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「何かを語る」営みは人間の特権であり続けてほしい【エッセイ】

最近、
「文章を書くのが好きな人が書いた、
文章を書くことについての本や記事」

をひたすら読みまくっています。

自分が「書きたい人」だと突然認識したばかりなので、

他の「書きたい人」がどんなことを考えて書いているのかを覗き見するのが楽しくて仕方ないんですよね。


そんな中で共通して出てくるなと気づいたのが、
一つの文章につき一つの言いたいことに絞るとよい
ということ。


どの本を書いている人も似たようなことを言っていて、

確かに自分が読んでいて面白いと思う文章も
最初から最後まで一つのことについて語っているものが多いし、

自分が書きたいと思う時にも、
「これ書きたい!」と思って書き始めることが多いなと気づきました。

もともと140文字で散文を投稿できるあのSNSが大好きでよく使っていたので、

「一つの事柄につき一記事」的な感覚はそこでいつの間にか培われていたのかも知れません。


自発的にエッセイを書き始めるまでは
「一つの文章につき一話題がいい」ということには全く気づいていなかったし、

何なら大学受験の小論文とか、
一般教養の講義の授業後に書かされる感想文とか、

そういうもので1000字くらい書く機会はそこそこあったのですが、
その頃は本当に苦痛で苦痛で。


興味のない事柄について何か書けと言われても
特に何も言いたいことがないんだけど~
っていうのも大いにあったと思いますが、

その頃書いていた文章では、
とにかく講義の内容を5個くらい挙げてそれぞれについて一言ずつだけ感想をつけたり、
考えられる事象をいくつも挙げてなんとか文字数を増やしたり。

今思うと教授もそんな薄っぺらな感想じゃなくて、

「この授業のこの話題について、こんなことを感じて、そこからさらにこんなことを想像しました」

みたいな感想の方が読んでて楽しかったんだろうなぁと思います。

それがいい評価につながるかどうかは良くわかりませんが笑


話が逸れましたが、
「書くこと」に関する本をいくつも読んでいく中でこんなことを思いました。

「一つの事柄、なんならさらにその中の取るに足らない瑣末な一箇所に注目して、
それについて感じていることについての文章を書く」って、

人工知能には出来ないんじゃないか?
と。

人工知能って、
データの蓄積と、そこから予測を立てたり応用したりするとかは得意だけど、

「偏愛を語る」みたいな域には到達しないんじゃないかな?
と勝手に思っています。

そこに開発費と時間を注ぎ込むだけの金銭的価値が生まれると思えないので、
到達「できない」んじゃなくて、到達「しない」


となるとですよ。

「一つのこと、しかも深める必要もないことに対して深く考えて言葉にしてわざわざ伝える」

という営みができるのは人間の特権ってことになると思うんです。

そういった何の役にも立たない考えとか心の叫びって、
なんだかんだ読みたい人もいる(現に私もそう)し、書きたい人もいる。

文体だけなら人工知能にも真似できるはずですが、
日常の中の謎の発見とか、
好きな曲への謎の愛とか、

何度も何度も咀嚼して語り続けられるのって、
やっぱり相当物好きな人間たちだからこそ
なんだと思います。


エッセイってその人の内面に深く深く潜っていくものだと思うから。

深く潜ってそっと触って観察して、
ふっと浮上してきて文字にする。

その営みだけは、
人間だけの特権としてあり続けてほしいなぁ。

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