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付け足されたエンドロール


隣の席よりも、斜め後ろの席がよかった。


学ランから浮かび上がる肩甲骨。夏服の袖から覗く右肘のちいさな傷あと。机の上の常連だった青い紙パックのリプトン。体操着は右、部活のスパイクは左。指名された私が問題を間違えると、獲物を見つけたとばかりに振り返ってバカにしてきた。隣のクラスの美香が廊下を通るたび、右の目尻がとろんと下がった。そんな瞬間を見てしまう日常。それでも、斜め後ろがよかった。

だから向かい合っていると、夢か現実かわからなくなる。雑に捲られたワイシャツの下に、あの傷はまだあるのだろうか。スーツ、金曜の夜、居酒屋。いつの間にやら私たちは、この場面設定に溶け込めるようになってしまっていた。


「じゃ、お疲れ」

ビールとハイボールで乾杯する。炭酸が弱い。ウイスキーが勢いよく喉元を駆けた。高校卒業と同時に上京した髙橋は、すでに社会人6年目の大先輩だ。スーツ姿が様になっている、気がする。ロボットのように視線を彷徨わせる私に対して、くりくりとした瞳は無遠慮にこちらを向いていた。

「橘、なんか綺麗になったね」

きゅっ、と喉が鳴る。こういう奴だった。ほんっとに、この男は。そして私は、“返し方を知っている”女友達だった。

「でしょ? さすが髙橋、わかってんねぇ」
「あら? 髙橋こそかっこよくなったね、は?」
「それ狙いかよ」
「あたりめーだろ」

卒業以来初めて会うというのに、全サイズ150円のポテトをつまんでフードコートで駄弁っていたときと何も変わらない、偏差値の低い応酬。変わらなさが嬉しい。成長していなくて悲しい。お待たせしやしたー、と気怠げな声で、店員が唐揚げと枝豆を置いていった。枝豆のおしりで私を差しながら、髙橋が口を尖らせる。行儀が悪い。

「てか! こっち越してきたんなら連絡してや」
「……バタバタしてて忘れてた」
「丸1年も? おまえ大丈夫か」

大丈夫だから連絡しなかったんでしょーが、とは、言わない。

お互いの仕事について。初めてできた後輩の指導に戸惑う話。野田っちと絵梨が結婚したこと。担任の福ちゃんが定年退職したらしいこと。インスタや噂話を通してお互いにどこか知っていて、すべては知らない、まだら模様の6年間。笑うときに「い」の口になる表情も、すぐ前髪をさわる癖も、3分に1回はふざけるところも、よれたスーツとジョッキ以外、あの頃のままの髙橋だった。ここの唐揚げ、こんなに美味しかったっけ。足元がぽかぽかとあたたかい。

「あ〜。彼女ほしい」
「え? おらんの?」
「おらん。もう1年ぐらい。珍しいやろ」

相変わらずな言い草に、ハイハイ、そうね、と空いたお皿を端に寄せる。自分の発言に含み笑いしながらグラスを傾ける端正な顔立ち。彼をナルシストだ、女たらしだ、と毛嫌いする女子が少なからずいた所以はここにある。黙っていればもっとモテていただろうに。いきなり波を打ち出した心臓には気づかぬふりをして、ハイボールを流し込んだ。


私の正面、髙橋の後ろにある壁掛け時計の針が回る。一瞬脳裏をよぎる酔いに任せた甘ったるい空想に、すこしだけ息が止まっていく。

「橘は? 彼氏できた?」
「…できてませーん」

残りひとつの唐揚げをつまみながら投げやりに言う。薄い唇の端がじわっと角度を上げ、おもむろに頬杖をつく目の前の男。その整ったにやけ顔に強すぎる既視感をおぼえる。背景に黒板が見えた。緩みきったこの口が何を言うか、想像はついている。

「まだ俺のこと好きなん?」


+++


ずっと好きだったんだぜ
相変わらず綺麗だな

歌うというより、叫ぶ、だな。

仰け反った真っ赤な野田っちが、名曲を台無しにしていた。

成人式。中学と高校の同窓会に、両日とも髙橋はこなかった。仕事の都合で帰省できなくなったらしい。彼も来るはずだった男女混合グループの三次会。起動したばかりのカメラのような視界の中で、モスコミュールのグラスが汗をかいている。声だけで笑いながら、カラン、と堕ちる氷をぼうっと見ていた。

髙橋に電話しよーぜ!、間奏に響く野田っちの声。
ねぇ、髙橋にこの際言っちゃいなよ。絵梨が肘で私をつつく。
もういいやん、昔のことやろ? 野田っちがにやにやとスマホを差し出した。
ふたりして何? やめてよ。
今日終わったらもう一生話さないかもよ?
…まぁ、そうかも、だけど。
いけぇー! たちばなぁ!

脳をめぐるモスコミュールが、ブレーキを手放した。



んー、なんつうか…うん。あんま飲みすぎんなよ。

最後の柔らかい音だけが耳にしつこく残る。ただの酔っ払いの戯言ではないと、気づいている気がした。そんなことすら感じ取れてしまう距離感を築いた月日を恨んだ。酔った勢いで放った過去の想いを、いつもみたいな笑い話で流してはくれなかった。それが、斜め後ろから飽きもせず見てきた、髙橋という男だった。

一度きりの晴れの日。自棄になった愚かな私は、過去数年分の想いを冷たい夜に放り投げた。次の日の朝に死ぬほど後悔したのは言うまでもない。


+++


「…………あのねぇ、」
「冗談やん、怒らんでよ」

もう会えないと思ったから放り投げたのに、ばっさり電話を切ったのに、偶然再会したら飲みにいこうと誘ってくれた。「い」の口の笑顔で楽しく思い出話をしてくれた。あの夜をなかったことにはせず、しかしちゃんと笑い話にして、変わらずにいてくれた。それが答えということだろう。“友達”に優しい、髙橋らしい示し方。

ラストオーダーです。台本に書いてあったかのようなタイミングで声がかかる。あっ、じゃあ計算お願いします。あと1杯を粘らないあたりに、今さらフードコート時代からの成長を思い知った。




「今年、梅雨長いんだってね」
「らしいな、最悪やわ」


駅までの道をふらふらと歩く。終電まであと20分。涼しくもうっすらと肌にはりつく5月の風が、交わらない影の間を通り過ぎた。夕方の雨で濡れた歩道はパンプスの音をまろやかにする。このまま、帰るのかな。得体の知れないじっとりとした雰囲気がふたりを覆う。食事中の盛り上がりが嘘のようだ。横断歩道の白だけを踏むかのように一歩ずつ足を進める髙橋は、気味が悪いぐらい静かだった。

そういう夜があると知らない歳ではない。綺麗なままで終わりたいくせに、やっぱり、求められてみたかった。まるい爪が可愛い、その長い指で、ひらかれたい。行為の中身は欲でかまわないから、どうせなら、一夜だけ。落ち着かない。バックを胸に抱えこむ。わざと歩幅を小さくする。髙橋が足の向きを変えてくれれば、黙ってついていくのに。隣の革靴を見つめてみても、何もわからなかった。

所在なさげな右腕が後ろ首を擦る。
…あ、その傷。残ってたんだ。

「わざわざ言うことでもないんやけどさ」
「うん?」

唐突に破られた沈黙。

心臓が、ドン、と叩かれる。


「たぶん、俺が初めて好きになったの、橘なんですよねぇ」

独りごちるように発せられた言葉に頬を打たれた。何を言っているんだろう。おどけた語尾の一言で吹っ切れたのか、自嘲的に笑ったその横顔はべらべらと話し出した。私は10秒前まで、駅の奥に見えている安っぽい紫色の看板のことばかり考えていたというのに。

「電話くれたやん。成人式のとき」
「びっくりしたけど知っとった気もした」
「中1の俺、頑張って告っとけばよかったのにな」
「はは、久々に飲んで改めて思ったわ、楽しかった」

また、「い」の口の笑い方。全部過去形のくせに。彼女ほしいなんて言いながら、今から私と始める気はないくせに。告っとけばよかったなんて、今さら、そんなこと。

「…ばっかじゃないの」
「はぁ!?」
「ほんとばかだわ」
「いや、何なん、なにキレとるん」
「ねぇ髙橋、」
「ん」
「今から私とホテルいこ、って言ったら、どうする?」
「…………え?」

あまりにも馬鹿馬鹿しい。あんぐりと呆けたあと、徐々に形の良い眉が歪み始める。ちょっと、あからさまに困った顔しないでよ。
はあ、と大袈裟にため息を吐いた。

「嘘に決まってんでしょ、ほら、帰るよ」
「は? いや意味わからんわ! 待てって!」

パンプスをわざと鳴らしながら歩く。じわじわと滲んでいく前方の駅名。馬鹿な男と逆方向のホームにたどり着くまで、すこし待って。自分で自分の脳に語りかけているめちゃくちゃな情緒に、一周回っておかしくなってくる。一瞬ぐっと目蓋を閉じて振り返り、追いかけてくる髙橋を正面から見た。
うん。
やっぱり私には、斜め後ろが似合っていたのだ。



じゃあね。
そんな馬鹿正直なところまで、大好きだったよ。



最終電車のアナウンスが鳴る。けたたましい音がふたりの間を駆け抜け、私たちを戻るべき場所へと引き離した。


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