黒猫

 電車を降りた瞬間、まとわりつくような熱風に一気に汗が噴き出してくる。久しぶりに下りたこの駅は、横浜とは名ばかりで田舎のような駅である。駅舎こそ大きいがみどりの窓口もない、閑散とした駅だった。一年通してこの駅が賑わうのは駅伝の季節だけだ。

 駅の外はもっと暑かった。照り付ける日差しを遮るものがなに一つない。これからこの炎天下を二十分近く歩くのかと絶望する。どこにいるのか、ひっきりなしに降ってくる蝉の大合唱がより暑さを増幅させていく。災害級の暑さなどと言われている通り、異常な暑さだ。お天気お姉さんは今日の最高気温は三十六度と言っていたが、このアスファルトの上は何度なのだろうか。照り返しで目が痛いほどに世界が白かった。

 神奈川県はもとより坂が多い。横浜と聞くとみなとみらいを思い浮かべるだろうが、実際はその大半が山である。これから向かうのも高台で、信じられないほど急な坂を上った先にある。実に五百メートルはあろうかというその坂は、つづら折りになっている上に急こう配だ。ただでさえこの暑さで息も絶え絶えなのに登り切れる気がしなかった。

 そんな地獄のような坂道だが、ひとつだけ楽しみがあった。人懐こい黒猫がいるのだ。なかなかでっぷりとした体格で、明らかにボス猫という風体だが、愛嬌は抜群である。地域の人からはクロと呼ばれていた。久しぶりにクロに会えるならと気力を振り絞った。

 坂の景色はだいぶ変わっていた。坂の傾斜こそそのままだが、古いトタンの住宅はピカピカのアパートになっている。放し飼いの鶏を飼っていた家は雨戸が閉められていた。なにより、猫が一匹もいない。ほんの数年前に来た時は行きも帰りも地域猫天国で、クロ以外にも痩せた三毛や遠巻きにこちらをうかがう白猫なんかが居たものだ。楽しみを取り上げられた子どものような気持になりながら、せっせと坂道を歩いた。

「ばーちゃん」
古き良き引き戸を開けて声をかければ、小柄の祖母が顔を出した。
「まあ、汗かいて。暑かったでしょう。」
「とんでもない暑さだよ。それよりばーちゃん、猫たちどうした。」
祖母は寂しそうに目を伏せた。

 感染症が流行った年の秋頃になると、いい機会だからと辺り一帯で補修や老朽物件の解体、新築の建設が続いたそうだ。そうこうしているうちに道路工事や水道工事も動きだし、この辺りを縄張りとしていた猫たちはどこかへ行ってしまったのだという。
「あれだけ人の出入りが激しく音もうるさくて、化学物質の臭いが立ち込めたら、そりゃあ猫たちはたまったもんじゃないだろうさ。」
人間だってたまったもんじゃないと祖母は言った。ちらほら見かけるようになった猫の中に、以前この辺りに居た猫たちは居ないという。私も祖母も餌付けをしたりはしなかったが、それでも地域と共存していたその猫たちを見かけるだけでうれしくなったものだ。猫の命は人より短い。この災害級の暑さもある。もしかしたら天寿を全うしただけかもしれない。それでも猫たちが居なくなったことに寂しさを覚えた。

 クロ。いまごろどうしているの。このあたりの開発も落ち着いて、工事はしばらくなさそうだよ。気が向いたら顔だけ見せに来てちょうだい。

 ひどく晴れた空に浮かぶ雲は、真っ白だった。


pixiv創作アイディアの今日のお題「黒猫」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?