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子どもの力を信じるということ

こんにちは、りょーさんです。

友人がドキュメンタリー映画を作りました。
『もりのこえん』

ぜひ上記の予告編を見てもらえたらと思いますが、山口県の山村にある幼稚園の子どもや親、先生たちを追ったドキュメンタリーです。

子育てや教育について、じっくり考える機会になる、あるいは自分の子どもへの眼差しや価値観を揺さぶられます。

今回は、内容の詳細には極力触れず、考えてみたいと思います。


●子どもの力を信じる

作中の子どもたち、ただ森の中で遊ぶ、大人はそれを丁寧に見守る。
ルールはとても少ない、「大人の見えるところで遊ぶ」ということ。
子どもは森の中で、仲間や自然と関わり、発見し、遊びを創造
する。
問題も起きるけど、大人は極力介入しない。
大人と子どもは対等であり、子どもたちが自ら考え、自ら解決し創造する力があると信じ、子どもたちに任せ、それを見守る。

そこには「危ないからやめなさい」「喧嘩したら謝りなさい」「こういうプログラムで活動しなさい」というものはほぼ無い。管理や支配やコントロールはそこにはない。お弁当を食べる時間すら決まっていない。

子どもは僕たち大人が思っている以上に、自分たちで解決できるし、思いやりを発揮し他者と協力して関わることができる。遊びをクリエイトし、自分らしさを発揮することができる。


●子どもを信じて任せるために大人はどうある?

映画のテーマとして「自然や地域社会の中で生きる」ということありますが、都会だろうが地方だろうが関係なく、大人が子どもたちにどのような空間や関係性を育んでいけばいいのか?という「問い」が内在しています。

「どのように子どもと対等にいて、子どもの意思を尊重するか」
「どのように子どもの力を信頼して見守るか」
「大人がどれだけ『自分らしく』子どもの前であることができるか」


●子どもをコントロールしている時、私たち自身が機械になっている?

翻って子どもと関わる僕たちの日常はどうでしょう。

子どもを見守る前に先回りし、管理コントロールし、子どもが自ら考える機会を奪っていないか。
子どもたちの自ら解決する力や関わる力を育む機会を奪っていないか。
子どもたちが自分がどういう存在か、どのように尊厳を持った存在として扱われたいかに気づく機会を奪っていないか。
子どもたちは自分の声を持っていて、それが受け取られるべきものであるということを感じ取る機会を奪っていないか。

僕自身、このnoteで何度も「子どもをコントロールしてはいけない」って書いてきましたが、いつの間にか管理のマインド、先回りのマインドに陥っていることもある。

親や教員や僕たちのような支援者は日常に追われているうちに「やらなきゃ」っていうマインドになる。
何かに忙殺されると、あるいは自分自身が不安になると、イレギュラーは起きてほしくないし、自分の「思う通りに」動いてほしくなる。
そこからコントロールは始まります。

もちろん仕方ない面もありますが、コントロールが加速すると、子どもは尊厳のある生命体としての存在から、修繕や組み立てが可能な機械のような存在に変わっていきます。
そしてそのように子どもを扱うと、自分自身がシステムに組み込まれた機械のような存在になっていきます。

結果、大人も子どもも尊厳を奪われていく。それが悲しきかな、日本の教育現場、、、ではないかな、、、(少々、大袈裟に言うと)。


●「そんなの嫌だ」ってところから始めませんか?

そんなの嫌です。
でも、それを作っているのは他ならぬ大人の私たち。
少しずつでも変えていけないかな?私たちの足元だけでも。そしてジワジワ広げていけないか??

そんなところが僕たちの活動(NPO法人はる)の大事にしたいこととして根っこにあります。


補足となりますが、コントロールすることを全否定したいわけでは無いです。仕方ない時も必要な時もある。
ただ、子どもを育むこの社会全体がコントロール過剰になってしまっていないか?っていうところ、この映画がそれを考えるきっかけになればいいなって思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


●追記

5月26日、江別で上映会があります。

「もりのこえん」映画上映&おしゃべり会in江別


そして監督の反町恭一郎さん(恭ちゃん)のnoteはこちら。



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