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レターパックで届いた学位記。間違った日本語。



高3の8月、判定はE。
ひとり暮らしをしたい。日本語学を専攻したい。その二つの希望が叶い、そのうえ家からも許しが出る大学はたったひとつ。第一かつ唯一の志望大学だった。11月、頼みの綱だった推薦入試に落ち、センター試験2週間前の元旦模試の結果は前年の合格者最低点を100点も下回っていた。ギリギリまで絶望的だった。

合格発表の日はひとりでネットを確認した。受験番号の数字は若い。合格していれば最初の方に載っている。リンクを押し、スマホを伏せる。深呼吸するも、吐き出す息が震える。見ようとして、また伏せる。コントみたいに何度も行ったり来たりして、ようやく、画面をスクロールした。

あった。

階下にいるおばあちゃんのもとへ泣きながら行くと、その姿を見た瞬間におばあちゃんはおいおいと泣き出した。いや、まだ結果言ってない。思わず涙が引っ込む。どうやったね、と箪笥からハンカチを出しながら尋ねるおばあちゃん。受かったよ。そのことばでまたダムが決壊して、二人でぎゅうぎゅうに抱きしめあった。昔から、見栄っ張りな私が唯一、ためらいなく胸に飛び込める人。まだ同居していない頃は会いに行くたび玄関先でぎゅうぎゅうしていた。少なくなった白髪(これを言うと怒られる)が肩の下で揺れる。小さくなったなぁ。久しぶりにおばあちゃんの畳みたいな匂いを感じながら、ぼんやりと思った。



___学位記を手にした今、4年前の春を思い出す。

数日前に行われた卒業式には出席していない。感染症の影響で式は縮小され、学内への立ち入りも制限された。レターパックで届いた学位記を見て、呆気ないなと思いながらこれを書いている。



正しい日本語を使えるようになりたい。

大学の志望理由は、満開の桜が綺麗に見える校舎で早々に打ち砕かれた。


私が大学生活で一番学んだことは、「正しい日本語なんてない」だ。
それは入学式当日の説明会で教授が言った。大学のパンフレットで研究内容を見て研究室に入りたいと思ったその教授が、学びたい内容と正反対な言葉を口にした。正直「は???」と思った。

「正しい日本語なんてない」
日本語学という学問は、正しい/正しくないを選別する作業ではない、ということ。(自分なりの解釈です。)

現代を生きる私たちが古文を読んでもスムーズに読解できないように、「死語」が存在するように、同じ日本で使われてきた言語でも時代とともに変化している。それは今が完成形なのではなく、日々すこしずつ、移り変わる。

私は卒業論文で若者ことばをテーマにした。厳密には、従来の用法とは真逆の使い方をされているあることばの、新しい用法が広まっている根拠を調べるというもの。論文で取り上げた新しい用法は、国語辞典に記載されておらず、使っている人も少ない。辞書に載っていたり公的な場で用いられたりする言葉を「正しい」とするならば、私が研究したことばの用法は「間違った日本語」である。

約半年かけて行った研究結果のひとつに、新しい用法は言い換えられることばが存在しない、というものがあった。それはどういうことか。人は日本人が有している語彙で表せなかった感情、心の微妙な動き、どのことばにもいまいち当てはまらない性質を表そうとしたとき、その新しい用法を使っていたのだ。これまでの日本語ではことばにできない感情を表す役目を、その「間違った日本語」は担っていた。この結果を得て、入学時に教授が話していた「正しい日本語なんてない」の意味がわかった気がした。


「やばい」「エモい」「ぴえん」「〜しか勝たん」などなど、一定の人に眉を顰められそうなことばはたくさん存在する。そしてそれらを、使うべきでない場が存在するのも事実である。
それでも、「間違った日本語だから」と言って頑なに否定したり、耳にするたび気を悪くしたりするより、「なぜそのことばが用いられているのか?」「何を表したくてそのような表現にしているのか?」「類似することばと何がどう違うのか?」と考え、自分なりの答えを発見していく日々の方が、ずっと楽しいのではないだろうか。そして「ああ、この感情を表すためにこのことばがあるのか」と実感できれば、自分の感情にひとつ名前がつく。名前のつかない感情こそ美しく見えるときもあるけれど、私は、ことばによって自分の心が細分化されていく感覚が好きだ。その胸がすっと晴れるような感覚を卒業論文で味わえた私の大学生活に、心残りはない。


日本語の誤用を広めていきたいなんて思っていないし、日本語の用法や正しいことば遣いにこだわりを持っている人ほど、ことばを大切にしているのだろうと思う。若者ことばを否定する人を否定するつもりはない。しかし新しいことばを用いていることが、ことばをぞんざいに扱っている証明のように思われるのはすこし悲しいなと感じる。

もしこれから「なんだそのことばは??」としかめっ面になったときは、「それでしか表せない何かがあるのかもしれない」と考えてみようと思う。

そのやわらかい見方こそが、私の大学生活の成果だから。



偶然にも、学位記の入ったレターパックを玄関先で受け取ってくれたのもおばあちゃんだった。4年前から変わったようで変わっていないその小さな背中に安心しながら、卒業しました、と改めて伝える。

おばあちゃんはまた早々と、涙を浮かべていた。



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