
価格統制…米価など統制して値上げを防止

 今の対策とだぶる。

 学ぶ途中で<松平定信>さんに行き当たった。

 松平定信は、白川藩主のときに、天明の大飢饉に遭遇した。お城には備蓄米が0という状況、10月に会津藩の廻米を買い付けて凌いだそう。
 その経験から、強制的にでもその年に取ったコメの何パーセントかを積み立てるお倉米制度(名前が違う気がするので後で直しますね)を作っている。
 江戸しかり。全国の藩然り。江戸の町会しかり。もちろん、村にも御蔵(備蓄米を入れておく蔵。毎年入れ替えて保持する)を強制。
 反発もあって、失脚の原因の一つにもなったそうだけど、本人は「やってよかった」と思っていただろう。

 私は感謝しかない。多分、当時生きていたら・私も救われた側だ。

 心がけて、ちょっとした畑を作る、とか、日常に備えを持っていきたい。
 地域史を学ぶことは未来をみることって、先生がおっしゃったことがちょっとだけ、身に沁みる。


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