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子どもたちが置かれている状況

こんにちは。りょーさんです。

先日、海晴児童福祉法の勉強会に参加してきました。改正の前提となる子どもたちの置かれているについてのお話があり、以下、それをちょっとまとめてみます。


虐待について


児童相談所への虐待相談は21万件ほどで、毎年のように最高値を更新しているそうです。

一方で、年間出生数はジェットコースターのように急降下し、予想より8年早く80万人を切ったそうです。ちなみにかつての出生数の最大は260万人ほど、そして今年は70万人前半くらいまで下がるそうです。
生まれる人数が減っているのに虐待件数は増えています。
虐待死の数は80名前後で推移し、その半分程度が0歳児です。

児相相談の21万件のうち98%は「自宅で見守り」となるそうです。
つまり、何かしらリスクがあるご家庭で生活し続けることになる。
でもそもそも、そのリスクはなぜ生まれるのでしょうか?

高い相対的貧困率


子どもの相対的に貧困率は11%で減少傾向にありますが、国際比較ではOECD37カ国中19位です。ちなみにGDPは世界で3位です(もうすぐ4位に落ちるようですが)。
さらに、ひとり親家庭の相対的貧困率は44%で37カ国中32位です。
ひとり親で母子家庭は120万世帯、父子家庭は15万世帯。母子家庭が父子家庭の8倍です。

ひとり親の38%がパートタイマーです。
パートタイマーは長い時間働くことで給与が増えます。ならば生活のために掛け持ちする場合もあるでしょう。そうなれば子どもとの時間は短くなる。子どもとの時間を大切にしたければ生活を切り詰めるしかない。
パートタイマーの給与と子どもとの時間はトレードオフの関係になる。
切り詰めて生活して、ワンオペ育児して、精神的に追い詰められて、それでも泣き止まない、あるいは言うことを聞かない目の前の子どもがいたとき、お母さんはどうするでしょうか? 

上記は虐待の背景の一側面を切り取りました。
ここで言いたいのは、初めから子どもを虐待したいって思っている親なんていないのです。止むに止まれずそのような状況に追い込まれていく。それを責めることはできるのでしょうか。


ヤングケアラーについて


ヤングケアラーは小学校6年生以降だと、どの年齢にも5-6%いるそうです。
ただのお手伝いをする子どもではない、その子が家事や介護等をしないと生活が回らないようなご家庭で生活しているってことです。

学校から帰ってきて弟の面倒を見る。ご飯を作って食べさせて風呂に入れて寝かしつける。その時に一緒にうとうと寝てしまうことだってある。気づけば朝、今日提出の英語の課題をやっていない。英語は1時間目、「1時間くらいいいか、、、」と遅刻する。そこから不登校が始まることがある。

この国では家族のことは家族で支えるという規範意識が強い
だから、弟の面倒を見る、おじいちゃんの面倒を見る、っていうのは「やって当然」と思いがち。

そういったヤングケアラーの子どもたちを支援に繋ぐのは難しい。
彼らの多くが「自分が支援される存在である」とは思っておらず、「あなたはヤングケアラーですよ」というかたちで支援者がやってくると今までやってきたことが否定されたと思ってしまう。ここが支援に繋ぐことが難しい理由です。

虐待が起きてしまう背景、ヤングケアラーが支援されない背景。どちらも「社会の支えが不十分」である、だからいろんな支援者・いろんな機関がネットワークを作り支える体制を作っていきましょう。勉強会はそんなお話でした。


子どもが置かれているヤバい状況について


ここからは勉強会の話から少し離れます。

不登校の子どもたちは、中学生で約6%です。僕の肌感覚ではもっといますし、定義に当てはまらない「休みがちの子」はもっともっといます。
文科省によると、クラスの中で勉強や活動に困難さがある(発達障害の可能性がある)子どもたちは8.8%とのことです。
前述した通りヤングケアラーは6%程度です。
相対的貧困の子どもは約11%です。
そして児相への虐待相談件数は21万件です(割合はわからないけど不登校が全国29万人だからそれなりの割合のはずです)

重なるところがあるだろうから単純に足し算はできません。でも上記の数値を見た時に「何かしら明確なラベルを貼れる困難さのある子ども」が20%以上はいるのではないか? そんなことを推測できます。

(ここでちょっと言葉の使い方に注意をしたいので追記すると、発達障害や不登校はそれ自体で「困難さがある」と言うことではないです。社会が「しんどさ」「困難さ」を抱えさせてしまっている可能性が高いと言うことだと思っています)

「明確なラベルを貼れる困難さ」が20%程度いるとして、では残り80%が「困難がない」と言えるか? そんなことはないと思うのです。明確なラベルは貼れないけど、何かしらの生きにくさを抱える子どもって考えた時、それは相当な数ではないか?
そして、それは自己責任ではない。社会の責任です。そして「誰が悪い」と言い切れない問題です。特定の何かを指さしても問題はより深くなる。
(ちなみに、子どもに予算を振らない、そこに関心を持っていない政治家たちに対しては「あなたたちは悪い」と思います、、、笑。政権与党は「保守政党」のくせに国を滅ぼす気か!いったい何を保守したいのだ?!と)
 
教員も福祉に関わる人たちもの児童相談所の職員も誰も悪意を持って行動はしていません。むしろ善意で一生懸命です。
だとしたらここにあるのは、構造的な問題、問題が複雑に絡み合った重層的な問題なのではないか。

教育を考えるとき、僕たちはが前提としがちなのは「すでに健全な状況にある子どもをどう育てていくか、どう学ばせていくか」ということ。
でも、この社会ではそのような前提は崩れている。そこから考えた方が良くないか?

ケアが必要な子どもたち(やその親)はたくさんいてでもそれは見えにくい。だから、放置され、あるとき問題が前景化する。問題が前景化するときはだいぶ後手になっていて、より問題が複雑で解決が困難になっている
そんな状態にある子どもたち20%以上いるとしたら?

20%もいれば、子どもたちを支える大人たちはその火を消すことに日々追われていきます。そして疲弊しいく。
問題が前景化したときにようやく制度が作られるけども、この疲弊の構造は変わらないし、その制度自体も火を消すためのものです。そのような制度は必要なことですが、火を消すのではなく「火が起きない」が必要なのではないか?

医療に喩えると、病気になってからよりも病気になる前に予防する視点です。

そのためにどうすればいいのでしょうか?
わかりやすい回答は、全然思いつきません。
ただ、一つ言えそうなのは、「火を消す」だけでなく「火を起こさない」ためにどうすればいいか?そこに視点を持っている人を増やす、そこから始めることが大事なのでは? 問題の一員にならないように丁寧に生きる。
そんなとっても迂遠で地道で出口のないことをやり続ける人や組織が必要です。

そんなことをもやーっと考えた勉強会でした。うん、あまりポジティブに書けずに申し訳ない。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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