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冬に咲く花 ep.2

 のんびり帰り支度をしていたら、二本君と稲田君が「明日の早朝に」と告げて、二人で帰っていった。
 顔を上げてドアの方を見ると、私を待っている雪絵がどこかを指差していた。少し離れた所で、淡路君と亜実が話していた。二人だけの世界に入っているようで、表情に周りを気にする色がなかった。声は潜めていて、話している内容は全く聞き取れなかった。
 私は急いで雪絵のもとに行って、二人に黙ってその場を後にした。
 忌まわしき下駄箱の前に着いて、今朝の悲しみを断片的に思い出したが、隣に雪絵がいることで胸の内に闇が立ち込めることはなかった。
 靴を履き替えて、ふと思った。今日でいじめが最後になるのだとしたら、私は後になって、この日をどんな風に思い出すだろうか。大切な日、記念日とでも位置づけようか。人生の分岐点とも言えるかもしれない。
 校舎から一歩出たとき、後ろから足音が響いてきた。気になって振り向くと、亜実が走ってきていた。
「待って、私も帰る」
「えっ」
 私と雪絵は顔を見合わせた。てっきり淡路君と帰るのかと思っていた。
「あれ、淡路と帰るんじゃなかったの?」
 雪絵が聞くと、亜実は手を顔の前でひらひらと振った。
「何か、寄る所があるんだって。一人で帰るの寂しいから、一緒に帰ろう」
「いいよ、帰ろう」
「大歓迎」
 そう言って、三人で歩き出した。
 空は、暗くなりかけていた。冬の日没はとても早い。学校の周りはただでさえ人通りが少ないのに、これではますます少ないだろう。
 雲が形を変えて、私たちに襲いかかってきたらどうしよう。
 そんな心配をしていた頃があった。剣になって降ってきたら。兵隊になって、一斉に攻めかかってきたら。非力な私たちは、対処のしようがないじゃないか。
 お母さんに言ったら、雲は綿菓子みたいにやわらかくて、触り心地がいいから、大丈夫よ。そういうのは、キユーって言うのよ、と笑って諭した。へえ、そうなんだ。触ってみたいなあ、と純粋な私はそれを信じた。
 さすがに今では、雲が触ってもやわらかくないことは分かる。キユーは、杞憂と漢字で書くことも。
 昔は、もっと世界が単純だった気がする。分かりやすくて、ぼんやりと過ごしていても同じ明日が来ると思っていた。だから、あの頃、何もしないで、繰り広げられる展開を静観していたのかもしれない。
 途中で雪絵だけ方向が違うため、「じゃあね、裕里。私は絶対にあなたの味方だからね」と言い残して、手を振った。
 振り返しながら、温かい友人の存在に、私の心は温かくなった。
 亜実と二人で並んで歩くことになった。彼女と帰るのは、多くはないけれど、初めてでもなかった。亜実はたまに沈黙の淵に浸かるが、他の人と違って、その沈黙は気まずさや嫌さはなかった。彼女の聡明な性格がそれを手伝った。その沈黙は、私たちなんかが思い及ぶことがない種類の考え事をしている最中だとか、あるいは頭の働き過ぎでたまに休む必要がるのだとか、勝手な解釈をしていた。
 また、彼女の沈黙は恐怖でもあった。感情を表に出さない性格だから、腹で何を思っているのか分からない。性格が悪いとは少しも思わないが、彼女が怒りを胸に抱いているとしたら、それをもし、表に出してきたら、私は恐怖で縮み上がることだろう。
 しかし、現実にそんな心配事は無用だ。これも、杞憂というものだ。
「どうして、すぐに誰かに助けを求めなかったの?」
 沈黙を破って、亜実の質問が私の耳に届いた。亜実の疑問はもっともだった。私自身、早く仲間たちに助けを求めればよかったのに、と過去の自分をなじっている。
「そうよね。どうしてだろう」
「自分でも分からないの?」
 亜実が、私の前を向いたままの目を覗いてきた。亜実の表情は、心配しきりで、励まそうとしているのがありありと窺える雪絵と違い、冷静に事実だけを捉えようとしている。私をかわいそうだと思っているが、感情的になっていても仕方ない、と思っているようだ。
 しかし、これもあくまで私の推測に過ぎないので、頭の中で全く違うことに思いを巡らしているのかもしれない。
「分からないこともないけど――上手く言えない。一つ言えるのは、すぐに終わると思っていたんだと思う。だから、表沙汰にしないで、終わるのを待っていたんだと思う」
「……優しいわね、裕里って。優しすぎるぐらいだわ」
「え?」
 ここで「優しい」という単語を聞くと思わなかったので、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「表沙汰にしないのは、自分のキョウジを守りたいからじゃなくて、いじめる人を守るためでしょう」
「キョウジって?」
「矜持は――プライドのことよ」
「ああ、そうかな。そういうことだと思う」
 違うとすれば、私は犯人を「守る」だなんて、たいそうなことをしようと考えたわけではない。ただ、犯人を面と向かって摘発する勇気がなかっただけだ。裏を返せば、結局、守りたかったのは自分自身なのだ。
「恨んだりしなかったの?」
「犯人を?」
「そう」
「あんまり。まあ、つらかったのは確かだけど」
「ふうん……私だったら、憤りをその場でぶちまけるかもしれないなあ。だって、普通そこは怒る所じゃない?」
「まあ、そうだけど……」
 私は俯いた。
「だけど?」
 亜実は重ねて聞いてきた。しかし、答える気はなかった。曖昧に笑ってごまかし、亜実も諦めて聞かなくなった。
 私には、誰かを恨んだりできない。だって、誰かを恨むことは、それこそ本当につらいことだと知っているから。
 ……――ん?
 誰かの叫び声が聞こえた。ちらっと亜実を見たが、亜実には聞こえていないようだった。
 待てよ、今の叫び声は、私の声じゃなかったか。誰かの叫び声と言ったが、まさか自分とは思わなかったから、分からなかった。でも、それは変だ。だって、私は実際に叫んだりしていない。
 それでも、聞こえたのは確かだ。
 不思議なことだ。何が何だか、よく分からない。
 そして、嫌な予感がした。今、私の知らない所で何かが起きているのかもしれない。あるいは、これから起こるのかもしれない。そんな気がした。


 机に向かって宿題を片付けていたら、次第に眠気を催して、うとうとと首を揺らし始めた。今日は何だか、疲れている。久しぶりに泣いたからだろうか。
 うとうとしているときのもどかしさは、何とも言い難い。どう抗おうと試みても、私を眠りに誘う力は強くて、とうてい敵わない。
 いつの間にか、眠っていたようだ。目が覚めた私は、イスから立って、コーヒーでも飲もうとキッチンに向かった。何となく、足が軽かった。ふわふわと、宙に浮かんでいるような。
 部屋のドアを開けると、今日、亜実と雪絵と三人で通った、あの帰り道が広がった。遠くにサッカー場が望める、ずっと真っ直ぐの道。私は制服を着て、誰かと一緒に帰っていた。
 楽しい。話していると、自然と笑顔になれた。腹を抱えて笑い、笑いすぎで目から涙が滲んだ。その涙が、一粒、地面にピシャッ、と音を立てて落ちた。涙がそんなに音を立てるとは思わなかったので、驚いて地面に目を向けると、その涙の粒が大きくなって、あっという間に水溜りになった。水溜りはあちこちに出来上がっていって、辺りが急に暗くなった。空が、青から灰へ変化した。
 私はびしょ濡れになったが、寒さは感じなかった。
 さっきまで隣にいた友達が消えていた。途端に、抑えようがない寂しさに襲われた。世界中で一人取り残されたような気がした。いや、気がした、ではなかった。一人だと確信していた。私以外の他の誰もこの世界には存在しない。
「助けて!」
 私は叫んだ。この恐怖から脱け出したかった。
「許して!」
 誰に何を許してもらおうというのか。私は今まで、どんな人でも許してきた。誰かを恨むのは、つらすぎると言って。でも、誰かに許されたことはない。だから、本能的に許されてみたいと感じた。
「お願い、許して!」
 私の叫び声を消すように、雨足は強くなった。次第に、自分で何を言っているのか分からなくなった。それでも、叫んだ。何かを、必死に。
 相変わらず寒くはなかった。開放されたいとしたら、ただ、寂しさから。寂しさと寒さはお似合いだと思っていたけれど、私の中ではそうではないらしい。そういえば、あのときも――。
 誰かが甲高い声で、私の名を呼んでいる。完全な孤独だと思っていた世界が、歪み始める。景色が所々、白を帯びだし、何もかもがぼやけてきた。
 そして、机からがばっと、顔を上げた。……あれ? 部屋にいる。
「裕里、そんな所で寝て。風邪ひくわよ」
 お母さんが傍らにいた。――私は、コーヒーを飲みに行こうとしたんじゃなかったかしら――そうか、あれは夢だったのか。それにしても、変な夢だった。
「私、何か叫んでた?」
「いーえ、何も。夢でも見たの」
 声を外に出していなかったことにホッとしたが、奇妙な夢を見たことに変わりはない。しかも、次第に内容が曖昧になってきた。
「……うん、変な夢、見た」
 お母さんはやわらかく微笑んだ。
「疲れてるのよ。今日は、もう寝なさい」
「うん、そうする」
 重くて、のしかかるような眠気は相変わらず続いていたので、私は布団にもぐり込んで、考え事をする間もなく、深い眠りに就いた。
 夢は、見なかった。


 あまりに気持ちよく眠りすぎて、翌朝、珍しく寝坊した。学校に遅刻する心配はなさそうだが、みんなと約束した時間には間に合わなさそうだ。
 急いで支度をして、家を出た。慌しくて、お母さんに「いってきます」と言えなかった。
 学校を足早に目指した。腕時計をちらちらと確認しつつ、急いだ。
 そして、気がついた。最近、私は学校に急いで登校していなかった。そういう年頃じゃなくなったのも、理由の一つかもしれないが、やはり、学校に行くことが億劫になっていたのが大きな理由だろう。自然と、足が重くなっていた。
 私の中で、いじめはもう区切りがついていた。まだ終わったのかも分からないし、犯人も見つかっていないのに、みんなに打ち明けただけで、もうずいぶんと心が軽くなっていた。
 そんなこんなで学校へ駆け込むと、集合場所の教室まで小走りで向かった。スカートの中が見えるのもお構いなし、階段を一段飛ばしで越えていった。
 息を切らして、教室に入ると、後ろの方で亜実や淡路君、二本君、稲田君が集まっていた。雪絵はまだ来ていないようだった。
 不思議だったのが、彼らの表情が一様に暗くて、俯いていた。教室もしんと静まり返っていた。朝の教室はわりと静かだが、この空気は静まり度合いが比べ物にならなかった。重すぎる。
 亜実が私に気付いて、はっとした表情を見せた。そして、私を見据えたまま、そっと手招きした。
「何かあったの?」
 みんなの輪に入って、それぞれの顔を眺め回した。暗くて、元気がなくて、表情のない顔だったが、何があったらそんな風になるのか、検討もつかなかった。
「朝、ニュース見なかったか」
 稲田君が呟いた。その語尾は、疑問とも嘆息ともとれた。
「見てない、急いでたから」
「石川」
 二本君が私をじっと見つめてきた。その目は、真剣そのものだった。それがまた、二本君によく似合った。
「落ち着いて聞けよ」
 このとき、私はいじめの犯人が判明したのかと思った。そうだとしたら、誰であろうと、許すと心に決めていた。
 しかし、判明したのだとしても、彼らの表情は重すぎた。普通、憤りが混じっているものではないだろうか。それに、亜実には犯人を恨まないことを告げてある。それが驚くような人であろうと、こんなに重苦しくさせはしなかったはずだ。
 しかも、その空気は教室全体に広がっている。それはどう考えてもおかしかった。第一、私がいじめられている話を知らない。
 つまり、いじめのこととは関わりないらしい。だとしたら、余計に何が起こったのか予想つかない。
「吹石が死んだ」
 二本君は話し上手だ。話を順序立てて進めるために、結論を最初に持ってきて、後から説明を加える。――え、誰が死んだの? 吹石って誰? そう思いながらも、雪絵の顔が脳裏にしっかりと浮かんでいた。
「昨日、通り魔に襲われて、殺された」
 頭の中は、混乱で何も浮かばなかった。言葉も出てこない。
「犯人は、まだ捕まっていない」
 一つずつ、二本君の言葉を紡ぎ合わせて、事実を読み取ろうとした。雪絵の死――この時点で、事実として受け入れられない――通り魔――犯人は捕まっていない――昨日――のいつ? 昨日のいつ頃だろう。夜中だろうか。
「い、いつ」
 私は妙にたどたどしい口調で、それだけ呟いた。
「昨日の夕方五時ごろ」
 代わって、亜実が答えた。
「私たちと別れた後。雪絵は――そのとき、制服姿だったそうよ」
 亜実は、殺されたとき、という言い方を避けた。
 別れた後――ということは、私たちも一緒に殺されたかもしれなかったのか。それに対する感想は色々と浮かんだが、最初に来たのは、代わりに私を殺してくれればよかったのに、だった。最初だからと言って、それが本心とは限らないが、どうやら、日頃から死んでもいいと思っていたようで、自然とその感想が浮かんだ。
 全身の力が偽りなく抜けてきて、私はその場にへたり込んだ。
 雪絵は死んだ……寂しさが……雪絵が……もう、いない……雪絵は……。
 私は、いつまでも床にしゃがみこんでいた。チャイムが鳴った。早く立って、席に着かなければ、先生に怒られてしまう。でも、先生はしばらく経っても来なかった。
 私はいつまでもしゃがみこんでいた。


 それから数日間は、抜け殻のように生きていた。学校で大事な話をされたような気がするが、何一つ頭に残っていない。雪絵のための何かをしたようだが、意識が半ば定まらない内に終わっていた。先生や友達、お母さんも何か慰めの言葉を私にかけてくれたような気がするが、どうも夢心地で正確に覚えていない。
 それでも、時間は進んでいた。空っぽな一日が、寒空の下、消化されていった。
 雪絵を失った悲しみだけが、私の胸中を占めているわけではなかった。色々な感情がないまぜになっていた。ないまぜの状態だということは分かるのに、どんな感情なのか判別がつかなかった。判別をつけようにも、頭の中は空っぽで、考え事がちっともはかどらなかった。
 犯人は相変わらず捕まっていない。
 私は今度ばかりは犯人を恨むのかな。友達の、私の大事な友達の命を奪ったのだから、さすがに犯人を憎むのだろうか。
 しかし、分からない。雪絵には本当に申し訳ないけど、それでも犯人を恨むと断言できない。私はそれぐらい、誰かを恨むことをいつからか放棄していた。
 人は変わる。良くも悪くも、生きている限り変わり続ける。
 でも、死んだ人はそのままだ。雪絵は、もう変わらない。
 私の知らない部分があるかもしれないが、雪絵は死ぬ直前までの「雪絵」で私の中に残る。それは、時とともに多少、美化されるか、印象が薄くなるかもしれないけど、本質は変わらないのだ。
 雪絵は最後、「私はあなたの味方」だと言ってくれた。心から嬉しかった。幸福な気分に満たされた。不謹慎かもしれないが、あんなに素敵な「お別れ」はないのではないか。そう、思ってしまう。
 いじめは、あれからピタッと止んだ。向こうも、学校にいる人間だから、それ所ではないと考えているはずだ。人間の心理として、どんなにひどい人でも、人の死を目前に突きつけられたら、そんなことしようと考えるわけがない。まあ、予想以上に道徳心がなくて、また繰り返す可能性もあるけど、そうしたら、私は呆れ返るしかない。
 どこかから、誰かの悲鳴が聞こえた。
 それは、またしても私の叫び声だった。
 どうしてだろう? 今思えば、あのときも、雪絵の声じゃなく、私の声だった。
 何なのだろう? 空っぽの私。人を恨まない私。許して、と叫ぶ私。悲鳴を上げる私。涙をこらえる私。
 私はいったい、何もの?

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