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"施設化"のロジックから飛び出す|旅する大学5@智頭

5/25-27に「旅する大学」で鳥取県の智頭町へ。企画運営の中心となってくださった加藤翼さんは、雨風太陽の前身でもある東北食べる通信でのインターンをきっかけに一次産業に関心を持ち、京大を卒業して新卒で智頭町、そして林業の世界に飛び込んだ方。文化人類学者の松村圭一郎さん、松嶋健さん、歴史学者の藤原辰史さん、トビムシの竹本吉輝さんと共に、智頭のまちや山をめぐった。プログラムとしてはこんな感じ。

今回の旅する大学は、新卒から2年間働いた会社を退職することを決めて有休消化中、間もなく無職になるというタイミングでの参加だった。この2年間がなんだったのかを振り返るとともに、内側からいろいろ溢れさせ、気づかせてくれた、そんな旅だった。あまり触れたことのなかった林業というか山の世界にも、ただひたすらに圧倒された。


見えないものを見る

旅のはじまりは智頭の中心地から車で40分ほど行った芦津渓谷のトレッキング。私は樹木も植物もあまり詳しくないので、最初は山を歩いていても何も「見えなかった」。でも、

「あれはオヒョウといって、楡の一種。鹿が大好きで、最近は鹿の害がひどい。」
「これはスギの芽生え。1年目。葉っぱは3枚。」
「これは伏条更新中。このあたりは雪が多いので、枝が雪でおさえられてしまうときがある。枝が地面につくと、根付いて伏条更新が起こる。」
「ここから左は天然林、右は人工林。」

という感じで、歩きながらあれこれ教えてもらううちに、最後の方にはほんの少しだけれど「見える」ものがあった。うれしい感覚だった。

世界の循環の中で何をしていることになるのか

松嶋先生

レクチャータイトル「施設と発酵から考える地域」について、初めは全くピンとこなかったけど、最後にはそういうことか〜〜〜となって、すごく感動した。この感動を言葉にするのはなかなか難しいのだけど、がんばってみる。

かつてのイタリアでは、精神病患者が強制収容所のような施設に入れられ、街の生活からは隔離されていた(施設化)。1960年頃からバザーリアという医師を中心に問い直しが始まった。精神病は脳の問題ではなく、生の文脈から切り離した施設によって見出されるのではないか。本当に治すべきなのは、施設を必要とする社会の方ではないか。そうした考えから、精神病院を廃絶し、地域でケアする地域精神保健サービスをつくっていった。(詳しくは松嶋先生の『プシコ・ナウティカ』を参照↓)

ただ、その地域そのもの(主に都市)も今や施設化しているのではないかと松嶋先生は指摘していた。スーパー、学校、会社・・・と機能分化して、それらが交通・情報・エネルギーなどのインフラネットワークでつながり、生産性(働けるかどうか)で判断される。"施設度"の違いはあるかもしれないが、特化した機能を持ち、外から孤立していて、(サービスの)提供者と受給者に分かれている。

"脱施設化"には、施設のネットワークに完全に依存しない、別のつながりと拡がりの中で生きていけるような場(地域社会生命圏)が重要ではないかと。

『プシコ ナウティカ』を読んだ時に、経済学者玉野井芳郎の生命系の経済、それを実現する場としての地域ともすごく重なる話だと思ったけど、レクチャーはまさにそんな話だった。

私が雨風太陽(ポケットマルシェ)で働きたいと思ったのも、「提供者と受給者に分かれて」いない、「施設のネットワークに完全に依存しない、別のつながりと拡がりの中で生きていけるような場」を作り出していると思ったからだった。近代化の中で分断されてしまった生産者と消費者が出会い、農作業や販売を手伝ったり、プレゼントを贈りあったりして、生産者と消費者の境目があいまいになり、単なる売買以上の関係性が生まれている。(ここにいろんなエピソードがまとまっている↓)

松嶋先生曰く、施設化の話は、微生物にも全く同じ話が言えるという。精神病院という施設で精神疾患が見出され精神医学が発展してきたように、ラボで分離し純粋培養した結果、病原体が見出され細菌学が発展してきた。純粋培養ではなく野生の菌での発酵は、ミクロな次元の脱施設化、「地域」の発酵と言えると。

タルマーリー渡邉さん

という流れで、「タルマーリー」の渡邉格さんにバトンタッチ。近代以降の発酵は、純粋培養した菌を使用するのが主流だが、タルマーリーでは空気中から採取した野生の菌を使用して、パンやビールをつくっている。

タルマーリーのカフェ・ショップ

雑菌を排除することはできないが、雑菌がどのような環境で発生するのかを考えて、場づくりをしてきたそう。その環境とは、
①大気(たとえば近くの田んぼで農薬散布があると腐敗しやすい)
②土(汚れた土で作られた農産物を使うと腐敗しやすい)
③人間の感情(辞めたいと思っているスタッフがいると腐敗しやすい)
の3つ。「オカルトと思われるかもしれないが」と前置きしつつ、そう考える理由やエピソードを話してくださった。人間と共生しようとするのが発酵菌であり、人間に対してこういうことはやっちゃだめだと伝えてくれるのが腐敗という現象なのかもしれない、と。

「地域」の発酵プロセスには、菌から日々メッセージを受け取り、場づくりという形で応答してきた渡邉さん自身も入っているのだなと思った。

人間からヒトへ

渡邉さんの話を受けて、松嶋先生は、「近代の社会は人間中心だが、伝統的社会は自然や先祖なども含んでいた。何を仕事にするのかは、すなわち『世界の循環の中で何をしていることになるのか』ということ」とコメントしていて、ビビビッときた。私は何をしているんだろうか。

藤原先生も、「人間の概念を書き換えないといけない」「人間を再定義する必要がある」と話していた。

玉野井先生の本に、下記のような文章があるのだけど、その意味がようやくわかったかもしれない。

生命系を中核とするこの生態系の世界に、すなわち「植物」と「動物」と「微生物」とより構成される生物個体群の緩やかな統一体のなかに、人間は「ヒト」として客体化されなければならない。

玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー』みすず書房

世界の循環の中で何をしていることになるのか。この視点、持ち続けたいと思った。

左がタルマーリー渡邉さん、右が松嶋先生

何の為に山に入るのか

加藤翼さんからのレクチャーでは、林業における道づくりの話があった。つばささんの仕事の半分くらいは道づくり。壊れにくく、自然との調和を目指した方法を採用しているそう。

「道幅2.5m以下で、3tクラスの重機入れる。切土が高いと崩れるリスクがあり、盛土が多いと水で流れるリスクがある(下図)。地盤が強い"棚"を生かしたり、削れにくい尾根筋を主要路線にしたり、尾根を越えてこまめに排水するなど、地形を読み取って山それぞれに合った道づくりをする。」
「木の幹の太い/細いで、水がある/ないがわかったりする。水の多い場所にしか育たない植物もある。これが体の感覚に変わってくると"読む"になる。」

林業において道をつくるという仕事があることすら知らなかったし、ましてやその方法も知らなかった。実際につくった道を見せてもらって説明も受けたけど、どこが尾根なのか、水があるのかないのか、私には全然わからなかった。同じ景色見ているようで、つばささんには全然違った風に見えているんだろう。

なによりもずーんときたのはつばささんのこの言葉。

道にはその人の理念が現われる。「何の為に山に入るのか」が道から浮かび上がってくる。・・・崩れにくい道をつくる手間ひまに、支払われる対価はない。林業家のモラルで、山・川・海の環境が左右される。

大きな作業道をつくって大規模に効率的にやることだってできる(なんなら国としては大規模化を推奨していて、道幅2.5m以上でないと補助金が出なかったりするらしい)。でも、大きく削ることはそれだけ生態系を大きく破壊することになるし、土砂崩れのリスクも増す。現に、2018年の西日本豪雨や、2020年の熊本豪雨などでは、皆伐跡地や作業道から土砂崩れが起きている(参考)。また、作業道を作ってから1年以内に5割が、2年以内に8割が損壊しているそう。でも、そうならないための手間ひまには対価は支払われず(なんなら逆の方向に作用しかねない補助金の出し方になっている)、林業家のモラルに委ねられてしまっている。

そんな中で、まっすぐ山に向き合うつばささんをはじめとする智頭の林業家の方々の姿には、ひたすら圧倒され、なんだか言葉を失ってしまった。「何の為に山に入るのか」という言葉は、旅する大学の参加者募集のページにもあって、参加前からずーっとひっかかっていた。その言葉に込められた意味や想いを感じて、今はよりいっそうずっしりと心にある。

崩れない道であれば、人が入れる。林業現場を見せてくださった小谷さんは、「単なる作業道ではなく、人と自然のつながる道にしたい」と語っていた。

つばささん

旅する大学とはなんなのか

松村先生のレクチャーは「旅する大学とはなんなのか」という話だった。

先生は大学がわくわくしないと感じていたが、それは大学が施設化されていたからだったという。学生を評価したり、逆に授業評価アンケートで学生から評価されたり、評価する側/される側、与える側/受ける側と、大学は個人個人を切り離していくようになった。旅する大学は別の方向を目指そうと始まった。脱施設化のためには、単に施設の外に出るだけではなく、施設化をつくり出しているロジックから飛び出す必要がある。施設の中にいても大学教員の「フリ」をして脱施設化していくことは可能だが、でもそのためにはどこかにわくわくするための場が必要となる。

松村先生

「評価」に関する話はすごく共感した。会社に入った当初、理念に共感しているから自分のできることは何でもしたいし、給料なんて全然気にしないと思っていた。だけど、「評価」される度に、いつの間にかそのロジックの中に絡め取られて、他者と比較したり、損得を考えるようになってしまっていた。そういう自分がすごく嫌だった。

会社の理念やサービスが"脱施設化"を志向していて、そこに魅力を感じていたからこそ、会社という組織の中で自分自身が施設化のロジックに沈んでいくことが耐え難かったのだと思う。「フリ」をして会社を脱施設化していくこともできたのかもしれないけれど、その力量も余裕もなかった。

一番響いたのは、「脱施設化のためには、単に施設の外に出るだけではなく、施設化をつくり出しているロジックから飛び出す必要がある。」という言葉。次どうするかも決めずに、とりあえず会社を辞めたはいいけれど、時間が経つにつれてお金や所属がなくなることに不安を覚えて、とりあえずの選択肢に飛びつこうとしている自分もいた。でもやっぱりそれじゃダメだと思った。同じことの繰り返しになってしまう。

キーワードは、「小さい」「雑」「わく」あたり。方向性はよくよくわかったというか、大丈夫だ!と思えたので、焦らずに進んでいこう〜〜〜っと。

素敵な先生方、参加者のみなさんと過ごせて、ほんとに幸せな時間だった。
ありがとうございました!


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岸本華果
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