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内なる世界と外なる世界

最近よく昔を思い出す。
俯瞰して見られる年齢と年月と余裕がそうさせるのか。

わたしは昔内側の世界を中心に生きてきた。
いわゆる自分の世界。
外側という現実が不自由過ぎて、自分の世界が広く感じていたのかもしれない。
本を読めば知らない情景を知れて、頭に流れるメロディの詞を書けば満たされて、音楽を聴けば綺麗な景色が見えて、本能のまま自分を満たすように絵を描いたり言葉を綴ったりして小さな自分自身を守るように生きて来たと思う。

あとは見た目が良ければそれで全て良しだと、そして人間関係は恋愛が上手くいけばそれで良しと、それ以外の人付き合いはほとんどしていない、気付けば何も出来ない空っぽな人間だった。
社会不適合者まっしぐら。正直に言えば過去は水商売も長い。それもゆるく長く。

結婚をして子供が出来てからは特に現実を必死で生きて
今まで大して向き合ってこなかった現実にやっと向き合えた気がする。
最初は失敗してしまったけれど、子供のおかげで真っ当な人として生きようという意識も芽生え、子供のおかげで逞しくなった。
今の夫との出会いでより真っ当に生きたいと何とか普通の人生のレールに乗れていると思う。

それでもふとした時に昔の名残が過ぎる。
ある意味充実した日々は余白がなく色んな感覚を忘れていたし、それで良いと思っていたけれど
人はそう本質的に激変する訳でもないらしい。
そして人生の折り返し地点に近付いている。

ゆっくりと歳は取っているのだけれどどこかで時が止まっているかのように年齢不詳なのは、そういった内面からくるものだろうか。

外側の世界は今愛すべき夫や子供で満たされて幸せでそれ以上は望まないけれど、
内側にどこかでまだ満たすべきエネルギーが残っている事に驚く。
何も出来ない癖に何かしなきゃいけないという思いに駆られている。

昔だったら、そんな時夜中に絵を描いていたと思う。不器用で拙いのに、この上ない程沢山の色があり抽象的な絵。
何かを生み出すには物理的に時間を使うし必ずしも生活をしている中で犠牲に出来る時間は多くない。
いちばん大事なのは目の前の現実で家族で
それなのに、「 今」を噛みしめることが出来るようになるのはきっとずっと後で、もどかしいジレンマに陥る。

発作のように疼く時はこうして吐き出して
似たような感覚を持つ誰かに届くと良いな。

そしてこんな時は夫と全てのフラストレーションを発散するかのように夢中で抱き合えればわたしはきっと満たされるのだろう。いつでもそうタイミングが良い訳では無いのでやはりそんな時は吐き出すに限る。

内側にある自分の深い闇のような世界よりも
外側にある目の前の現実や家族が大事なのは確かなのだから、内側に引きずり込まれないように気を付けようと思う。

誰の為にもならない、わけのわからない文章を綴ってしまったけれど…。
最後まで読んでくださった心の優しい方、どうもありがとうございます。







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