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正解のない問題

高校生の頃、とても素敵な先生と出会いました。
「人は見ていなくても神様は見ている」が口癖の歴史の先生です。
先生の授業は板書なんてほどんとなくて、ただひたすらにお話の時間なのです。それがもう楽しくて大好きで、いつも必死にメモを取りながら夢中になって聞いていました。

テストがまた特徴的でした。
大きな一枚の紙に、例えば「ローマ帝国の成立から衰退までを書け」のその一問。
そういうのが苦手な人のための点取り問題が端っこにちょこっと。
そんな感じでした。

ある時、クラスの中でも歴史が得意で史学科を目指していた友達が、「答案を見せてもらっていいかな」とやってきたのです。
「いいけど、どしたの?」
「先生がね、読んだらわかるって」
そうか。とりあえず渡して、彼女はしばらくじっくり読んでいました。そして「ありがとう。わかった」と。
え?え?え?何がわかった?どうなの?どうなの?

ぼんやりしていた高校時代(今もですけど)、私自身はちっとも深く考えていなくて。
史学科を目指しているAちゃんと大好きな歴史の先生が、どうやら私の答案を良いと評価してくれているらしいことはわかりました。
それに気を良くして「私も史学科目指してみようかな〜」と先生に言ってみると…。
「悪いことは言わないよ。あなたは史学科は向かないよ。史学科行ったら、年号とかちゃんと覚えなきゃいけないのよ」とあっさり言われました。

そうです。私は、歴史のストーリーは好きだけれども、“何年に何が起こった“というところはちょいちょい間違えて、ちっともきちんと覚えていなかったのです。

それから年月を重ねて、先生とも細々ながら交流を続けている中で、私なりに考えてわかってきたことがあります。
おそらく、先生と私の思う「歴史を学ぶ意味」に共通するものがあって、先生は当然それをわかっていたから、私を許してくださっていたのだろうということです。

私の思う「歴史を学ぶ意味」とは。
それは、今何をどう選択しなければならないのか?を学ばせてもらうということです。

だから私にとっては、“何年に何が起こった“という数字や事柄を正しく覚えることは重要ではなくて、“どんな時代背景の中で、どんな力とどんな力がどんな風に作用して何が起こったのか“というところが重要なのです。だいたい何年頃、何年くらいかかってこうなったのかがわかっていればいいのだという程度で。

かつてこういうことをした人はこうなった。民衆はこんな風だったのに権力者がこんな風に対応したからこうなった。そういったことを学ぶことで、現代に置き換えて、私たちはどこにいてどこへ向かおうとしているのか、私はどういう風に生きていったらいいのかを考えるヒントがもらえる気がするのです。過去の人たちが現代の私たちに、とても重要なメッセージを送ってくれていると思うのです。

でもそれ、普通の学校では許されることではないですよね。
先生は、そこを許してくださって、許されない史学科行きには反対したのです。
そんな先生と出会えて、そんな環境で勉強させてもらえたことを、とても幸運だったと感謝しています。

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息子がオンライン授業になって1年以上になります。
今は少しずつ学校にも通っていますが、対面にしろZoomにしろ、先生から直接教わる時間はとても少なくてとても足りていないので、どうしても親がサポートしてあげる必要があります。
そうして息子の取り組んでいる課題を見ていると、決まった答えを書かせておしまいなものがとても少ないのです。
正解の決まった問題は、算数の計算問題くらいではないかと思います。

例えば、先日はエネルギーについて勉強していました。クリーンエネルギー、再生可能エネルギー、化石燃料など、それぞれのメリットやデメリットについて学びました。その最後に出た問題がなるほどと思うものでした。
「あなたはある村の村長になりました。村には電気が足りていないのでなんとかしなくてはなりません。村の地下には化石燃料があることがわかっています。地形的には太陽光や風力で発電することも不可能ではありません。しかし予算は限られています。あなたならどうしますか?」といった感じの問いに、それぞれが自分の考えを自由に書くのです。

正解はありません。かかる費用のこと、環境への配慮、それぞれが学んだことから、自分が良いと思った答えを書けばいいのです。
こんな風に考えさせる課題、素晴らしいことだと思っています。
学んだことへの理解度もわかるし、そこから何が得られたのかもよくわかります。
そして、子供たちにとっては、みんながそれぞれ違った意見を持っていることも当然のこととして受け入れられるようになるのです。


日本ではどうでしょう。
多くが、「正解」を求められるのではないでしょうか。
誰かがそうだと決めた「正解」に誘導されるのではないでしょうか。

その「正解」は、先生が評価してくれる「正解」だったり、多くの人が賛同してくれる「正解」だったりするわけです。
それは本当の「正解」でしょうか?
でも、それを疑うことすら許されません。

これでは、自分の周りの狭い世界の、多くの意見や強い意見に流されるのが正しいのだと覚えていることになるような気がして仕方がありません。
自分の意見は仕舞い込んで、みんなに合わせるのが正しいのだと覚えることになるような気がするのです。

これを繰り返すと、求められる「正解」は何か?を考えるようになってしまいます。
本質は何か?自分の考えは何か?は考える必要性を感じなくなってしまいます。

理解したかどうか、考えを掘り下げたかどうかは関係なく、評価される「正解」を安易に求める癖がついてしまうのです。
しかも、ものすごく視野が狭いのです。

こうした右へ倣えの教育が、日本の現状に大きく影響しているような気がしています。

いろんな人がいて、いろんな考えの人がいて、それでいいとみんなが思えると、断然気持ちが楽になります。
ただし、自分で考えて出した自分の決断には、自分で責任を持たねばならないということも、同時に覚えていく必要があります。
それはなかなか厳しいことだろうと思います。

日本の子供たちは、アメリカの子供たちに比べたら、圧倒的にきちんとできて、きちんと覚えられる子たちだと感じています。そんな子供たちの力を、良い方向へぐんぐん伸ばしていって欲しいと切に願っています。
「正解のない問題」を増やすことで、みんなの意見を受け入れながらまた考えるということを繰り返すことで、何か変化が訪れるのではないかなと考えています。

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