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「ある」の上に乗る。「許せないもの」が減ると、視界は穏やかになる

例えば何かに対して、批判的な感情が湧く時。
それは、自分の中にある「これはこうであるべき」という基準と、実際に目の前で起きていることのギャップによって、起きてくる感情。

だけど冷静に考えたなら、「これはこうであるべき」っていうのは幻のようなもので、より根強い現実は、今目の前に、実際に起きていることで。
つまり実際に「ない」のは、その価値基準であったり理想の方で、実際に起きた現実の方が、「ある」と言えるもの。

これって当たり前の話のようでいて、実際そういう「ない」と認知したものに対する渇望ほど、私たちを翻弄するものはないんじゃないかと思う。

私たちはそういう、幻と実在とを比べて、その差に翻弄されている。
そして翻弄されている時、「ない」が優勢になり、「ある」が見えなくなっている。

「ない」「ない」「ない」「ない」「ない」
たびたび発作のように起きてくる、その思考の連鎖。

「本来こうであるべきはずのものが、こうではない」
「普通だったらこうしてくれるはずなのに、あの人がこうしてくれない」
「ここは私のいるべき場所ではない」

そうやって、自分を苦しめる幻想を脳内で強化して、目の前の世界に、「ない」ことの証拠集めをしに行く。
そして、それをすればするほど、より多くの「ない」に絡め取られ、目の前の多くのことが、許せなくなってくる。
自分をイラつかせ、不安にさせるものが、溢れてくる。


これは絶対に、どこかで立ち止まることが必要で、「ない」に溺れている自分を、救出する必要がある。
どこまでも「ない」を追いかける足を止めて、「ある」に戻ることが、必要になる。

「ある」「ある」「ある」「ある」「ある」
心の中で、念仏のように唱えてもいい。
まずはつま先立ちでいいから、「ある」に着地することを、意識する。
どこか頭上にありそうな、「ない」を掴もうとするのではなく、目の前にあるひとつひとつ、実際に「ある」ものを、丁寧に拾い集めていく。

「ある」を、ただ淡々と、認めていく。
「ある」を、一歩一歩、渡り歩いていく。
丁寧に、丁寧に。
ただ、「今」を、生きてみる。

時々また、「ない」が暴走し始めるかもしれない。
それでもいい。
気づいたらまた、「ある」の居場所に、ゆるやかに意識を戻していく。

だんだんと、心が落ち着いてくる。
昨日は許せなかったことが、何かひとつ、気にならなくなっている。
そこかしこに転がっている、または、本当は既に与えられていた「優しさ」が、見えるようになってくる。

そうしているうちに、ただ淡々と認めていくことは、「愛」なんだと、気づき始める。
視界が、愛に満ちてくる。
通常、人間的に認知されている「愛」というと、なんだか仰々しく感じてしまうけれど、そういうのではない。
愛はもっと、淡々としていて、色がなく、ただただ、そこにあるもの。
そういう意味で、愛が満ちてくる。
世界が穏やかに、見えてくる。

「ある」「ある」「ある」「ある」
ただ「ある」を、見つめていく。

「ない」は一種の遊びで、そのコントラストさえ楽しめるようになったら、しめたもの。

「ある」の居場所に、いること。
「ない」とざわつく私たちをよそに、その場所はいつでも、ただ静かに満ち足りている。


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