すゞめ-5
その日のエダさんを見て以来、わたくしは何度か、水を張ったばかりの水田で、自分の姿を映して見たことがあります。勉強を頑張り、エダさんに憧れ、都会に憧れ始めていたわたくしは、自分の背にも、エダさんのような翼がないかと思ったのです。
中学のスカートの裾を持って、水田に背中を映してみるのです。
しかし、わたくしの背には、エダさんのような翼はありませんでした。わたくしの中にある憧れの力は、せいぜい雀程度の翼にしかなりませんでした。
失望して見つめた水田に映った少女の姿は、どこか不安げで、雀の翼に不満を感じているようにも、短い翼で海に出ることを恐れているようでもありました。
私たちは高等学校に上がりました。三方を山で囲まれ、隣町までも鉄道や船で山を越えねばならないこの港町で、唯一の高等学校です。エダさんはますます輝きを増し、女性としても美しくなっていました。その美しさに、女子生徒も彼女に一目置くようになっていました。けれど、エダさんはそんなことに一切頓着なさいませんでした。
「こんなお洋服が似合うと思うわ。」
「エダさんいつまでもおかっぱでは子供みたいよ、髪を伸ばしてはどう?」
「街に新しいカフェができたのだけど、皆さんで行ってみない?」
そう言った声がかかるたび、エダさんはそれを嫌がりました。女性的な物事の一切を、毛嫌いしているようにも見えました。
高等学校に上がっても、エダさんは勉強で常に一番になり続けていました。それに対して私は、少しずつ順位を落としていました。勉強が難しくなったことは理由の一つですが、高等学校には私より、頭のいい生徒が多くいたのです。中でも数学が足を引っ張りました。
そんな中、エダさんを抜き、数学で一番になったのは、ハラデ君という男子生徒でした。彼は、私たち二人以外でたった一人の村の出身者でした。中学の後、三年ほど港で働いていたハラデ君は、学年でも年長の方で、組でも目立つ存在でした。
そんなハラデ君と、ある日帰りのバスが同じになりました。他の乗客が降り、私たちだけになった車内で、ハラデ君は話しかけてきました。
「コギノさんも、オオタさんも、どうして高等学校にまで進んだの?」
ハラデ君は、年上ということもあり、随分砕けた話し方をしました。
「そんなに珍しいですか?」
この頃エダさんは、同級の男子学生に敵対しているような態度をよくとるようになっており、この時も、エダさんは随分と冷たい言い方をされました。ハラデ君は、少し怯んだようでしたが、軽く笑って気にしていないようでした。
村でバスを降りると、エダさんが先に分かれます。私はハラデ君としばらく畑の側を歩きました。
「オオタさんは、どうして高等学校に進んだの?」
「エダさんに憧れたんです。」
私はそこまでしか言えませんでした。中学の時の件がありましたから、エダさんについて、本人がいない場所で、これ以上話してはいけないと思えたのです。
「それじゃ、学校の後は働くのだね。」
私は「ええ。」と答えようとして、ハッと、声が出ませんでした。同じ村のハラデ君に、そう答えることが、私はなぜか急に怖くなったのです。
「……ハラデ君はどうなのです?」
私は苦し紛れに問い返しました。
「僕は次男だからね。家を出なくちゃいけない。学校を出たら、港で技師になるつもりだ。」
「お船が好きなの?」
「まあ、そうかな。でも一番は、僕はここの街や港町から離れたくないんだよ。海の上で働くのは性に合わなかった。海よりは田畑の方が僕には合っているんだ。でも、家にはいられないからね。仕事を探さなけりゃならない。」
「それでは、工業科へ?」
高等学校は前期二年後期二年の四年制で、後期には就職に向け専門科へ進みます。工業科、商業科と普通科に別れる進路選択がありました。
「そう。工業科の造船過程。」
ハラデ君はそこで「じゃあ。」と言って分かれました。農道から降りた先が、ハラデ君のお家でした。庭で歩いていた鶏が、飛び上がってハラデ君を避けました。
私は自分の家に帰りながら、大変驚いていました。高等学校に行く人に、田畑の仕事の方がいい、と言われるとは思わなかったのです。
田畑を継ぐ男の子たちは、中学を終わると、家の手伝いを始めます。どこの村でも、子供たちは船がやって来ては帰って行く都会に憧れ、長男の中には、弟たちに田畑を任せ、船員になることもあるくらいでした。高等学校に進むのも、新しい仕事や都会での仕事に憧れる人たちばかりでした。
その時私は初めて、自分はどうなのだろう、と考えました。私はそれまで、高等学校を進んで、大学に進んで、と考えていました。けれど、その先が見えません。
私は自分の中に、エダさんのような強い意志も、ハラデ君のような明確な目的も、何もないことに気がつきました。私はエダさんに憧れただけだったのです。それ以外に、なんの理由があるのでしょう。
この記事が参加している募集
最後までお付き合いいただきありがとうございました。 空想することも、物語を書くことも私にとっては幸福な時間。私の書くものがそんな幸福で満ちるよう、これからも研鑽を重ねていきます。 よろしかったらスキ、フォロー、サポートお願いします。どれも励みになります。