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メロスの敗北(全編)

●1

その日、勇者は死んだ。

メロスが刑場に転がり込んだ時、かの友は確かに生きていた。彼の叫ぶ声が聞こえたからだ。
その叫びは焼けるほど熱く、凍りつくほどに冷たく、メロスの頭に響き渡った。

友が生きて叫んでいる。この群衆の向こうで。
メロスは全身が総毛立ち、これ以上ないほどに目を見開き、必死にその叫びに応えようとした。

「まて、そのものを殺してはならない。殺されるのは私だ。このメロスだ」

だが疲労は極まり、息も絶え絶えで、どんなに叫んでみても、その口からは嗄れた音しか出てこない。

メロスは群衆の中に飛び込んだ。人々をかき分けて前に進もうとするが足に力が入らず、まともに立っていることすらままならない有様で、目の前の男の肩を叩こうにも、腕もまともに上がらない。
そのうち足がもつれて倒れ込み、身を起こそうとしてまた倒れ、しまいには群衆の足を掴んで存在を訴えようとするが、今まさに処刑が行われるという時である、目の前の光景に釘付けの群衆は足元の男に気づかない。

メロスはいよいよ狂乱状態となり、最後の力、わけもわからず目の前の足首に噛み付いた。
悲鳴が上がり、噛みつかれた男が足元のメロスを見て何か非難めいたことを口走っている。
メロスは男を見上げ、自分がここに来るはずの男だと必死の形相で訴えた。
男は怪訝な顔をしたが、はっとなってすぐにメロスを抱えあげると、「おい、この男じゃないのか、ここへ来ると約束していたのは」と叫んだ。
間もなく周囲の人間も彼に気づいた。ざわめきが広がり、「メロスだ、メロスが来たぞ」と口々に叫ぶ声が上がった。

群衆が道を開けた。メロスはよろめきながら前へと進んでいった。開けた視界の先に磔にされた友の姿があった。

友はメロスを見てはいなかった。もはや何も見てはいなかった。目は光を失い、虚ろに開いたまま虚空を見つめている。
その胸には槍が突き立てられ、ぽたぽたと、たった今失われた命がこぼれ落ちていた。

友の叫びは、断末魔の叫びだった。

いつの間にか、辺りは静まりかえっていた。

メロスは時が静止したように立ち尽くした。身体の感覚が失われ、見ている景色がどこか遠ざかっていく気がした。
視界がじわりと歪んだかと思うと、急に地面が近づいてきて、彼は自分が膝を折ってその場にへたりこんだことに気がついた。
重力が身体を地の底へ引きずり込もうとしているようだった。
彼はひどく緩慢な動きで這い寄って、友を見上げた。

セリヌンティウス。メロスは蚊の泣くような声で呼びかけた。彼は応えない。
メロスはもう一度よびかけた。

セリヌンティウス。
聞こえぬのか。

夢の中のように茫漠とした感覚の中、何かがひしひしと身に迫っているのを感じた。

メロスはよろめきながら立ちあがり、セリヌンティウスに触れた。身体にはまだ温もりが残っていた。
生きていた。今の今まで、友は生きていた。

生きていたのだ。

メロスのすぐ隣でセリヌンティウスに触れる者がいた。
セリヌンティウスの弟子フィロストラトスだった。

「先生」

フィロストラトスは抑揚のない声で呟いた。

その顔からは表情が失われていた。
メロスがフィロストラトスを見ていると、ややあって彼もメロスを見た。

無言のフィロストラトスの目からふと、涙が頬を伝った。
それを見た瞬間津波のような現実がメロスに襲いかかり、ひとのみにした。

間に合わなかった。
私のせいで、友が死んだ。
私が殺した。

私が、友を、殺した。

メロスは潰れた喉から引き裂かれるような苦悶に満ちた声を漏らし、その場で泣き崩れた。
嗚咽混じりにすまない、すまないとえずくように声を絞り出し、地面に拳を何度も打ちつけたかと思うと、今度はそれを自分の顔へと打ち付けた。
ごつ、ごつと鈍い音が響き、熱く膨張した頭の芯に痛みが広がったが、張り裂ける胸の痛みを消すことはできなかった。

涙で滲んだ視界に血と泥で汚れた拳と、立ち尽くすフィロストラトスの足と、友人の亡骸から流れ出た血溜まりが映った。

群衆もこの救いようのない悲劇の結末にどうしていいのか解らず、呆然と立ち尽くしている。

なおも地面に頭を擦りつけて喚き続けるメロスのもとに、もう一人の男が近づいてきた。
ディオニス王だった。

「メロス」王は静かに口を開いた。
メロスは突っ伏して目を見開いたまま動けなくなった。王の顔を見ることができなかった。

「日没だ。お前は間に合わずに遅れてきた。約束通り、お前の罪は問わぬ」

嘲りも、罵りもされなかった。どこか苦々しさを含んだ声だった。

メロスは身を焼くほどの屈辱に身体を震わせ、たまらず声を上げた。
「私を殺せ!」「殺せ!」枯れた喉で叫び続けた。

だが王はそれ以上何も言わず背を向けると、護衛を引き連れて歩き去っていった。

メロスはなおも叫び続けたが、それも段々と弱々しくなっていき、とうとう喉から何の音も出なくなった。

群衆にも誰一人メロスを蔑むものはなかった。
ただあちこちから深い嘆息が上がり、その場が失望と悲嘆の色に染まった。やがて一人また一人と、力ない足取りでその場を離れていった。

メロスの周囲に人影がなくなる頃合いで刑吏が2人来て、セリヌンティウスの亡骸の始末を始めた。

友の遺体は縄を解かれ、磔柱から降ろされ横たえられた。刑吏の一人が刺さった槍を引き抜いた。赤黒い血が弱々しく流れた。
目を閉じられ、体をまっすぐにされると、薄汚れた粗末な布で包まれていく。

自分が死なせた友が葬られていく様子を、メロスは身じろぎもせず瞬きもせずただ見ていた。
いますぐ友にすがりつきたかったが、そんな資格はもうないのだと思うと、身体が動かない。目を背けることもできない。

遺体は刑場の一角の、罪人を埋めるため掘られた穴に入れられた。
すぐさま二人がかりで土をかけられ、友の姿はみるみるうちに見えなくなっていき、あっけなく埋葬は終わった。

刑吏たちは、へたり込んでいるメロスと立ちすくむフィロストラトスに対し、一瞬なにかを言いたげな様子を見せたが、結局何も言わず黙ってその場を去っていった。


●●2


日没からさらに時間が経った。
メロスはいよいよ抜け殻のようになって、座り込んだまま放心状態で地面を見つめていた。

フィロストラトスもまたずっと傍で押し黙って立っていたが、あるとき意を決して口を開いた。

「メロス様」

メロスは答えなかった。

「帰りましょう。私達の家に来て下さい。食べ物もありますし、寝床もあります。今はまずその身体を休めなければ」

私が、友の家に行けると思うのか。
殺した友の家に、殺したその夜に上がり込んで、そこでものを食べて眠れというのか。
メロスは何も言わずゆらりと立ち上がったかと思うと、おぼつかぬ足で歩き出した。

「メロス様、お待ちください。どこへ行くのですか」

「どこにも、行くところなどない」
かすれた声でそう呟き、歩き続ける。

フィロストラトスが後ろで何か言ってきたが、それ以上メロスの耳には入らなかった。

空は濃い群青色だ。人々の顔もほとんど判らないくらいになっていた。
メロスは背を丸め、腕をだらりと下げたまま、焦点の合わない眼で歩いた。
盲人のように心もとない足取りで、ふらふらと彷徨い続けた。

王の暴政でかつての活気を失ったこの街は、人も灯りもまばらでまるで死んだように静かだ。

メロスはどこも目指さなかった。ただ灯りのない暗い方へと歩いた。どんな小さな灯りにも照らされたくなかった。
誰にも見られたくなかった。
僅かでも人の姿や微かな灯りが見えると、避けて通ったり、引き返したりした。

空が真っ暗になった。月もなく、人も建物も夜の闇に溶けて判らなくなった。

もう歩けないほどに身体は疲弊しきって、今にも倒れて眠ってしまうような状態だったが、友を死なせた事実が眠ることを許さなかった。眠らずとも、この現実が悪い夢そのものだった。
頭も身体もひとたび立ち止まってしまえばこの悪夢に押し潰されてしまいそうで、歩みを止めることができない。
ほとんど誰が歩いているのか解らぬという感覚でメロスは歩いた。夜の闇で心を塗り潰してしまいたかった。

だがどうしてもそれができなかった。
シラクスに来てからの記憶が、歩いている間中ずっとメロスの脳裏に流れ続けていた。

覇気のない住人たち。暗い表情。言い淀む老人。辺りをはばかる低い声。

高い城壁、叫ぶ警吏たち。引き倒され地面に打ち付けた顎。懐をまさぐる警吏の手。

手首に食い込む縄の痛み。王の蒼白な顔と眉間に刻まれた皺。くぐもった嗤い声。挑発の言葉。

友の驚いた顔。事情を聞き強ばっていく顔。抱きしめた時伝わった微かな震え。縄打たれ牢へと連行される姿。

暗い夜道。生ぬるい空気と草の香り。満点の星空。弾む呼吸。

故郷の村人たち。羊の番をする妹。赤らむ頬。

土砂降りの大雨、陽気な歌。家中満ちた熱気。妹の顔。婿の顔。

夜明け前、肌をなでる小雨。ぬかるむ地面。

破壊された橋に猛り狂う濁流。押し流される身体。遠ざかる対岸。飲み込んだ泥水。重くなる手足。
しがみついた木の幹。失った水と食料。

現れた山賊。両腕を掴む太い腕。振り下ろした棍棒。頭を打つ鈍い音。
背後からの追跡と叫び声。喘ぐ呼吸の音。日照りの中、乾ききってはりついた喉。

めまい、朦朧とする意識。倒れ伏した身体、土の臭い。
諦めと無関心。うたた寝。湧き水の流れる音。喉を潤した清水。

全身をちりちり照らす斜陽。傷だらけの身体。破れかかった服。悲鳴を上げる筋肉。張り裂けそうな胸。

驚く人々の顔。若い石工。遠く見えるシラクスの塔楼。

刑場の群衆。揺れる視界。潰れかかった喉。友の叫び声。土埃。つき立てた歯の感触。遠ざかる周囲の声。

表情を無くした友の顔。苦悶の跡。虚ろな目。胸を貫く槍。流れる血。かすかな体温。
破れた拳の皮と血。潰れた喉。土をかけられ、見えなくなっていく親友の姿。

もしも私が、あの朝もっと早く目覚めていたら。

もしも、大雨で橋が流されなかったら。
もしも、あの山賊たちと出会わなかったら。
もしも、あの場でもっと早く湧き水があることに気づいていたら。
もしも、後ほんの少し刑場につくのが早かったら。

もしも、あの時、ちゃんと声が出せていたら。

友は死ななかった。
わずかな、わずかな時間が足りなかった。

ほんのすぐ近くに友が助かる道があった。
今も自分のすぐそばに、友の生きている世界が垣間見えるような気がする。

だが、届かない。もう取り戻せない。間に合わなかった。

間に合わなかったからこうなったのか?

……違う。違う。すべては私が自分で起こした災いではないか。何もかも、ぜんぶ私が引き起こした。

私は、私はいったい、何ということをしたのだ。

王城に乗り込んだとき、何の迷いもなかった。思い上がった暴君に目にもの見せてやることしか頭になかった。
深く考えることもなく、怒りに身を任せて、無二の友を人質にした挙げ句、放ったらかしにした。

王になんと言った。自惚れているがいいと。
妹になんと言った。お前の兄は偉い男だと。
花婿になんと言った。メロスの弟になったことを誇ってくれと。

いったいどの口がそんなことを言えるのだ。自惚れていたのは私だ。乱心していたのは私だ。

何がもしもだ。何が間に合わなかっただ。そもそも、やる必要のない無意味なことだった。
こんなことなら、最初から何もしないでいるほうがよかった。友も死なず家族とも別れずに済んだ。
私が何もしなければ、私の大切なものは何ひとつ失われなかった。友は殺され、家族には合わせる顔がない。

すべて、無駄だったのだ。濁流を泳ぎきったことも、山賊を退けたことも、死力を尽くして走ったことも、すべて。
そこになんの深遠な意味もなかった。
残ったものは何もなく、あるのは災いだけだ。
私自身がもたらした災いだけだ。

もうこの結末を覆すことはできぬ。
どれだけ苦悩しても、泣き喚いても、この現実を変える事などできぬ。

私はなんという呪わしい人間だ。なんと許されざる罪にまみれた人間なのだ。

メロスはこの身が暗闇の中に散り散りになって消えてしまうよう願った。もう何も感じたくなかった。
ゆらゆらと、いつまでも亡霊のように歩き続けた。

どれほど時間が経っただろうか。いったいどこをでたらめに歩いたのか。

「メロス様」

我に返り、足を止めて振り返った。

少し離れた暗がりの中にうっすらと人影が見えた。ゆっくりとこちらに歩いてくる。

フィロストラトスだった。

なにか逃れられない運命が、自分を捕えにきたように感じた。
メロスはがっくりと膝を折った。再びその場にへたり込むと、力のない目でこの若い男を見上げた。

フィロストラトスは側までくると、メロスを見下ろした。
暗がりの中、どんな顔で自分が見られているのかよくわからなかった。

メロスは耐えられずに切り出した。

「私を殺してくれ」

返答はなかった。

「頼む、私を殺してくれ。お前も、私を許せないだろう。どうか」

そのとき、頬に大きな石で打たれたような衝撃が走った。頭をしこたま揺さぶられ、メロスはたまらず仰向けに倒れ込んだ。
フィロストラトスの拳だった。

彼は、痛みと目眩で起き上がれずに倒れたまま顔を歪めて呻くメロスをじっと見ていたが、やがて握りしめた拳から力を抜くと、深く深く息を吐いた。

それからメロスの側で身を屈めて、顔を近づけるとメロスをまっすぐに見据えた。闇の中、間近にその顔が浮かんだ。

「私の怒りは、もうこれきりです」

ゆっくりと、はっきりした迷いのない声でそう告げられた。

フィロストラトスは続けた。
「メロス様、あなたは生きなければならない。そのような形で命をなげうつことは決して許されません」

メロスは仰向けに倒れたまま、弱々しくセリヌンティウスを見た。その顔には本当に怒りなどないように見えた。

「私は」
メロスは堰を切ったように思いを吐露した。

「私はどうすればいいのだ。友を殺した。私などのために死なせてしまった。人を信ずる心も王に示すことができなかった。私が命を捧げてそれを証明するはずだったのに、できなかった。友は死んだのに、私などが無意味に生き残ってしまった。私はいったい何なのだ。私はこの上どんな顔をして生きていけばよいのだ」

「胸を張って生きてくれメロス。君はけっして臆病者ではない。卑怯者ではない。誰が何と言おうと私だけは君が何者かを知っている。私が死んだ後もずっと君の無二の親友だからだ」

力強い声だった。
メロスはあっけにとられてフィロストラトスを見た。

「先生のお言葉です。死ぬ前にあなたへ遺言を残した。あなたにすべて伝えるよう命じられました。メロス様、あなたが生きていられるのは親友を犠牲にしたからではありません。本当なら先生だけでなく、メロス様も殺されていました。しかし先生があなたの命を助けたのです。日没までに刑場に来させないことによって」

メロスは驚きに目を見開いた。

「いったい、どういうことだ」

フィロストラトスは、この3日間に起きたできごとを語った。


●●●3

メロス、私の口から直接君に伝えられぬことを許してほしい。
私達は本当に佳き友であった。早くに親をなくし兄弟もいない私にとって、君は友であり兄弟そのものだった。

石工になるため君の故郷を離れるとき誓いあったな。どれだけ離れても、何年会わずとも、友に恥じない生き方をしようと。
君はずっと真っ直ぐな男でいてくれたのに、私はそう在れなかった。

君と再会したとき、実をいうと私はひどく動揺していた。真夜中にいきなり兵隊が訪ねてきて、何が何だか分からないまま王城に引き出され、はじめ私は何か罪を着せられ殺されるのではないかと恐怖した。

君から聞かされた話はとても受け止めきれるものではなかった。だがあんなことになっては否も応もない。牢に放り込まれた私は混乱したまま、この一晩のうちに起こったことが信じられないまま、眠れずに夜を過ごした。

私の気持ちが想像できるか。君は私に何一つの相談もなく、二年ぶりに会う友人を、自分の正義を示すためという理由で突然人質に仕立て上げ、三日間も牢で暮らせという。私の心情などいっさいお構いなしに。私だけでない。君の家族もだ。勝手に突っ走って、友も家族も置き捨てて死んでいく。残された人間の気持ちはどうなるのだ。頼んでもない、そもそも必要かどうかすらも分からない理由で君はあっさりと死に、それでいて残された私に胸をはって生きろというのか。正気じゃない。ひどい男だ。独りよがりで自分勝手な男だ。

夜が明ける頃には、私はすっかり君に腹を立てていた。王の残酷さより君の愚かさを憎んだ。

王は私が恐怖に怯えていると思って、何度も私をからかいに来た。
メロスを見限って命乞いをするなら処刑を考え直さぬこともないぞと私を揺さぶろうとした。
実に腹立たしかった。私はやけくそ混じりに、皮肉を込めて君を弁護してやった。

「メロスというのはおよそ常人の理解を超えた馬鹿正直な男で、ひとたび頭に血がのぼると他の一切はお構いなしの暴れ牛です。
あの男の臆病さを期待しても無駄です。そもそも臆病を感知する心がないのですから。
あの男は生まれてこのかたずっと熱に浮かされ続けているのです。シラクスを出たときと同じように、頭に血がのぼったままで戻ってきますよ」

王はその言葉を、君への全幅の信頼と受け取ったようだ。たいそう機嫌を損ねた様子で言った。
「いきがっていられるのも今のうちだ。そうやって威勢のいいことを言っていながら、土壇場で約束を破って裏切る人間を何人も見てきた。あの男には妹がいるのだろう。これから死ぬ男が妹の結婚式などまともにできるものか。未練が生まれ、心変わりするには十分な理由だ。守る者のある人間は脆い。あの男が二日後の日没にわずかでも遅れてきたら、お前は処刑される。そこの罪人のようにな」

そう言って王が合図すると、付き添いの刑吏達が別な牢を開け、一人の男が引っ張り出された。
哀れな男はがたがたと震え、見苦しいほどに泣き喚いて命乞いをしたが、刑吏たちは意に介することなく罪人を引きずっていった。
男の叫び声は牢のある部屋の扉が閉まったあとも聞こえてきて私の耳に残った。

「二日後にはお前もきっとああなる」言い残して王は立ち去った。

怒りがしぼんで、不安が頭をもたげてきた。

妹。ああ、メロスにはあの妹がいる。私もよく知っているあの妹を、メロスがどれだけ可愛がっていたか。
私はもう親も兄弟もない、失う家族はいない。だがメロスは違う。その妹のためにシラクスに来て、今また帰っているのだ。

君は妹と二度と会えなくなっても本当にいいのか。妹を残して死んでもいいのか。
きっと私のことは妹には黙っているだろう。だがもしも何かのきっかけで妹が知ったら、君は本当に戻ってこられるのか。私との約束を守り通せるのか。守る者のある人間は脆い。王の言葉が重くのしかかった。

もし、メロスが戻らなければ。
私はあの男と同じ運命をたどるのか。引きずり出され、磔にされて、無惨に殺される。
王は本気だ。二日後の日没を過ぎれば、もう待たないだろう。
私は殺される。何の罪も犯しておらず、ただメロスが戻らなかったというそれだけの理由で、見せしめに殺される。
それで私の人生は終わりだ。私がこのシラクスで築き上げてきたものもすべて終わりだ。
もし、メロスが戻らなければ。

夜になると私は一層不安で恐ろしくなった。メロスが私を見捨てるはずがない。見殺しにするはずがない。
そう必死に言い聞かせようとするのだが、冷たく暗い牢の中で、絶え間なく襲ってくる恐ろしい想像に抗い続けるのは、並大抵の苦しさではなかった。
君を信じようとすればするほど、君のその向こう見ずな性格や、これまでの無鉄砲な行いが思い出されて、君のことがわからなくなっていった。
こんなに苦しいのなら、いっそのこと君を信じるのをやめてしまおうかと思うまでになった。悪夢のような夜だった。

翌日の午後に王がやってきて告げた。
「約束の期日は明日だ。だいぶやつれているな。昨日の強がりはどうした?」
私はうつむいたまま黙っていた。
「今頃あの男は何をしているだろうな。ここでお前が苦しんでいることなど忘れて、祝宴の席で歌い、笑っているのではないか?
親友を牢に閉じ込めておいて、勝手なものだ」

ここで王の気が変わるのなら、仰る通りメロスはひどい裏切り者です、信じた私が馬鹿でしたとまくしたてて、哀れっぽく命乞いしてしまおうかとも頭によぎっていた。

しかし王の挑発に私は気力を振り絞り、きっと顔をあげ、無理矢理に笑みを浮かべて、
「メロスは私を忘れない。何があっても明日必ず戻ってくる。戻ってきたらその時は私達の勝ちです」ときっぱり言い放った。
それを聞いた王は、憎悪のこもった顔で私を睨みつけた。

「お前も、あの男も、大噓つきだ。明日になればきっとわかる。思い知らせてやる」と吐き捨てるように言って、去っていった。

とんだ見栄を切ったものだ。強がっても私達のどちらかが死ぬのなら、元から勝者などいないのに。
私はいよいよ気力が萎えてきた。身体を横たえ、もうどうにでもなれと思っているうちに、いつのまにか眠ってしまった。

どれくらい経っただろうか、辺りが薄暗くなっていた。
ふと私の見知った声が聞こえてきた。見ると、牢の外にフィロストラトスがいた。

フィロストラトスは私の家に住み込んで私の仕事を手伝っていたが、ここ数日用事で家にいなかった。
昨日の朝家に戻ると私の姿が見当たらずいつまでも戻らない。ほうぼう探し回った末、ようやく居場所を知って駆けつけたという。意外にも王は接見を禁じなかった。どのみち誰が来ようと助け出すことはできないし、弟子に会うことで私が命惜しさに弱音でも吐けば一興と考えたのかもしれない。

フィロストラトスはすぐに事情を飲み込むと、悔しさに歯ぎしりして言った。
「先生の親友が殺されるなんて、本当に悔しいです。私もメロス様と会ってみたかった。会ってたくさん話を聞きたかった。会う前からこんな形で別れがくることが悔しくてたまらない」

私は目を見開いた。弟子の言葉に、頭から冷水を浴びせられたような気分だった。

この弟子は、会ったこともない私の友を一切疑っていない。そして私の友への信頼も一切疑っていない。
メロスがここへ帰ってくると、私がそれを信じて待っていると、心から信じていた。

確かにフィロストラトスには折に触れて幾度もメロスの話をしていた。
子供の頃から家族同然に育ち、どこへ行くにも何をするにも一緒だったこと。
故郷の話や、幼い頃の話をするときは、必ずといっていいほどメロスの話になった。
勇敢で情に厚いが単純で無鉄砲な友人の話を聞くうちに、まるで自分の兄のように親しみを抱いていた。
次にメロスがシラクスに訪ねてくる機会を心待ちにしていた。

私は自分が恥ずかしくなった。つい先程までそんな友人を疑っていたとは言えなかった。
「お前は、会ったこともない私の友を信じてくれるのだな」

「もちろんです。メロス様は先生の信頼する無二の親友ですから。会わなくとも信じられます。いつも聞いているお話で十分に」

私はこのときほど弟子の言葉に救われたことはない。私の友への信頼は間違っていない。この若い弟子が思い出させてくれた。
フィロストラトスにとって、メロスを信じることと私を信じることは同じなのだ。

私は信頼されている。この若者に信頼されている。セリヌンティウスよ、信頼を不信で返してはならない。
私もメロスを信じる。メロスは約束を守る。きっと帰ってくる。
私は延々、帰って来るか、来ないかと気を揉んでいた。それより大切なのは私の在り方ではないか。
いま私がメロスを信じている。そのことが大事なのだ。

私は息を吹き返した思いだった。もう怖いものはなくなった。
「フィロストラトス、私の自慢の弟子よ。ありがとう、私はもう大丈夫だ。お前は家に戻っていてくれ。私のいない間留守を頼む」
フィロストラトスは頷いて、牢の隙間から私の手を握った。
「先生、どうか身体を大事にしてください。明日の日没に迎えにいきます」

弟子が去ると、私は明日のことに思いを巡らせた。


●●●●4

とうとう明日だ。
メロスはきっと約束の刻限までに戻ってくる。そして人の真実の存するところを王に見せてくれるだろう。

そうして、 そうして……磔にされる。 私の友が、明日、死ぬ。
まさかこんな風に別れが来るとは夢にも思わなかった。

この二日間ひどく腹を立てたり疑心と恐怖に怯えたりと冷静に考える余裕がなかったが、今このときになってようやく、明日友を失うのだという事実が押し寄せてきて、自分がどのような心持ちでそれを受け止めればいいのかわからないこと、何の覚悟もないことに気づいた。

私は生きて彼と再会する、だがそれも束の間、すぐに別れのときがくる。そのとき私はどんな顔をしているだろう。
どんな言葉をかければいいのだろう。今から死にゆく友にいったい何がしてやれるだろうか。

友の死を、私は見るのか。友が磔にされる恐ろしい瞬間、そこにいなければならないのか。
私は正気でいられるだろうか。わからない。

メロス、君はどうなのだ。君はこれでよかったのか。死ぬことに本当に一片の後悔もないのか。君はそのときどんな顔をしているのだ。何を思うのだ。最後まで胸を張っていられるのか。君は死ぬ。本当に明日死ぬのだぞ。

今さらながらに、こんな理不尽はないと思った。
メロスは本当に死ななければならないのか。まことの信頼を王に証明してもなお、死ななければならないのか。
そんな馬鹿なことはない。いや、もしかしたら、王の心が変われば、あるいはメロスは死なずに済むかもしれない。
メロスが戻ったことで王の人間不信が解きほぐされたら、メロスに温情がかけられることはあり得えないだろうか。

だとしたら、私は友の成り行きを黙ってみている場合ではない。
私からもメロスを許してほしいと必死で王に訴えねば。
そうだ、もしかしたら、あるいは、メロスは助かるかもしれない。

胸の鼓動が強くなった。わずかな望みが生まれた。明日誰も死なずに済んだら。明日奇跡が起きたら。

そこまで考えたところで、看守が小声で話しかけてきた。

「こっちにこい」
牢の外から手招きしている。何か私に耳打ちするつもりらしい。私は近づき、格子に耳を近づけた。

「もうよせ、これ以上気丈に振る舞っても無駄だ。今からでも遅くない。お前だけでも王に命乞いをしろ。あの男は卑怯な嘘つきで、もはや友人でもなんでもないと、貶めてみせるのだ。あるいは、王の気が変わるかもしれん」

それは先刻頭によぎったことだった。看守がそんなことを言いだすことに驚いたが、あいにく今の私はもうそんな気はない。
「メロスは必ず戻ってくる。私は友を売ったりはしない」

そこで看守ははっきりと告げた。

「聞け。メロスはシラクスに戻らない。途中で、私たちが殺すからだ」

私は息が止まりそうになった。
「どういうことだ、なぜ」

「お前の態度が、あの男が嘘つきでないと証明してしまった。王はそれが我慢ならない。あの男は殺される。私を含めた5人でやる。夜明けと共にここを出てシラクス手前の峠で待ち伏せる。あの男が現れたら山賊を装って襲い、殺す手はずだ。先刻そのように命じられた」

気が遠くなるようだった。いったい、なんという邪智暴虐だ、これではもはや道理も何もあったものではない。
今さっきまで都合の良いことを考えていた自分を呪いたくなった。明日にならずとも、結末は決まっていたというのか。

「ひどすぎる。結局私達は二人とも殺されるしかないということか。そなたはなぜ今そんなことを私に言えるのだ」

「それだから、いちかばちか、命乞いをしろと言っているのだ。もうあの男は助からない。命じられた以上、殺すしかない。だができるだけ苦しまないようにしてやる。今ここに他の囚人はいない、お前と私だけだ。こんな好機はない、だから打ち明けている。お前はあの男と違い、巻き込まれただけの身だ。ほとんど望みはないかもしれないが、やらないよりはいい。態度次第では、万に一つ、命を拾えるかもしれない。私にしてやれるのはこれくらいだ、これがせめてもの情けだ」

私は看守にすがりつき、ほとんど泣きそうになりながら必死に懇願した。

「お願いだ、どうか、どうかメロスを殺さないでくれ」
「聞けぬ願いだ。王の命令だぞ、背けば私達が殺される」
「これではただの犬死にだ。私達は一体何のために信じあってきたのだ」
「諦めろ。できるのはお前が命乞いを試すことだけだ」
「何が命乞いだ。私の無二の友だぞ、ずっと必死で友の名誉を守ってきたのに、いまさら裏切るなど、死んだほうがましだ。私の気持ちが分からないか、そなたに守る友はいないのか」
「いたからこそ言っているのだ!」

看守はぴしゃりと遮った。静かだが凄みを帯びた声だった。

「犬死にだよ。メロスとやらが犬死になら、私の友もこれ以上ないくらいに犬死にだ。知っているであろう。長年王に尽くし功績をあげ、王の側に賢臣アレキスありと言われていた、あのアレキスだ。私の一番の友だった。王の振る舞いに怯え心を痛める皇后様を密かに影で支えて、幾度も相談を受けていた。それに気づいた王が皇后様共々、処刑したのだ。処刑理由はなんだと思う。不貞と、反逆を企てたことだ。アレキスを知るものなら誰もが無実だと知っている。知らないのは王だけだ。尽くした君主の手で殺される、これが犬死にでなければなんだ。アレキスが反逆者なら、もうこのシラクスの誰もかもが反逆者だ」

私は返す言葉がなかった。

「だがよいか、名誉の死であれ犬死にであれ、死は死だ。名誉のため、信頼のため、そんな理由で意地を張っても、ひとたび殺されてしまえば、残るのは残されたものの苦しみ、それだけだ。セリヌンティウス、お前は義理や名誉のためにあの愛弟子を独りにするのか。お前はまだ死んでいない。望みがなくとも、屈辱に身を焼いても、生き延びることだけを考えろ」

私は格子越しに看守の服を掴んだまま、泣いていた。看守は辛そうに顔を背けた。

「メロスだって、同じだ」私はしゃくりあげながら言葉を絞りだした。

「もうしばらくで見張りを交代する。私にできるのはここまでだ。あとはもうお前しだいだ」

「メロスだって、まだ死んでいない。まだ生きているんだ、そなたに殺されない限り」

そう、生きている。殺されない限り。 --殺されない限り。

私は涙を拭った。

「そなたはたしか二日前、私を連行しに家にきた連中の一人だったな、名前を教えてはくれぬか」

「ネストルだが、何の話だ」
「ネストル、頼みがある。いま私の家に弟子のフィロストラトスがいる。このあと行って、これから話すことを残らず伝えてほしい」

「何を言っている。なぜ私がお前の頼みを聞いてやらなければならない」
「私に情けをかけたいのなら、どうか私の頼みを聞いてくれ。メロスを助けるためだ」
「助けられない。待ち伏せて襲うといったはずだ」
「襲ってもいい。ただし殺さないでくれ。倒れて気を失うか、動けなくなるまで痛めつけて、シラクスまで行けないようにしてほしい」

「だめだ、手心を加えている余裕はない。あの男も決死の覚悟であろう。もし失敗すれば私達が罪に問われる」
「そなたの言う通りだ、手加減は要らない。ひどい怪我を負うかもしれないし、約束の日没に間に合わないとなったらメロスは正気でいられないだろう。だがそれでも死なせないでほしい」

「あの男は、生きて身体が動く限り、何日過ぎても、たとえ這ってでもシラクスへ戻るのを諦めないのではないか」
「そのために弟子のフィロストラトスを迎えにやる。日没を過ぎた後は介抱が必要だし、私の遺言を伝えて、故郷に帰ってもらう。
弟子を見つけたら、メロスが倒れてる場所を教えてやってくれ。メロスがシラクスに現れなければ、王はメロスの生死が判らない。王を満足させるために本当に殺す必要はない。日没前にそなた達はシラクスに戻り、王には命令通り殺したと伝えればいい」

「お前は、どうなるのだ」
「私は死ぬ。それでそなた達に対価を支払おう。私の財産のすべてだ。私の家に行ったとき、金目の物は全て持っていくがいい。危険を侵す値打ちのある額だ。そなたの仲間と山分けするといい。それで何とか仲間にも協力してもらってくれ。フィロストラトスが驚くといけないから、まず前もって私の計画を丁重に伝えてくれ。とにかく今は言うとおりに、そして誰にも言うなと」

ネストルは、突然私が吹っ切れたことに困惑していた。

「お前は、恐怖で気が触れたのか。なぜお前はそんなに平然としていられるのだ。お前も死ぬのだぞ。お前はあの男の身を案じてばかりいるが、先程から一度たりと自分の命の心配をしていない。私にはお前までもがあの男に見えてきた。なぜ突然あっさりと自分の命を投げ出すのだ。正気とは思えない」

「そうだ、私はいま正気じゃない。そなたの言う通り、気が触れたか、あるいは親友の馬鹿がうつったかだ。だが何故だろう、とても清々しい気持ちだ。生きるか死ぬか分からなかったときは恐ろしくて仕方がなかったのに、いったん死ぬことを受け入れてしまったら存外、怖くなくなった。

 メロスも、こんな気持ちでいたのかもしれぬな。ここに来てからの2日間、私は心がめちゃくちゃに引き裂かれたようで、まるで生きている心地がしなかった。だがネストル、そなたの話を聞いて、ふいに自分のやるべきことが閃いた。
メロスを、生かすことだ。恥晒し者になるのは辛かろうが、それでもメロスには生きていてほしい。

 私は石工としてこのシラクスでそれなりに認められていた。石工仲間も大勢いるし、今は弟子を取るまでになっていた。
この誇らしい暮らしと仕事を続けたいがために、シラクスの住人でありながら、この街で起きていることから目を背けた。
王が無実の者を次々と手にかけていくのを見ていながら、恐ろしくて何もできなかった。いや、何もしなかったのだ。
だがメロスは、ここで暮らす私が逃げていたものから逃げなかった。この街の住人でも何でもないメロスだけが、この街の住人を救おうとした。そんな男がむざむざ死んでいいわけがない。死ぬべきはこの私だ。ここで自分を偽って生きてきた私だ。

 この上メロスの代わりに生き延びても、私はメロスの親友を名乗る資格がない。だからこれはメロスのためだけでなく、私のためなのだ。私が私であるための決断なのだ。私は自分で自分の死に方を決める。ただわけも分からず殺されるのでなく、自分で腹をくくって死にたい。

 だからネストル、厄介事を押し付けて申し訳ないが、どうか私の最後の頼みを聞いてくれ。私の命に免じて、この通りだ」

ネストルはもうそれ以上異を唱えることはなかった。
「お前の名は、セリヌンティウスだったな。お前の頼みを聞こう。できるだけのことはしてやる。ただし全てうまくいく保証はない。他の者がどこまで従うかも分からぬ。それでもよいか」
「ああ、それでかまわない」

「セリヌンティウス、明日、もう一度お前の弟子をここに来させる。死ぬ前にきちんとお前の口からすべてを伝えろ。
何より最期の別れを告げる時間が必要だろう。交代の看守には、別れが済むまでの間は二人だけになれるよう、特別に取り計らってやる。あの若い弟子がろくに血の通った別れもできぬまま遺されるのは不憫でならぬ。最期くらい大事にしてやれ」

友を殺すはずだった男が、いまや私の弟子のことまで案じてくれている。

「ネストル、何から何まで、お礼の言葉もない」
「乗りかかった船だ。気にするな」

「亡くなった友のこと、話してくれてありがとう。そなたも辛かったであろう」

ネストルは少しだけ黙った後「じき、私の番もくるだろう」と言った。

外の扉が開く音が聞こえた。

「交代の時間だ。これでお別れだ、セリヌンティウス」
「感謝する。さようなら、ネストル」

直後、ネストルはただの看守に戻った。
入ってきた交代の男に見張りを引き継ぐと、私の目をちらと見て、そのまま出ていった。

私は牢の奥で身体を横たえると目を閉じた。フィロストラトスへの遺言を考えているうちに眠っていた。三日ぶりの安眠だった。

翌日、はたしてフィロストラトスは私のもとにやってきた。
看守はフィロストラトスが何も身につけていないことを確かめると、「扉の外で待つ。終わったら呼びにこい、あまり長くなるな」と告げて出ていった。

私は心のなかでネストルに感謝した。


●●●●●5


先生と二人になったとたん、私はこらえきれず涙を落としました。先生は格子から腕を伸ばし、私の肩を叩いて慰めてくれました。

私は先生を引き留めたい気持ちをこらえました。未練がましい言葉が出てきそうになるのも胸の内に押し込めました。
ネストル様の話で私は先生の覚悟を知りましたから、共に過ごせるこの最期の時に、先生を困らせるようなことはしないと固く心に決めていました。

私は乱暴に目をこすって、泣くのを止めました。これから聞くのが先生の最期の言葉になる。それを私はメロス様に余さず伝えなければならない。私にしかできない。一言も聞き漏らすまいと気を引き締めました。
先生はすぐに話し始めました。この三日間で身に起こったこと。どんな思いでメロス様を待っていたか。
怒り、不信、希望。絶望。そして覚悟を決めるまでのこと。死を選んだ理由と、メロス様を助ける理由。
今までにお話した通りです。そうしてメロス様への遺言を伝え終えた後は、私への最期の言葉を残されました。
ずっと先生の話を聞いていたかったし、離れたくなかった。私はわがままを言ってしまいそうでした。

そこで、扉が開く音がしました。入って来たのは看守ではなく王でした。私は身を固くしました。
「別れの挨拶は済んだか」

王は冷たく私達を見下ろしながら連れてきた刑吏たちに「連れだせ」と命じました。
私はぎょっとして叫びました。
「お待ち下さい、約束の時間はまだ先ではありませんか」
「早めに刑場へ連れ出すことにした。暇乞いの続きは聴衆の前でするがいい。日没まで、友への信頼を熱っぽく訴えかけてみせろ。信頼が厚いほど、約束が果たされなかったときにどうなるか、民へのいい教訓になる」

私は王の残酷さに、わなわなと震えました。一緒に過ごす最期の時間すら引き裂かれたのです。

一方で先生は、少しもうろたえていませんでした。涼し気な顔のまま、背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで刑場に歩いていきました。
刑場に連れ出された先生は、磔台の根本に縄でくくりつけられました。

王は「どうだ、自分の最期が現実味を帯びてきたのではないか」「日没には、今より高いところにいさせてやるぞ。沈む夕日はさぞいい眺めであろうな」と言って挑発を繰り返しました。

先生は全く動じる様子もなく、「王はずいぶんと自分の予言を信じておられる。何かよほど確かな裏付けでもあるかのようだな」と皮肉を言って笑いました。
笑いながら「メロスは来る。私たちは負けない。メロスは、来る」ときっぱり宣言し、あとは何を言われても聞こえないという様子でそっぽを向いていました。

私は先生の側でどうしていいかわからず立ちすくんでいました。

先生は私の手を両手でしっかりと包み込み、王に向けたのとは違う優しい笑みをみせると、
「大丈夫だから、もう行け」と言いました。
それでもう、ここで私ができることはない、行かなければならないときが来たと悟りました。

私も先生のように笑おうとしましたが、どうしてもうまく笑えませんでした。声を震わせて別れの言葉を口にしたとたん、私はたまらなくなり背を向けました。泣き顔を見られないようにすることが精一杯だった。
私は振り返らず、ゆっくりその場を立ち去りました。

背中越しにかけられた「良い弟子だった」という言葉が最期になりました。

王城を出た私は家に戻り、準備しておいた食料や水、けが人の手当のための道具を抱えて、ネストル様に言われた場所へと急ぎました。
西陽が射すころ、私はあの峠でネストル様たちと落ち合い、メロス様が来るのを待ちました。

予想よりずいぶん遅くやってきたあなたはひどく消耗していたけれど、襲いかかられたときは驚くほど俊敏だった。
あなたの底力を侮っていた私たちは慌てて逃げたあなたを追った。
私も一緒に追いながら、メロス様が逃げ切ることをどこかで期待しました。でもあなたは峠を下った先で力尽きて倒れていた。

全員でそっと近づいて注意深く様子を見ました。あなたは長いこと倒れて眠ったままだった。
このまま日没まで倒れたままでいてくれれば、これ以上あなたを痛めつける必要もなくなる。

私達は少し離れた物陰からあなたの様子をずっと見ていました。

日没が近づいても、まだあなたは動かなかった。
そうして、いよいよ今からではもう間に合わぬだろうという頃合いで、ネストル様たちは王に報告するため、私を残し急ぎシラクスに戻っていきました。

私は物陰に身を潜めたまま日没を待っていました。あの時間がもっとも辛く悲しかった。

いよいよ、先生は助からない。今このときにも、処刑されようとしている。なのにメロス様はいつまでたっても起き上がらない。
私はがっかりしました。そしてたまらなく腹がたった。あなたを間に合わせてはいけない、これでいい、これが先生の望んだことのはずなのに、私は悔しくて仕方がなかった。メロス様のあのような姿を見ていたくはありませんでした。

今すぐに駆け寄って、メロス様を揺さぶり起こしたいと思いました。走れようが走れまいがどちらでもいい。これ以上あのような姿を見ていられない。でも、できなかった。私には何もできない。日没まで、ただここで待っているしかない。
何もできないことが苦しくて、物陰で私は声を殺して泣きました。

ひとしきり泣いた後で気づくと、あなたの姿がなかった。私は胸が高鳴った。泣きながらあなたを追いかけました。自分でもどうしていいかわからない気持ちに振り回されながら、あなたと同じくらい死にものぐるいで走った。

シラクスの直前でようやくあなたに追いついた。私はあなたを止めようとしました。シラクスに入れるわけにはいかない。先生の遺志が無駄になってしまう。
でも、あなたは止まらなかった。信じられているから走るのだ、間に合う、間に合わぬは問題ではないのだと言いきった。
メロス様、あの時の私の気持ちがわかりますか。

もうあなたを止められない。止めたくない。思い切り背中を押したいと思いました。
なるがままに、天にすべてをおまかせしようと決めました。

あなたは、走った。すべてをなげうって、命を燃やすように走った。

そうして、間に合わなかった。

「これで全部です。これが先生と私が見たものの全てです」

フィロストラトスが話し終えたときは既に真夜中だった。メロスは暗がりの中、フィロストラトスをずっと見ていた。

「さあ、話は終わりです。帰りましょう。私もくたびれました。帰って身体を休めましょう。家まで案内しますからついてきてください」

フィロストラトスが立ち上った。ややおいて、メロスもゆっくりと立ち上がった。
フィロストラトスが歩きだす。メロスは黙ってそれに従った。フィロストラトスの後ろを静かに歩いた。

家までの道中もメロスはずっと無言のままだった。自分の知らなかった真実に圧倒されて、なにも言葉が見つからなかった。

あまりにも多くのことがあった。
あまりにも大きなものに、メロスの心はのまれていた。

今は、張り詰めていたものの一切が消えていた。
足取りはふわふわとしていて、どこか現実感がない。

前を歩くフィロストラトスは闇に半分溶け込んでいる。ぼんやり眺めていると、どこか若き日のセリヌンティウスと似ている気がして、そう思って見るとセリヌンティウスの後を追いかけているような錯覚を覚えた。
声を発すればいとも簡単に解けてしまう錯覚である。
無言でいられることに救われる思いだった。

メロスは、歩きながら空を見上げた。故郷へ戻ったときと変わらぬ、初夏の満点の星空だった。
それを見ていると、闇に包まれたシラクスの街とは違い、空に眠らぬ巨大な街があるかのように思えた。

あそこにあるのはこの地上とはまったく別の楽園で、星々は膨大な数の小さな窓から漏れ出る明かりで、その向こうでは目もくらむような盛大な宴をやっているのではないか。

メロスはずっと、友の幻影と星を眺めながら歩いた。

気づくと、見覚えのある家が目の前にあった。セリヌンティウスの家だ。
メロスは懐かしさとともに中に入った。二人、瓶から汲んだ水を飲む。大きく長い溜息がでた。

破れかかった服を脱ぎ、水を浴びた。乾いた布で体を拭くと、
冷えた身にじんわりと体温が戻ってきて、全身がほぐれていくのを感じた。

家の中のそこかしこに、友の暮らしていた気配が残っている。生活を営んでいたにおいが残っている。

フィロストラトスが食事を用意した。最近では食事の支度も自分の役目になりつつあったと打ち明けた。

丸一日ぶりの食事を一口ずつ、噛むようにしてゆっくり味わった。五臓が満たされていくのを感じた。

渇きを癒し、身を清め、腹を満たす。自分の体が生きている。馬鹿みたいに生きている。

メロスはぽつり、ぽつりと話しだした。これは昔からセリヌンティウスの好物だったとか、普段から自分よりずっと良いものを食べているとか、他愛もないことを口にした。

フィロストラトスもまた、他愛のない話でそれに相槌をうった。先生は味のこだわりが強くて難儀したとか、食べ方の作法にうるさかったとか。

少しづつ、二人の口数が増えてきた。

メロスは、故郷で共に過ごした友を思い出して語った。

フィロストラトスは、シラクスで共に過ごした師を思い出して語った。

思い出が一つ、また一つとこぼれだした。

二人の顔に、血色が戻ってきた。

そうして、皿の上の食事をすべて平らげる頃には、話が止まらなくなった。

亡き人は無言で、二人の間を繋ぎ続けた。

大きな笑いも、大きな涙もなかった。

ただ時間を忘れて、滔々と語りあった。

やがて夜が白み始める頃、二人は眠りに落ちた。


●●●●● ●6


メロスは、夢を見ていた。

目の前に生きて縄を解かれたセリヌンティウスがいた。間に合ったのだ。メロスは万感の思いで友の元に歩み寄り、その手を握りしめた。目に涙が浮かんだ。

「私を殴れ。力いっぱいに頬を殴れ。正直に言う、私は途中で一度君のことを見捨てようとした。あの悪い男を許すわけにはいかない。どうか殴ってくれ」

セリヌンティウスが頷き、周囲がぎょっとするほど力を込めて頬を打った。頑強な石工の腕っぷしだ。たまらず倒れるところを友は素早く支えると、優しく言った。

「メロス、私のことも殴ってくれ。同じくらい力いっぱいに。私もこの3日の間で一度君を疑い、友情を捨てようとした。愚かな男を殴ってくれ。仲直りはそれからがいい」

ああ、知っている、君をどんなに苦しめたか。本当に許しを請わなければいけないのは私のほうなのに、どこまでも優しい男だ。
それでも彼のためだと拳を固く握ると、力を込めて思い切り彼の頬を打った。満身創痍の身体だ。打った拍子に足腰がふらついてまたもや倒れそうになったが、倒れなかったセリヌンティウスに先程と同じように支えられた。

二人の口から同時に笑みがこぼれた。
「ありがとう、友よ」
それ以上は言葉にならなかった。固く抱き合って、周囲も憚らずに、ただ声を上げて泣き続けた。

そこら中からすすり泣く声が上がった。
誰かが拍手した。拍手はみるみる周囲に広がっていき、あっという間に観衆一体の大喝采に変わった。
メロスは友を抱きしめたまま、熱い祝福の渦に身を任せていた。

ふと、歓声が静まった。
ディオニス王が観衆に分け入り近づいてきたのだ。王は顔を紅潮させながら二人に語りかけた。
「お前らの言葉は真実だった。真の信頼というものはけっして嘘やまやかしではなかったのだな。わしが間違っていた。ああ、どうかわしをお前らの仲間にしてもらうことはできぬか。恥は承知の上だが、わしは今この胸が熱くてたまらないのだ」

王が差し出した手を、メロスとセリヌンティウスはしっかり握った。
三人から笑みがこぼれ、再び観衆に割れるような拍手と歓声が上がった。

目が覚めると、頬に涙を伝った跡があった。親友に打たれた痛みが頬に、歓声が耳に、王の手の感触が両手にありありと残っていた。そのときメロスは自分のやるべきことがわかった。

深く息を吐くと、寝床から半身を起こして、周囲を見回した。主を失った家は静かで、窓から弱まった日の光が射し込んでいた。
フィロストラトスの姿はなかったが、外の仕事場から小さく石を打つ音が聞こえて来た。
メロスが部屋を出ると、石を打っていたフィロストラトスが気づいた。

「疲れていたのでしょう、とても深く眠っておられました」
無理もないが、さすがに眠りすぎたようだ。見れば日は傾き、橙色の光が通りに射し込んでいる。

「フィロストラトス、世話になった」
「昨夜は良い時間でした。先生もメロス様を家に招くことができてきっと喜んでいます」
「礼を言うのも詫びるのも、すっかり時期を逸してしまった。いまさら詫びたところで赦されるはずもないが、フィロストラトス、本当にすまなかった」

フィロストラトスは寂しげに笑った。
「もうよいのです。先生は自分の意思で去っていったのですから。私が文句を言ったら、先生に叱られます」

「私の親友を支えてくれてありがとう。それに私のことも」
「メロス様はもうひとりの先生のようなものですから。二人とも同じくらい、手のかかるお方です」
今度はいたずらっぽく笑った。十六の若者の、年相応の笑顔だった。

「君はこれからどうする」
「私は石工としてここで先生の後を継ぎます。もう教えを受けることはできませんが、この二年でたくさん学ぶことができました。一人でも何とかやっていけるように励みます」

「そうか、それは何よりだ。ところでフィロストラトス、私は一つやらねばならぬことを見つけた。今から王城に向かうので道を教えてほしい」

フィロストラトスの顔色がさっと曇った。

「何をなさるのですかメロス様、まさか助かった命をまたなげうつのですか?」
「いや、もう短剣を持って押し入ったりはしない。 王に、私を臣下にするよう申し入れるのだ」

フィロストラトスは驚き、困惑した。
「いったい、何を考えてそのようなことを仰るのですか。あなたは早くシラクスを離れるべきです。昨日殺されなかったからといって今日もそうとは限りません。ここにいたら今度こそ王はあなたを磔にするかもしれない」

「その時はその時だ。だが、きっと王は私を殺さぬ。 聞いてくれフィロストラトス。
 王は、本当のところは私達の真の友情を知っていたはずだ。セリヌンティウスが最後まで私を信じるのを見て、それに気づいた。
気づいたからこそ、それを許せず私に刺客をよこしたのだ。

 だが私はそれを乗り越えてシラクスに戻った。あのとき王は遅れてきた私を嘲笑うことは一切しなかった。私の心を知っていたからだ。私は友を死なせた愚か者だが、王は確かに私達の本心を見たはずだ。
 だとしたら、セリヌンティウスも忠臣のアレキスもいない今、このシラクスで、私以上に信頼のおける人間を王は知らないはずだ。

 だから、私が王に仕える。そうして、王と民の間をとりもって、信頼を回復させてみせる。人質を取ったり、殺したりしなくてもいいようにしてみせる。

 王の仕業を忘れたわけではない。だが私は友に命を託されこうして生きている。私一人の身ではない。もう許せる、許せないは問題ではない。私はちっぽけな男だが、今はもっと大きなものが私を突き動かすのだ。誰に後ろ指を指されようと、私はここで成すべきことを成しとげたい。フィロストラトス、セリヌンティウスなら私を止めると思うか」

フィロストラトスは少しの間黙っていたが、やがて諦めたように微かに笑みを浮かべて答えた。

「いえ、止めないでしょう。先生は今あなたと共にいる。あなたがそうするなら、きっと先生がそうするのです」

「ありがとう、フィロストラトス」

メロスは王城への道のりを教わり、フィロストラトスに別れを告げると、何も持たずに友の家を出た。

王城はここから半里ばかり先だという。日はさらに傾き、西日が長い影を落としていた。
昨日の今頃は生きた心地がしなかったが、今日はそう急ぐ必要もないだろう。日没に間に合わずとも、失う友もない。

シラクスは相変わらず活気がなく、よそよそしい空気に満ちていた。

歩いているうちに、なんだか見覚えのある通りに出た。思い出して懐かしさが蘇った。
二年前にもここを訪れている。あのときは多くの露店があり、目移りするほどたくさんのものが売られていて、持ちきれないほど買いこんだ。セリヌンティウスも一緒だった。

大きなシラクスの街での活気に満ちた暮らしぶりを聞くのは楽しかった。
故郷を懐かしむセリヌンティウスに積もる話も尽きなかった。
故郷の村中の人を集めたよりもたくさんの人が行き交っていた。

夜になっても活気は衰えず、広場ではリラの演奏が始まった。
陽気な音楽に歌に踊り。メロスとセリヌンティウスも加わった。
酒も食事も大いに楽しんで、セリヌンティウスの家に帰ってもなお楽しい時間は尽きなかった。

亡き友との記憶にメロスは胸が痛んだが、心が思い出すままに任せていた。

その思い出の場所で、妹と同じくらいの年頃だろうか、小綺麗な装いの若い娘が花を売っていた。
メロスはふと、自分が昨日と同じく薄汚れたままの格好でいることを意識した。

何も持たずに来たが、この出で立ちでは守衛の目に映る印象が良くないのではないか。
またもや懐に武器など隠していると思わせてはいけない。

メロスは若い娘に話しかけた。「すまないが、一輪だけ花を分けてはもらえぬか。これからディオニス王に会いに行かなければならぬのだが、見ての通りの格好で怪しまれそうでな。せめて花をかかげて敵意がないことを示したいのだ」

娘はメロスの顔を見ると、はっと気がついた様子でおずおずと訪ね返した。

「昨日命拾いしたばかりで、いったい何をしに行くのですか」
メロスは驚いた。この娘は私を知っている。昨日あったことを知っているのだ。

「そなたは昨日あの場にいたのか」
「おりました。あなたの親友の身が心配でたまらなかった。日が沈むずっと前から刑場で見守っていました」
「もしやそなたは、セリヌンティウスと恋仲だったのか」
「いいえ、あの方は私を知りません。私が密かに慕っているだけでした。あの方はシラクスではよく知られた石工です。腕がよく、人望も厚く、皆に好かれていた。 この通りでよくあの方を見かけました。一度だけ、花を買っていったことがあります。あの方は覚えていないでしょうが、私はとてもよく覚えている」

友の知らぬところで、友のことをずっと慕う娘がいた事実に、メロスはまた胸を痛めた。

この若い娘は、私をどのように見ているのか。言葉に詰まっていると娘は続けた。
「王に会って何をするのですか、あなたはもう罪を問われない。友人のいないこのシラクスにいる理由なんて無いのではありませんか」

ああ、この娘は私を恨んでいる。この街から出ていってくれと言っている。当然だ。想い人を死なせた男が目の前にいるのだ。何一つ弁解の余地はない。

メロスが返答に窮していると、娘は堰を切ったように続けた。

「昨日のあなたを間近で見ていました。あなたは決して自分が助かるためにわざと遅れてきたわけじゃない。あの場にいた者なら皆知っています。あなたは死力を尽くして戻ってきた。何よりあのお方が信じていた。でも、あなたは、間に合わなかった。それが苦しい。あなたを責められない。あなたがあの方を人質になどしなければ死なずに済んだのに。私は、気持ちの持っていく場がない。殺したのは王なのに、あなたが殺したように思えて仕方がない。それが苦しくて、苦しくてしかたがないのです」

そこまで吐き出すと娘は涙を拭った。目を閉じて深く呼吸し、必死に感情をおさめようとしていた。

メロスは脳裏に昨日の出来事がまざまざと蘇った。メロスの目にも涙が滲んだが、歯を食いしばってこらえた。いま私に泣く資格はないのだ。

「そなたの大切な人を死なせたこと、お詫びの言葉もない。そなたにも、この街の人々にも、私は本当に取り返しのつかぬことをした。償っても償いきれぬことだが、それでも私は死んだ友のため、この街の人々のために、これからできることをしなければと思いここにいる。王に会うのはそのためだ」

娘が目を赤くしながらも聞いてきた。
「何か、考えがあるのですか」

この娘には正直に話したいと思った。メロスは先程フィロストラトスに話したのと同じことを伝えた。

娘は目を見開いたまま、メロスを見つめていた。

メロスが話し終えても、娘は胸に手を当てたままじっと何かを考えていた。少し経って、ようやく口を開いた。

「そういえば、今日は誰も処刑されたという話を聞いていません」
「昨日までは毎日だったのだな」
「ほとんど毎日でした。でも、ただの偶然かもしれない」
「偶然でなければ、王に心変わりがあったのかもしれぬ」
「けれども王があなたを信じるか、わかりません」

「それでも、私はやらねばならぬ。命のある限り何度でも頼み込むつもりだ。それが私にできる罪滅ぼしだ。すまないが、もう行かなければならない。どうか花を分けてはもらえぬか」

わかりました、と娘は白い花を選んだ。それを一輪ではなく両手で持てるだけ束にしてメロスに手渡した。
それから着ていた緋色の外套を脱いで広げると、すっと近寄り、それでふわりとメロスを包んだ。

娘の体温が身に伝わってきた。

「さしあげます。大切なものです」
メロスはうろたえた。

「奇抜な格好ですが、着の身着のままの丸腰よりはましです」
「なぜ私に。それに、花もこんなに」
「あなたに持っていてもらうことにしました」

娘はもう泣いていなかった。ただ真っ直ぐにメロスを見ていた。

「どうか無事で」

メロスは胸の前で花束をしっかりと持ち直した。

「ありがとう、行ってくる」
そう言って別れを告げ、王城に向かって歩きだした。

日没がそこまで近づいている。メロスは足を早めた。

手にもった花から優しい香りが溢れて、鼻孔をくすぐった。
緋色の外套が風になびく。包まれていると、心まで緋色に燃えるような気持ちがした。

メロスは、駆け出した。約束の刻限などないが、日没までに王に会いたいと思った。
王城まではもう一本道である。息を弾ませ走り続ける。

大きな力が背中を押していた。

この先何が起こるのか、メロスにはわからない。いや、誰も先のことなどわからない。

私は愚かな男だ。どうしようもない痴れ者だ。勇者でもなんでもない。本当の勇者は死んでしまった。
私は今や何者でもない。私は、

ただの男だ。ただ信じられているから走るだけの男だ。

神々よ、運命だの、結果だのは、すべてお任せする。
私はただやるべきことをやる。ただその一点のみだ。

王城が見えてきた。城壁が近づき、段々とその輪郭がはっきりしてきた。正門に守衛がいる。
少し手前で立ち止まった。

深呼吸し、息を整える。

夕日は紅く、西の空にただ一点の光となり、小さく揺らめいていた。

メロスは胸に花束をかかげ、守衛に向かいゆっくりと歩いていった。

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