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あの日、僕は(八)

 いつまでも胸に去来するいくつかの思い、耳元で囁かれる言葉。
 どこへ向かおうとしても光明は見出せないと思い込むのは容易で、だけど、簡単だからこそそこから抜けられなくなってしまうのだ。
 達也は告白するつもりだった。すべてを失っても、言わずに後悔するのだけは嫌だった。自分の情けない状況を誰にも打ち明けられないくせに、想いを伝えることには拘泥を試みた。
 好きだった。たぶん、愛していた。
「悠さん、手料理をごちそうしてくれたんですよね。料理、好きそうですもんね」
 向かいの席に座る風花は、心なしか普段より色づいて見えた。笑みの形になった唇を見つめると、胸がきゅっと締めつけられるようだった。その瞳を、その唇を、その体を、すべて自分の中に閉じ込めたい。叶うならば。
「そうそう、小絵ちゃんとかが手伝おうとしたんだけど、『台所が狭いから』って関与させなくてさ。最終的にデザートまで含めて、全部一人でやってくれた」
 あっという間に季節は秋を越し、冬に入った。新年が明けてすぐ、達也は久しぶりに風花を食事に誘った。卒業まで残り数か月。あと、何度こうして誘えるのかも分からない。風花の方でも、そういった感情があったのかもしれない。
 秋の終わり頃、勇主導の会合は三回目の集まりを迎えた。メンバーは第二回とまったく同じで、ただ、安上がりでいいからと、悠の一人暮らしの家に集った。悠はあと半年で卒業という微妙なタイミングで、突如家族からの独立を敢行した。敢行して間もなく、そこはほぼサークル員のたまり場となり、悠は迷惑そうでありながら、どこか楽しげでもあった。
 四回目は果たしてどうなるのか。達也はもう自分が企画することはないだろうと思っているけど、こればかりは読めないところもある。
「性格的に凝りそうですもんね、悠さん。一人暮らしして正解だったかもしれませんね」
「掃除もきっちりしてるから、ほんと、いい主夫になれるよ。夫の方のね」
「ふふふ」鈴を転がしたような笑い声。「悠さん、第一印象からは、そんな女性的な面があるなんて思いませんでした」
「第一印象って、初めて会ったときの?」
「はい。……もう、いつだったかかなり曖昧ですけど。ぎこちない感じで話しかけてきて、でも、私の緊張をほぐそうとしてくれているんだなって分かりました」
「ぎこちない、だなんて言われちゃったら、先輩は形無しだけどね」
「そうですね――でも、ほんとにいい先輩だって思いましたよ。達也さんも」
「俺の第一印象はどうだった?」
 束の間、考える素振りを見せる。やがて照れ笑いを浮かべて、「静かな人だな、って思いました。それは今もほとんど変わりませんけど、なんというか、最初は冷めた人なのかも、ってちょっと不安でした」と言葉をつないだ。慎重に喋っているようでいて、本音に近い部分を晒している気がした。
「ふうちゃんは、どうだったかな――」問われる前から、言おうとしてみた。「背が低い、だったか」
「それだけですか?」頬を膨らませる。
「うん、いや、幼げに見えて、でも話し方とか思考とかしっかりしてて、ちゃんと自分を持っている人なんだとしばらく経ってから気づいた。……あれ、これじゃあ、第一印象にならないか」
 俺、今では――。
 そのまま一気に言葉にしようとした達也が、ふと、沈黙する。軽く俯くと、テーブルの上に置かれた風花の両手が目に映った。小さくて、真っ白な手だった。
 どうしたんですか? 達也の様子を訝しんだ風花が尋ねる。
「俺、今では――」
 何日か前に夢を見た。
「こんな風にふうちゃんと向かい合っているけれど、当時はちっとも想像していなかった」
 見慣れた駅のホームで電車を待っていたら、すっと隣に誰かが並んで、横目で確かめるとそれは風花だった。
「ほんと、人間関係って不思議というか、どうなるか分かんないもんだね」
 名前を呼ぼうとしても、なぜか声が出なかった。ずっと視線を向けていても、彼女はただ正面を見据えていた。その横顔に諭されたように、彼女に倣って正面を見た。ありふれた広告の向こうに、林立する建物と、水色の空があった。
「でも、もうすぐ卒業か。関係性も変わるだろうし、寂しいな」
 やがて来た電車に、一緒に乗り込み、空いている席に座った。互いの肌が触れそうで触れない距離を保って。着座してからも、彼女は正面だけを捉えていた。
「まあ、また新しい出会いがあると思うけど」
 揺られ、窓の外の風景が流れる。いくつかの駅を通過した後で、ふいに切迫した感情に囚われる。次の駅で降りなければ。一度囚われると、どうしようもないほどその意志を動かせなかった。傍らの風花に瞳を向ける。その静かな佇まいから、まるで降りるつもりがないことが察しられる。彼女の降りる駅は次ではないのだ。では、どうしたら。強引に腕を引っ張ればいいのか、意志に逆らって座り続ければいいのか、電車が中途で停まるように願えばいいのか、どうしたらいいのだろうか。
「ふうちゃんと、勇とか、悠とか、小絵ちゃんとか、亜衣ちゃんとか、歩美ちゃんとかとは、社会人になってからも会いたいな。定期的に、近況報告も兼ねて」
 駅が近づく。鼓動の音が鳴り止まなかった。とくんとくん、とくんとくん、とくんとくん……。
 夢の中で達也は、一人、電車を降りてしまった。

 亜衣はずっと後悔していた。半年前、黄樹で楽しい時間を過ごせていたはずなのに、体調を崩してしまって行けなかった。せっかく達也が誘ってくれたというのに。風邪を引いて動くのも気怠かったが、当日に「体調不良で」なんて告げたら、嘘っぽい気がして、「急用が入った」ということにした。だけど、その方がかえって嘘っぽかったのではないかと、次の集まりに呼ばれなかったときに思った。
 でも、寒さに震える二月の夜、亜衣はリベンジを果たせた。今度は雉町で、集まったのは六人。亜衣、達也、勇、小絵、悠、風花。その頃にはもう亜衣らの一つ上の代の人たちが就活を始めていて、大学院進学を目指している小絵は私服だったが、風花はスーツ姿だった。絶妙に似合わない気がした。
 その集まりに、亜衣は少しだけ早く向かった。事前に達也を呼び出しておいて。
「これ、もしよかったら」
 自分のかわいげのなさは自覚している。でも、人と接するときにあれこれ考えてしまって、結果的に己の言動を悔いるケースが多い。そうならないように、一歩引いた態度を取って予防線を張った。そのせいで損をするとは思わなかった。
 その日はバレンタインデーの前日で、亜衣は手作りのチョコを手渡した。相手の気を引く台詞は吐けなくても、料理にはそれなりに自信があった。
「本命なんで」よくそんな大胆な告白があったものだと、自分で自分に驚いた。「すぐじゃなくていいんで、返事ください」
 待っています、と言葉をつないだ。いつまでも、と心の中でまたつないだ。
「――うん、ありがとう」
 達也はかなり戸惑っている風だったけれど、嫌がっている素振りはまるで見せなかった。だが、即座に答えを出すことはなかった。
 その日、亜衣は頭の中がほとんど真っ白で、どんなことを喋ったのかあんまり憶えていなかった。ただ、なにも考えずに座ったら達也と隣同士になって――人数を考えたら大した確率ではないのだけど――一緒にメニューを覗き込んだ瞬間に、手放しで喜びたくなっている自分がいて気恥ずかしくなった。それだけは心当たりがあった。
 ホワイトデーに達也から返事をもらえるまでの一か月間は、途方もなく長く、一方で瞬く間に過ぎていった感覚がした。

 海の匂いがする。建物に遮られてその青は見えないけれど、確かに存在を教えてくれる匂いに心の芯まで満たされた。
 自分の住んでいる街に特別な感情を寄せるのはもしかしたら稀なのかもしれない。だけど、と思う。
(私はこの街がやっぱり好きなんだ……)
 歩美は神奈川県の中心部に程近い茅穂の駅前で一人、みんなが来るのを待っている。国内有数の規模である中華街が茅穂にはあって、特に今は旧正月なのでとても賑わっていた。
 なにやら最近あちらこちらで仲睦まじげにしているらしい面々から声をかけられ、そこで、歩美は地元を案内したいと買って出た。今日は勇、風花、小絵、それに卒業を間近に控えた達也が来る。亜衣は勇が誘ったがにべもなく断られてしまったそうだ。「いつにも増して冷たかった」と勇は嘆き節だった。悠は現在卒業旅行中で、中国にいる。達也はその期間中予定があって国内に残ったのだが、今日だけは空いていたのだ。
 もう、プランニングは立てている。楽しみが高じて、あまりに早く待ち合わせ場所に着いてしまった。でも、待たせるよりは待つ方が遥かにいい。
 冬の寒さが厳しくなってから、歩美たちの代の就職活動が始まった。大学生活という一度しかない時間を削って――それもかなりたくさん――しなければならない活動に、歩美は辟易していた。そう思いながらも、現実的に考えればそんなのは甘え。みんなは腹になにか抱えていても、ちゃんとやることをやっているのだ。だから、歩美も前向きに取り組んでいる。
 しばしば、彼女を指してポジティブだとか、元気だとか、前向きだとか言われる。それは間違った認識ではないけれど、彼女も人並みに沈むときもあるし、物思いに耽ってどこへも進めなくなってしまうときもある。ようは、本能的に表に出すべき感情を弁えられるだけだ。そうは言っても、作っているわけではない。
「歩美ちゃん」
 さっきから、こちらへ歩み寄ってくる姿に気づいていた。目の前まで来て、達也は微笑みながら歩美の名を呼んだ。出会った頃から、その穏やかな印象は変わらない。これから社会人になるとは到底思えない。

 海が突然姿を現したとき、達也は思わず息を飲んだ。さっきから匂いはする気がしていたけれど、こんなに近かったとは思わなかった。海の濃い青と、空の薄い青のコントラストがなんとも美しい。
 海を背にして記念写真を撮った。風花と達也を中央に据えて、小絵と勇が左右それぞれに。撮影者は歩美。――この写真をどのように振り返るのだろう、と達也はぼんやりと考えた。
 次いで、達也が撮影者になって、歩美も映してあげた。
 歩美が街の案内をして、勇が相槌を打って、風花が感心して、小絵が笑い声を上げて、達也が質問をして、それなりに話していた集団が、一列になって海を眺めはじめた途端、しんと静まり返った。まるで、それぞれが考えに没頭しだしてしまったかのように。視線は一心に前方に注がれ、その先では波が白い飛沫を上げていた。
 客船がいくつも並んでいる。その甲板に無数のカモメが下りたって、また飛び立つのを繰り返していた。あなたはひとりでいきられるのね、達也は心の中で有名な歌の一節を唱えてみた。
 一人で生きられるだろうか。仲間たちと別れ、好きな人を失い、それでも生きていられるのだろうか、自分は。
 ちらりと横を向くと、風花の真剣な横顔が目に飛び込んできた。笑顔も魅力的だけど、真摯な眼差しも心を捕えるものがある。
 偶然の出会いがあった。必然の想いがあった。これまでの光景が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていく。そして、「これから」はきっとないのだ。達也は悲しいくらいにすべてを了解し、ほんとうに、心は乱れて張り裂けそうだった。だけど、同時に自分をひどく安心させた。かつて用意されていた幾重もの道はいずれも塞がり、最後に残された一縷の光もやがて消える。
 強く生きたかった。偉大な大海原のように、片隅で咲く花のように。
 風に吹かれる髪を抑える小ぶりの手が、まっすぐな黒い瞳が、きゅっと結ばれた赤い唇が、誰よりも彼女が、なによりも美しいものだと思った。

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