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冬に咲く花 ep.1

     一章


 人は変わる。
 しばらく会わなかった友人を偶然、街で見かけたとき、別人のように見えた。注意して見なければ、あれが友人だと判別できなかったぐらいに。
 親戚もそうだ。私には五つ下の従兄弟がいる。最初は喋れない赤ちゃんだったのが、数年ごとに会う度に当然、背が伸びて、喋れるようになって、彼自身が持つ性質を現し始める。
 時間の経過とともに、人はそれまで認識していたその人自身の姿かたちを変化させる。
 だから、身近にいる友達にも変化は訪れている。個人差はあるし、いつも一緒にいるせいでその変化に気付きにくいが、そういう観点で人を観察してみると、確かに変わった所はある。雪絵は髪にウェーブをつけているし、亜実はメガネをやめてかわいさが増した。稲田君は坊ちゃん刈りだったのが、ワックスで髪を立たせるようになった。人間関係の変化で言えば、今現在、亜実と淡路君は付き合っている。
 私も変わった。
 残念ながら、かわいくなったとか、内に閉じこもりがちな性格を直して、社交的になった、というポジティブなことではない。学校生活の中で他の誰にも知られずに訪れた、それでも私の心を締め付けるその変化が訪れたのは春先のことだった。
 今日も平凡で平和な一日が始まる、と信じて疑わなかった朝だった。と言うより、考えたこともなかった。下駄箱で上履きに履き替えようと手に取ると、ズタズタに切り刻まれていた。まず、驚いた。声は出さなかった。次に、いじめと結びつけた。認めたくなかったが、こんな徒労を施してくれるのは、いじめしかありえなかった。おとなしい私は、敵を作らないが、いじめの対象になりやすかった。小学校は男子のいたずらを誰よりも多く受けたし、中学校に入ってからも女子のからかいの標的にされたのは、私が多かった気がする。それでも、マシな方だと思っていた。物理的な行為はないし、避けられるよりは良いのではないかと半ば諦めていた。
 切り刻まれた上履きを見たとき、ついに来たか、と考える一方で、そんなはずがない、と認めたくない気持ちがあった。
 いずれにしても、私はこの事実を誰にも話さないことにした。幸いにも、相談できる友人が私にはいたが、慰めてもらいたいわけでも、犯人探しをして欲しいわけでもないから、知られるまで黙っておこうと決めた。それに、これきりで終わるかもしれない、と思っていた。突発的な行動で、もしかしたら悔いて、二度とやらないと考えている犯人のことを思ったら、ことを荒げて引っ込みがつかなくさせるよりも、ひとまず様子見をした方が良いかもしれない、と考えた。
 だが、私のこの考えは甘かった。
 その後もいじめは不規則的に私を襲った。机の中に入れていた教科書がやはり切り刻まれていたり、プラスチックのコンパスケースが粉々に砕かれていたり、とにかく持ち物が狙われた。おかげで、私は「置き勉」をやめた。毎日、重い荷物を背負って、学校に通った。
 私に直接、危害を加えることはなかった。だけど、ここまでくると、物理的な行為がないからマシだ、と割り切れなかった。私の心を締め付ける犯人が、その姿を見せないことに恐怖を感じた。その尻尾すら窺えなかった。クラスメート全員が敵なような錯覚に陥った。
 次第に学校に行くことが億劫になっていった。


 カーテンを開けると、朝日の眩しさが目に飛び込んできた。目を細めながら、窓の前で立ち尽くす。今日もまた、私の気も知らないで一日が始まる。
 本当に嫌なら、誰かに打ち明ければいいのに。両親でも、先生でも、友達でもいいから、この苦しみを伝えればいいのに。そんなこと、分かっている。それ以外に良い方法がないことは、とっくの昔に気付いている。
 家を出発した。学校へ向かう。誰にも打ち明ける気がないのなら、せめて周りに覚られないように過ごすべきだ。そう心に決めて、半年以上が経つ。日を追うごとに、そんな心が重くなっていく。
 もう限界。
 頭に浮かんだ考えを慌てて打ち消す。まだ大丈夫。我慢していれば、その内、向こうも飽きてきて、誰にも知られずに始まったように、誰にも知られずに終わりを迎える。そろそろ、終わるだろう。来月には終わっているのではないかな。学年が変わる頃には、さすがに終わっているだろう。
 学校に着いた。下駄箱から上履きを出した。見た目の変化はない。切り裂かれていないことに安心して、地面に落とすと、じゃら、と音がした。音とともに、小さな光みたいなのが見えた。
 そんなはずがない。今まで、私を傷付ける目的のいじめはなかった。でも、これは間違いなく私に物理的な攻撃を仕掛けてきている。
 上履きの中から出てきたのは、無数のがびょうだった。
 気付かなければよかった。気付かずに足を入れて、血まみれの足で助けを求めれば、この苦しみは終わったのに。そう思いながらも、まだ誰かにすがることを自分に認めなかった。
 他の人に見られないように、がびょうを慌てて集めて、制服のポケットの中にしまった。改めて靴を履き替え、早歩きで教室を目指した。何にもなかったことにしよう。気にしないで、普通の一日を過ごそう。
 廊下は、静かだった。人がいなかった。その静けさが、油断を誘ってきた。私は戒めてきた感情を思い起こしてしまった。あの頃から、これ以上の悲しみはないと決めて、何があっても悲しまないと誓ってきた。乾いた目から涙が溢れそうになって、唇をぎゅっと噛み締めた。泣くな、私。普通の一日を過ごすんじゃなかったの。
 久しぶりの感情は、ダメだと言っても聞かなかった。何より、気持ちよかったから。悲しむことは、私の苦しみを少し和らげてくれるようだ。
 泣くな、私。もう教室だ。悲しむのはまだしも、涙を流して他人に覚られてはいけない。
 教室から、人が出てきた。今日初めて、校内で人を見た。その出現に、油断が引き締まる。顔を俯かせて、その人の横を通り過ぎようとする。
「何で泣いてんの?」
 私は反射的に手で目の辺りを隠した。堪えているつもりだったが、すでに頬を伝っていたのだろうか。上目遣いに相手を窺うと、淡路君だった。

 他の人だったら、何とか言い訳をこしらえて切り抜けただろう。欠伸して、とか。うそ、全然気付かなかった、とか。
 でも、幸か不幸か、目の前で私が泣いていることを認めたのは、淡路君だった。さっき引き締まったばかりの緊張がまた緩んでしまう。涙は言い訳が効かないほど溢れてきた。
「おい、どうした石川。大丈夫か」
 いつも私の名字を遠慮がちに呼ぶ淡路君が、はっきりと呼んだ。
「……あの、淡路君」
 泣くな、私。何も言うな。
「あのね……」
「ゆっくりでいいぞ」
 やっぱり淡路君は優しかった。いつだって、私たちのことを気遣ってくれていた。だから、どう接したらいいか分からなくて、いつだってよそよそしくて、それが優しさの裏返しだと分かっていた。
「あのね、淡路君……」
 それでも、私の中で自制が働き続けていた。泣くな、言うな、私。人に甘えてはいけない。まして、彼になんてもっての他だ。
「話があるの」
 だが、すがる言葉が勝手に口からこぼれていた。


 ――裕里、ごめんね。
 どうして謝るの。私は大丈夫だよ。本当につらいのは、お母さんのはずでしょう。
 ――あの人は、とても良い人なのよ。悪いのは全部、私。ごめんね。
 お母さんはあの頃、夜一人で泣いていた。私の前で気丈な振りをしているのが、幼い私でも分かった。そんなお母さんの小さな背中が、弱々しい笑顔が、痛ましかった。見る度に胸に嫌な風が吹き込んだ。
 私は分かっていたくせに、気の利いた言葉をかけてあげられていなかった。ただ、黙って、お母さんの姿を見つめているだけだった。
 あの頃、私にできたことはいっぱいあったはずだ。湖面に、注意して見ていなければ気付かないほどの波紋を及ぼす投石が、幼い私の掌に抱かれた石で可能だった。そして今、後悔している。些細なことでも、何もしないで佇んでいるよりは、この後悔も、お母さんの悲しみも小さかっただろう。
 ――裕里、あの人を恨まないでね。
 いつから、あの人と呼ぶようになっていただろう。私と血を同じくした一般に言う「お父さん」に当たる人、今となってはどんな声で、どんな性格で、どんな顔だったかも曖昧だ。ただ、それだけ覚えていないということは、傍にいる時間が短かったこともあるけど、物静かな人だったのかもしれない。私に似て。
 世の中に物静かな人なんてたくさんいるけど、この共通点を見つけたとき、正確に言えば想像の上で思い付いたとき、私は親子の証明が完成した気がして、嬉しくなってしまった。
 お母さんにつらい思いをさせた「お父さん」を恨みたい気持ちと、それでも普通の家みたいに「お父さん」という存在を欲する気持ちが常に私の心に内在していた。
 
 放課後、淡路君に頼んで、他にも信用が置ける何人かに話を聞いてもらうことにした。彼と仲がいい二本君と稲田君、それから私と仲がいい雪絵と亜実。二本君は、にもと、と読む。
 話を持ちかけたのは私だから、当然、私の告白から始まった。普段、自分から話を切り出す機会が少ないから、手探りの感があった。
「えっと、実は――今年の春から、私はいじめにあってるの」
「えっ!」
 それぞれの表情に驚きが走り、やがて私を心配するものに変わった。いらなかったと思ってはいたものの、誰かに慰められるのは悪くない。
「誰に?」
 稲田君が私の顔を覗き込むようにして、言った。隣で雪絵が口の前に手を当てている。クールな亜実も、目を見開いて私を見つめている。
「誰か分かんない。私の持ち物がいつも狙われるの。――今日は、上履きの中にがびょうが入ってた」
「がびょう――」
 一斉に息を飲んだ。血まみれになる私の足を想像したのだろうか。
「男か、女かも分かんねーの?」
 二本君が尋ねた。私は首を横に振った。
「人数も?」
 亜実が聞いた。これにも首を横に振った。亜実の隣で腕組みしている淡路君が、ふうとため息を漏らした。「コソコソしてる、ってわけか」
「ひどい、許せない」
 雪絵が怒った口調で言った。「誰だか知らないけど、絶対に許せない」
 私は嬉しかった。その言葉と表情に、私を思いやる気持ちが窺えた。
 雪絵は、高校に入ってからの友達だったが、誰よりも私思いだった。明るくて、かわいい雪絵は、自分と対照的な私の傍にいてくれた。移動教室も一緒に行ってくれた。遊びに誘ってくれもした。笑わせてくれた。雪絵がいてくれたから、私は億劫な学校生活に光を、微かな光を見出すことができた。
 もっと早く打ち明ければよかった。
「犯人は誰だろう?」
 亜実が顎に手を当てて、呟いた。頭が良く、クールな性格に合う、派手じゃないけど美人な顔の亜実は、その姿がよく似合った。きれいな肌に、一瞬目が奪われる。
「とりあえず、ウチの学年だろうな」
 二本君が言った。淡路君が頷いた。
「ああ、それは絞れるな。ただ、クラスは限定できないな。尻尾は全然掴めていないんだろ」
「うん」私が答える。「何にも痕跡残さないし、時間も場所も、目撃されないようにすごい考えられてる」
「じゃあ、そこそこに頭のいいやつか、それか執念深いやつか」
「ねえ、執念深いんだったら、犯人は女子じゃない? 男子がこんなに長く続けるかな」
 雪絵の言葉に、私は心の中で納得した。確かに、いつも犯人を想像するとき、女子の姿を思い浮かべていた。ただ、それは単独犯だったらだ。
「でも、複数犯だったら、男子っていうこともありえると思う」
「うーん」稲田君が頭をかいた。「そうかな、おれだったら面倒臭くてやんねえけどな」
 稲田君はとても気さくな人で、周りを和ませる性格だ。彼の的外れな言動は、みんなに呆れられるけど、その分だけみんなに好かれている。彼を嫌う人は少ない。
「理人、お前の感覚を当てはめんな。あてにならん」
 淡路君が厳しく言い放った。理人は、稲田君のことだ。
「いじめの犯人なんて、常識外れな感覚を持っているもんだ」
「推理は慎重な方がいいね。推測でいくらでも犯人像を思い浮かべることはできるけど、証拠がないのに男子、女子、単独、複数を決め付けるのは早計だよ」
 二本君が言った。二本君は学校の勉強は並だが、頭の回転が早く、鋭い発言をすることがよくある。
「そうかな、絶対に執念深い女子だよ」
 雪絵は自分の想像をあくまで推していた。
「じゃあ、二本君はどんな人が犯人だと思うの?」
 亜実が微笑みを浮かべて、言った。
「え? 何でおれ?」
「推測でいくらでも犯人像を思い浮かべることができる、って言ったじゃない」
 亜実の微笑みは、美しくて少し不気味だった。彼女を敵に回したら、恐ろしい目に遭いそうだ。味方でよかった、と内心、勝手に安心する。でも、恐ろしい目といえば、いじめで充分、味わっている。
 ふと、考えの延長線上で気付いた。私は、今の自分のいじめられている、という状況を客観的に捉えられている。一人で悩んでいるときは、常に悲観的な感想しか出てこなかったが、彼ら、彼女らといると心が楽になっている。
「そうだなあ」
 二本君は照れ臭そうに笑った。みんなの注目が彼に集まる。
「明るい笑顔の仮面を被った、陰湿な女子じゃないかな」
「ほら、私と一緒」
 雪絵が笑顔になった。
「なるほどね」
 亜実はただそう言って、それ以上は何も言わなかった。


「ってかさあ、先生には言わねえの?」
 稲田君の疑問は当然だった。私も先生にだけ伝えて、解決を図ろうかと考えたことはある。
「いいよ、そんなこと」
 そう言ったのは淡路君だった。

「先生が信用できないってこと?」
 雪絵がいぶかしむ顔をした。
「そうじゃない。石川がおれたちに打ち明けた今、あんまり情報を広げない方がいい。それに先生に言うと、まあ無断はないと思うけど、大々的に犯人探しを始めるかもしんねえだろ」
「優しいのね」
 亜実が呟いた。冷たい、という形容が当てはまる口調だったのに、その表情は明るかった。
「何で? 優しい要素あった?」
 稲田君が、わけが分からない、といった顔をした。私にも分からなかった。
「だって、大々的になったら、それが善意の表れだとしても、裕里の気持ちは複雑でしょう」
 ようやく分かった。私への優しさが言葉の裏に隠れていたのだ。いや、言われてみれば、隠れてなんかいない。表に出ている。
「別にいいだろ」
「あら、責めたわけじゃないわよ。むしろ、意外と気が利くんだなあ、って感心しただけ」
「ああ、まあ、詰まる所」二本君が割って入った。「先生に言わないで、おれたちで解決を図ろう、ってことでしょ。それにはさ、狙われそうな所を見張ろう」
「いや、待てよ」
 口の前に握り拳を当てて、稲田君が真剣な顔で言った。
「犯人は、この中にいる」
「はい、無視」
 淡路君が手を、蚊を払うように稲田君の前で振った。
「何言ってんだ、いるわけねえだろ」
 二本君も呆れ顔。
「いや違うよ、もし、の話。もしいたとしたら、見張りとか無意味だな、ってことを言いたくて」
「意味あるよ、絶対」
 亜実が有無を言わさぬ口調で言った。「この中にはいるわけないもん。だから、必ず意味ある」
 強い口調に、稲田はうなだれてしまった。
 見かねた雪絵が助け舟を出すように、「今のは、あれでしょ。元気ない裕里を笑わせるためでしょ」と言った。
「おお、そうそう。分かってくれたか」
 調子に乗って、稲田君は得意気になる。腰に両手を当てて、笑顔になった。
 明らかに無理のあるフォローだったが、確かに私は笑えていた。何か、久しぶりに心から笑った気がする。
「ありがとう、稲田君」
 そう言うと、「そんな曇りのない瞳で言われると、心苦しいな」と頭をかいた。私たちは、また笑った。


「見張りはどこに置けばいいかな」
 二本君が私の方を見て言った。どこが狙われるか私しか知らないのだから、私以外にこの答えを言える人はいない。私以外に答えを言えるのは、この場にはいないけど、いじめの犯人だけだ。
「下駄箱が多いけど、机の中とか、ロッカーとかもたまに」
 ロッカーは教室の後ろ側についている。
「よく半年も他の人に気付かれなかったな」
 稲田君が、感心するように言った。
「本当に、私も気付かなかったよ」
 雪絵が申し訳なさそうに言った。でも、雪絵たちは悪くない。私は誰にも知られたくなくて、必死に隠していたから。
「もしかしたら、誰か見て見ぬ振りをしているやつがいるんじゃねえか」
 淡路君はさっきから、自分のことのように憤りをあらわにしていた。私への気遣いの延長線上かもしれないが、それでも嬉しかった。
「そうね、いじめとは思わなくても、何となく見かけた人はいるかもね。何より、長期間だから」
 亜実が語尾を優しくした。私は大丈夫だと言う代わりに、小さく笑った。
「じゃあ、今日はもう帰るとして、明日の朝、学校の開く時間に全員、教室集合で」
 二本君が結論を出した。誰にも異存はなく、黙って頷いた。
「よし、犯人を絶対に捕まえてやるんだから。――裕里、一緒に帰ろう」
 雪絵が言った。
「うん」
 私は笑顔で頷く。
 全て上手くいく気がした。もう、苦しまなければならない日は、二度と来ない気がした。こんなに温かい友達がいて、私を笑顔にさせてくれる存在がいて、これ以上何を望もうか。
 もう、犯人は誰でもいいような気がした。誰だろうと恨まない。どころか、その人に感謝してしまうかもしれない。こんな大切な存在に気付かせてくれてありがとう、と。それは言い過ぎだが、私の心は昨日までよりずっと軽くなっていた。

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