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名作/夏目漱石『坊っちやん』             太宰治『走れメロス』勝手読み

小中学生にもなじみの深い日本文学作品の定説の紹介と、僕自身の「勝手読み」を並べて紹介したら、面白いのではないかと思いまして、しばらくシリーズとして続けてみようと思います。第1回の今回は夏目漱石『坊っちゃん』、太宰治『走れメロス』です。この2作には、僕自身は共通の論点があると勝手に考えています。では以下で説明します。

第1回 
目次
1 夏目漱石 『坊っちゃん』
2 太宰治  『走れメロス』

 

夏目漱石

1『坊っちやん』あらすじ
「親ゆずりの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている。…」。小説『坊っちゃん』の主人公は、明治時代、東京に生まれ育った江戸っ子です。無鉄砲で、曲がったことが大きらいな少年です。そんな彼は母親に「顔も見たくない」と怒られ、親戚(しんせき)の家に預けられました。唯一の理解者は下女の清でした。大人になった「坊っちゃん」は、四国松山にひとり旅立ちます。市内にある中学校に数学教師として赴任(ふにん)することになったのです。人を小馬鹿にしたような赤シャツを着ている教頭「赤シャツ」、たくましい面構えの同僚教師「山嵐」、調子のいい芸人のような画学教師「野だいこ」など、個性豊かな教師たちと生意気な生徒たちに囲まれて始まった坊っちゃんの教師生活でしたが、わずか1ヵ月あまりで終わりを迎えます。教頭の赤シャツと同僚の山嵐との争いに巻き込まれたのです。出世ばかりを気にして教師に責任をなすりつける。うらでこそこそする。そんな赤シャツの振る舞いに怒った山嵐と坊っちゃんは、ついに、赤シャツと赤シャツに従う教師たちに立ち向かう決意をします。赤シャツたちを待ち伏せした坊っちゃんと山嵐。坊っちゃんは袂(たもと)から取り出した生玉子を野だいこの顔をめがけてたたきつけ、山嵐は赤シャツをさんざんになぐりつけました。その夜、二人は学校を辞め、松山を離れます。松山を離れていく船上で、晴れ晴れとした気分に浸る坊っちゃん。生まれ育った東京に戻り、「漸(ようや)く娑婆(しゃば)へ出たような気がした」と、やっと煩わしさから解放された自由な気分に浸ったのです。
(NHK 10min.box 現代文から引用 )
定説                                  幼いころから無鉄砲な「坊っちゃん」は、曲がったこと、理不尽なことを嫌い、周囲に理解されないが、「正義」を貫こうとする。だから松山でも、不正義を繰り返す「赤シャツ」を成敗し、清々しい気分で東京に帰り、慈愛溢れる「清」と暮らした。勧善懲悪に徹した作品。
勝手読み
 「坊っちやん」が体現する「純粋な正義」の「反社会性」と「赤シャツ」の体現する「実質的な権威に基づく正義」の「社会性」とのコントラストを読み取ります。確かに「坊っちゃん」の「正義」は理念上は
正しく、共感されるはずのものです。正義の鉄拳の暴力は、その「正義」の実行のためには必要悪とされます。歴代の日本のヒーロー、ウルトラマンや仮面ライダーも破壊や暴力を伴います。しかし、その歴代ヒーローが異星人や仮面を付けざるを得なかったように、「坊っちやん」の正義は、社会的には何ら評価されることなく、自己満足のまま失職します。最後の「その夜おれと山嵐はこの不浄(ふじょう)な地を離はなれた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆しゃばへ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。」という一説で、定説は、「爽快感」を説明しますが、勝手読みは、その後半「山嵐とはすぐ分れたきり今日まで逢う機会がない」に注目します。これは、共同で正義を遂行した者同士にも、「社会性」は存在せず、共同性は一過性のものにすぎなかったことの証拠です。 
 ここで「勝手読み」の強引な結論をまとめると、


『坊っちやん』とは、世の「正義」とされるものは、相対的価値にすぎず、社会性を獲得した者だけが「正義」を名乗ることができる。

となる。


太宰治

2 『走れメロス』のあらすじ
小説『走れメロス』の舞台は、紀元前のギリシャ時代、イタリア南部のシチリア島にある都市です。ここに伝わる古い伝説が物語のモチーフになっています。主人公は、村で羊を飼って暮らしている若者メロスです。人一倍正義感が強く、人を疑うこととうそをつくことを何よりも嫌っています。妹の結婚式のための買い物が目的でメロスが40km離れたシラクスの町を訪れる。もう一つの目的は、親友セリヌンティウスとの2年ぶりの再会でした。ところが、訪れたシラクスの町は以前に比べすっかり活気を失っていました。人を信じられない王デイオニスが、妹むこ、自分の子、妹、妹の子と、次々に人を殺していることを知ったメロスは激怒します。親友のセリヌンティウスを訪ねることも忘れ、王を暗殺しようと、たった一人で城に乗りこみます。しかしたちまちとらえられ、王の前に引き出されてしまいます。とらわれたメロスは、妹の結婚式を挙げるために、処刑の前に三日間の自由が欲しいと王に申し出ます。しかし王は、帰ってくるわけがないと、とりあいません。そこでメロスが人質として差し出したのが、親友のセリヌンティウスでした。セリヌンティウスは、メロスが帰らなければ身代わりに殺されるという立場を突然知らされます。王の前で、メロスから事情を聞いたセリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめます。無言でとらわれ、待つ身となった友セリヌンティウス。一方、メロスは自由の身となり、城をあとにします。メロスは40km離れた村にもどり、大急ぎで妹の結婚式を挙げました。そして再び、友が待つ城をめざします。期限はあとわずか。日が沈むまでにもどらなければなりません。しかし、荒れくるう川、おそいかかる山賊(さんぞく)、行く手をさまざまな障害がはばみます。そして暑さと疲れが限界に達したとき、最大の敵が現れます。それは、自分自身の弱さでした。力尽きたメロスは、走ることをあきらめかけます。自分に負けそうになっていたメロス。しかし、再び力をふりしぼり、セリヌンティウスが待つ城をめざして走りつづけます。日没まであとわずか。王に殺される、ただそのためだけにメロスは走りつづけます。そして日没直前、間一髪、城にかけこみました。再会を果たした二人の友。メロスは、途中、一度だけ友の信頼を裏切りかけたことを告白し、涙をうかべながら、「わたしを殴れ」と言います。すべてを察したセリヌンティウスは音高くメロスのほおを殴りました。すると今度はセリヌンティウスが、三日間に一度だけメロスを疑ったことを告白します。「君がわたしを殴ってくれなければ、わたしは君と抱擁(ほうよう)できない」と言うセリヌンティウスを、メロスは腕にうなりをつけて殴ります。そして二人は同時に「ありがとう、友よ」と言い、ひしと抱き合い、うれし泣きに泣いたのでした。
(NHK 10min.box 現代文から引用 )
定説
明らかに信頼と友情の物語と言えます。さらにその強い友情が、暴君をも改心させ、二人の命も、ひいてはシラクスの町の人々の生活も安堵されます。人一倍正義感が強く、人を疑うこととうそをつくことを何よりも嫌っているメロスが、正義のため、友情のために幾多の困難も乗り越え、自分の心の弱さをも克服し、晴れて友人を救い、町の人々も悪政から救った勇者、正義のヒーローの活躍が描かれます。最後には正義が克ことを語る作品。
定説2
小説の一番最後には、「古伝説と、シルレルの詩から」とあり、『走れメロス』はこの2つを参考に書かれた事が分かります。「古伝説」はギリシアの伝説のことで、「シルレルの詩」は、ドイツ人の詩人・シラーが書いた詩のことです。シラーの詩は、この古伝説をもとに書かれました。日本ではドイツ語の文献が大量に翻訳されました。そして、太宰は小栗孝則という人が訳したシラーの詩を読んで、着想を得たのです。メロスとセリヌンティウスの伝説が書かれた書物は多く存在するのですが、そこには「メロスとセリヌンティウスはピタゴラス教団の信者だった」ということが書かれています。つまり、セリヌンティウスが人質を引き受けたのは、「メロスとセリヌンティウスは同じ宗教の信徒だったから」と言えます。
同じ宗教を信仰している信者たちの結びつきは強いので(マイナーな宗教だと特に)、セリヌンティウスは当たり前のようにメロスを助けたのでした。『走れメロス』ではそこが抜け落ちているので、奇跡の友情物語が描かれているように見えるのです。
(純文学のすゝめ から引用)​




勝手読み
 
ここにも「純粋な正義」に伴う短慮とそれを政治的に利用する深謀遠慮の王の「社会的な正義」とのコントラストを読み取ります。確かに古代ギリシャの伝説をモチーフにした友情と信頼の美しい物語です。また、信仰心の篤さとそれによる天からの救いの物語でもあります。しかし、そもそもシラクスの町にやって来た当初の目的を忘れ、短絡的に「メロスは激怒」してしまうことから物語は始まります。この短慮による「純粋な正義」の行使が事件を誘発してしまいます。それに対して王は、
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑びんしょうした。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁(はんばく)した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟つぶやき、ほっと溜息ためいきをついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
というやり取りでメロスを諭します。さらに
メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑(ほくそえん)だ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。
というやり取りで、メロスは行き掛かり上友人セリヌンティウスを身代わりにすることになります。王は、メロスが約束を反故にすると予測し、純粋な理想論の人々への見せしめを目論見ます。しかし、意に反してメロスは日没間際間に合い、王も感動し、
 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
という大団円を迎えます。「真実とは空虚な妄想」ではない。「わしも仲間に入れてくれ」と王も感動します。素晴らしい結末です。しかし、直後の群衆の歓声は、「メロス万歳」ではなく、「王様万歳」である。つまり、民衆の「真実」を獲得した王が、その政治的な正義を獲得した瞬間と言えるのではないかと考えます。だから、メロスは最後に
ひとりの少女が、緋(ひ)のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。
というように「赤面した」のです。これを「興奮で紅潮している」という説と「裸体を見られた羞恥」という説が定説ですが、勝手読みは、「王に利用されただけの表面的な勇者の羞恥」と読みます。


 ここで「勝手読み」の強引な結論をまとめると、『走れメロス』とは、友情と信頼の物語ではなく、権威者に常に純粋な正義、理念は利用されるので、絶対的な正義などこの世には無く、有るのは、権威者に利用され続ける「相対的な正義」だけであるという物語だ。

となる。


このようにすでにお分かりのように、夏目漱石『坊っちゃん』と太宰治『走れメロス』という「純粋な正義」と評価されがちな両作品は、むしろ逆に、「正義」とは「政治的で不純な相対的正義」に過ぎないことを論点にした共通の物語だと勝手に言えるのでした。
今後も「名作勝手読み」を続けていきたいので、ご意見ご感想がありましたら、忌憚なくお聞かせください

沖田の写真


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