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試し読み『氷の木の森』ハ・ジウン著

氷の木の森_カバー+帯_RGB

序曲 Overture


 氷の木の森を背負うようにそびえ立つカノンホール。
 中央前方には貴賓用のゆったりとした席が500席、その左右には普通の椅子が800席ずつずらりと並んでいる。さらに、5階まである特別席は合わせて500席。
 空席とはいえ、しめて2600百もの客席を前にすれば、どんな音楽家も息を吞の むにちがいない。全席が埋まる大事な審査の日とくれば、新人音楽家たちは舞台に立つなり凍りつくだろう。
 カノンホールで演奏してきたどんな高明な巨匠(マエストロ)でも、この舞台に立てばやはり緊張するという。ここは音楽の都。みずからをまったき聴衆と考える貴族たちが集まり、厳しい目で音楽家を”選別”する場所。
 そこには新人音楽家たちへの励ましの拍手も、ミスへの大らかな包容も、その場の雰囲気に合わせた呼応もない。みずからをまったき聴衆と自負する貴族たちは、そんな真似をすることをみっともないと思っているからだ。
 しかし、そんな貴族たちを一度も”聴衆”と呼んだことはなく、むしろその息も詰まるほどの舞台から彼らを見下していた、ただひとりの音楽家がいた。
 アナトーゼ・バイエル。永遠なるド・モトベルト。
 1628年、キセの大預言がはっきりと終末を告げた年、音域の神モトベンの聖地にしてすべての音楽家たちの故郷であるエダンで、惨むごたらしい殺人事件が起きた。その始まりと終わりには、いつでも彼がいた。



#00 冬が終わらない場所、エダンにて

数あまた多の枝が弦のごとく立ち並び、
目には見えない指揮者の沈黙を指揮棒代わりに冷たく白い風が歌う場所
そこは氷の森


 1628年最後の日、パスグラノたちはおとなしかった。
 大預言者キセが告げた終末の日であることを思えば、それは意外なことだった。キセの熱烈な信仰者である彼らなら、今日が人生最後の日であると真摯に受けとめ、命尽きるまで音楽とともに過ごすものと思われたからだ。だが彼らは、夜まで小さな会合ひとつ開かなかった。
 家族と静かに別れを惜しんでいるのだろうか。終末を心から信じている彼らならありうる話だ。
 一方で、マルティノたちはそんなパスグラノたちを鼻で笑い、あちこちで寄り集まっていた。酒を傾けながら、キセを史上最大の詐欺師だと嘲り、騒ぎ、飲んだ。ときおり音楽が添えられたが、興奮しきりの彼らは、くそつまらないマルティンなどやめろと叫んだ。
 ろれつの回らない口調で呼ばれるのに気づかないふりをしながら、ぼくはガフィル夫人のサロンへ向かった。いつも音楽の絶えないこの場所も、今日ばかりは静まり返っていた。
 ガフィル夫人はぼくを迎え入れて椅子に座らせてからも、押し黙ったままだった。それはぼくも同じだった。結局ぼくたちは、沈黙という荘厳な演奏をあとに席を立った。
 玄関の前であいさつを交わしていたとき、夫人が泣き出した。両手で顔を覆ったまま無言でいる彼女を見つめてから、ぼくはその家をあとにした。
 酔っぱらった音楽家たち、憂鬱な影を引きずるようにしてしめやかに歩く音楽家たち。通りには多くの音楽家たちがいたが、そこに音楽はなかった。一六二八年最後の日、それはじつに奇妙な日だった。
 そんな日に演奏会を開く音楽家が、ひとりだけいた。

  アナトーゼ・バイエル、永遠なるド・モトベルト
  最後の演奏会
  カノンホール、午後7時

 張り紙にはそれだけ書かれていた。つい三日前に張り出されたにもかかわらず、チケットはすでに完売していた。
 しばらくそれを見ていたぼくは、張り紙の端をつまんでゆっくりと剥がしはじめた。名前が裂け、カノンホールという単語も消えたが、こともあろうか〝最後〟という文字だけが壁に残った。あたかも、おまえにその事実を変えることはできない、とでも言うように。
 目の前がぼんやりと霞み、まぶたをこすると、乾きの遅い質の低いインクが顔についた。ぼくはそのままカノンホールへ向かった。
 ホールの現オーナー、レナール・カノンは、いつものようにぼくを控え室に案内しようとした。でもぼくは、首を振って断った。多少驚いた様子だったが、彼はありがたいことに理由を尋ねようとはしなかった。ぼくは静かに客席に座り、舞台を見つめた。
 間もなく、期待に満ちた聴衆の前に現れたその男は、驚いたことに旅の装いをしていた。聴衆がささめいた。だが、彼が〈黎明〉を持ち上げると、客席もさっと静かになった。
 やはり。ぼくは苦々しい思いでつぶやいた。
 それは一見、なんの変哲もない木片のように見える。どこにでもありそうな燃えさしの木片。いまにも砕けてしまいそうなそれは、だが意外なほど頑丈だった。だからこそ、稀代の楽器製作者にしてカノンホールの初代オーナー、J・カノンも、この木で楽器をつくろうと思ったのだろう。
 楽器製作者たちの常識をくつがえしたその木の正体は知られていない。雷の落ちたオーレ山の木だという者もいれば、J・カノンがみずから育てた不思議な木だという者もいた。
 それは白かった。真っ白というよりは、燃えつきてそうなったような色だが、美しい。なにも塗られていない、天然の色。J・カノンは、この楽器に〈黎明〉という名をつけた。
 今日、ここで、それを手になにをするつもりだ。バイエル。
 バイエルは黎明を肩にのせた。いとしいわが子を抱き上げて自分の肩に座らせるかのように、やさしく。そして、そっと顎をのせ、最後に目を閉じた。
 その光景を目の当たりにするたびに、むしょうに顔がほてった。まるで、お互いを愛撫する恋人たちの密やかな睦み合いを見ているかのように。
 演奏はただちに始まった。本来なら、バイエルは演奏に先立って、弓で弦をやさしく撫でる。ぼくはバイエルに、舞台の上でそんないやらしい真似をするなと冗談半分に言ったものだ。こんなに急ぐのはなぜだろう。もしや、終末の時はすでに……。
 ほどなく、ぼくは跳び上がるほど驚いて舞台を見つめた。
 バイエルの演奏、それは演奏と言えるものではなかった。彼は無造作に弓を動かしていた。けれど、いかなる音にもなっていない。バイオリンを侮辱しようとする、ならず者のやりそうなことだ。不快で耳障りな音が会場に広がった。
 観客席の人々は訝しげに目を見合わせたが、まだ騒ぐようなことはしない。優れた聴衆だと自負する彼らは、なんとかその音楽を理解しようとしていた。あの有名なマエストロのすばらしい演奏なのだから、どんなに風変わりであってもきっとなにかあるはず。そう自分を諭すような彼らを見るうちに、胸がむかむかしてきた。
 だがバイエルのでたらめな演奏が続くにつれ、人々もなにかがおかしいと気づきはじめたようだった。ぼくはいっそのこと彼らを代表して、バイエルにやめろとどなりたかった。ところが、客席からひとり、ふたりと立ち上がり、演奏と騒音と野次が入り混じって不協和音を成した頃、バイオリンの音色が一変した。
 まるでこれまでの無礼を詫びるかのごとく、やわらかい音がゆっくりと人々をなだめた。彼らの心が徐々にやわらいでいくのがわかった。やっぱり、なにかあると思ってたんだ。みな納得の面持ちだった。バイエルはかすかに微笑まで浮かべて、美しい調べを奏でた。
 じつに甘ったるい嘲弄だった。
 客席が落ち着いてくると、曲調はしだいに激しくなった。人々は息を呑んだ。弓を持つバイエルの手さばきは、そこらの音楽家に真似できるようなものではない。スピーディな音律が上下し、観客の息を弾ませた。なかにはあえいでいる者もいる。絶頂へのぼりつめていく身悶えと息遣いが感じられた。それでも、バイエルの烈しさはとどまることを知らない。ぼくまでもが息苦しくなり、何度も胸を叩いた。なかには、いても立ってもいられず恋人の襟をつかむ女性もいた。
 狂ったように弦の上をすべる弓が、とうとう激しく身をよじった。
 ああっ!
 誰かがこらえきれず声をあげた。
 弦が切れたのだった。カノンホールでこんな失態を? しかも、バイエルはド・モトベルトの称号を与えられたマエストロだ。だがバイエルは止まらなかった。表情ひとつ、動作ひとつ乱れない。弦が一本切れたまま、危うい演奏は続く。もっと、もっと、もっと!
 ああっ!
 絶頂の瞬間、またも切れる弦。
 人々はようやく、それがマエストロのミスではないのだと気づく。彼らは当惑しながらも、あえぎつづける。弦が二本切れたまま奏でられる、奇妙で反復的な音色。やむなく絶頂に達した音でまたもや弦が切れ、不協和音が生まれる。
 それは、奇怪で、衝撃的で、破壊的な音楽だった。
 繰り返し、繰り返し、繰り返し……。
 観客はいまや、その音楽を判断できなかった。ただ、どうにか残っている本能で感じた彼らは、しきりに腰を浮かせ、身をよじらせた。熱い吐息があちこちで漏れる。

 ――バイエルが本気になったときの演奏ほど人を愚弄するものはない。自分が軽蔑してやまない観客たちを、あの神聖なカノンホールで下衆にしちまう。バイエルの演奏が絶頂に達するとき、やつらはベッドのなかで恍惚を感じるときみたいな顔になるんだ。

 ふとトリスタンの言葉が思い出され、涙がにじんだ。
 彼を尊敬してやまない聴衆を下衆に貶めてしまう旋律、その果てでついに最後の弦が切れ、バイエルは目を開いた。壊れた黎明と弓を持つ手を下ろし、客席をぐるりと見回す。そして、ぐったりと果てているまったき聴衆に向かって言った。
「わたくしのショーにお付き合いいただき感謝いたします」
 バイエルは深く一礼すると、ご丁寧にこう付け加えた。
「貴様らの耳はただの飾りか」
 そして肩をすくめると、まるで何事もなかったかのように、切れた弦をぶらぶらさせながら舞台を去っていった。彼を引き留める者も、拍手をする者も、口を開く者もなかった。
 それが、アナトーゼ・バイエル・ド・モトベルトの最後の演奏。ぼくが見た最後の姿だ。
 バイエルはその日のうちに姿をくらませ、翌日、太陽はキセの預言を嘲笑うかのごとく、いつもどおり昇った。1628年は終わり、1629年を迎えた。世界はなにひとつ変わることなく、それまで同様にせわしなく、目まぐるしく過ぎていった。
 終末は来なかった。それについてパスグラノたちがどう弁解したのか、マルティノたちが彼らをどんなふうにからかったのか、ぼくにはいっさいわからない。
 ぼくの魂は、1628年最後のその日に終末を迎えた。



#01 三人の天才

生きているのかさえ疑わしい木々の森は
変わることなき冬の童話の世界
そこに音楽がある


 すべての音楽家の故郷、そして、音域の神モトベンの聖地である、エダン。
 そこは音楽の海にほかならない。どこから生まれた調べであっても、最後にはエダンに行き着く。演奏の旅に出た音楽家たちも、時が来ればサケのようにエダンへ戻ってくる。
 当然だろう。いま飲みこんだ空気にも音符が記されているようなこの場所を、決して忘れることはできないのだから。
 大預言者キセが終末を告げた1628年からさかのぼること15年、当時10歳だったぼくはエダン音楽院に入学した。三男として生まれ、家を継ぐ必要もないぼくに、父は音楽の道を勧めた。エダンでも有数の貴族であるこの家に、ひとりぐらい音楽家がいなければ顔が立たないと考えたようだ。
 そうしてぼくは、当時エダンで最も尊敬されていたピアニストであるイアンセン・ピュリッツの前で入学テストを受けることになった。緊張で手が震えていたのを覚えている。そのとき父は、裏でとてつもない額のレッスン代を渡していたらしい。ぼくのお粗末な実力で、あのすばらしいピアニストに師事することになったのだから。
 そんなふうに平凡なスタートを切ったぼくとは違い、アナトーゼ・バイエルは入学当初から音楽院じゅうの話題になっていた。
 偉大な芸術家たちの多くがそうであるように、バイエルもまた、幼くして天才や神童と呼ばれてきた。彼には親も金もなかったが、イアンセン・ピュリッツ同様、当代きっての音楽家と呼ばれていたピュセ・ゴンノールが快く後見人となり、バイエルの教育を引き受けていた。
 ゴンノールは、バイオリンの演奏のみならず作曲においても大家と呼ばれていた。だが、晩年はバイエルへの嫉妬から悲惨な転落人生を送ることになる。

「今年の進級試験は二重奏とする。課題曲はどちらかが作曲してもよし、ふたりで作曲してもよし。楽器の構成も自由だ。各自気の合うパートナーを見つけるように」
 10歳で入学して以来、初めての進級試験だった。ぼくは普段からまあまあの成績だったし、友人も多いほうだったから、パートナー選びには困らないだろうと思っていた。
 ところが、ピアノ二重奏を念頭に置いていたぼくのところに、意外な人物がやってきた。
「ゴヨ・ド・モルフェだよね?」
 いま思い返しても、その目と表情は10歳の少年のものとは思えなかった。どことなく神経質で陰を感じさせるアナトーゼ・バイエル。ぼくたちが初めて話した瞬間だった。
 もちろん、かの有名な天才、神童のことはぼくも知っていた。でも口を利いたことは一度もなく、ぼくはなにも答えられずにいた。すると彼が、片方の口端を上げて嘲るように言った。
「へえ、大貴族モルフェ家のおぼっちゃんは、ぼくみたいな平民とは口もきけないってわけ?」
「そんなんじゃ……」
 ぼくは慌ててもごもごと答えた。バイエルはぼくの返事に興味はないとばかりに、いきなり楽譜を突きつけてきた。
「ぼくが作曲したソナタだ。バイオリンとピアノのための曲。きみにピアノのパートを弾いてもらいたいんだ」
 思わず楽譜を受け取ると、バイエルはそれを了承の意味ととったのか、ぼくの返事も待たずにくるりと身を翻して行ってしまった。
 ぼくはいま、本当にアナトーゼ・バイエルと話したのだろうか? しかも二重奏のパートナーに誘われた?
「へえ、あの生きた銅像みたいなやつが人としゃべるなんて」
「どうしてきみをパートナーに選んだんだろう、ゴヨ?」
 友人たちが寄ってきてあれこれ尋ねられたが、これといって返す言葉もなかった。ぼくにもわからなかったからだ。
 その晩、部屋に戻ってバイエルの楽譜をじっくり見てみた。そうするうち、うずうずして我慢できなくなったぼくは、ピアノの前に座って鍵盤を弾きはじめた。
 曲の最後の和音を弾いた瞬間、全身に衝撃が走り、涙がこぼれた。美しい曲だった。自分と同年代の少年が作ったとは到底信じられないほど。
 翌日、ぼくは食堂でバイエルを捜した。隅のほうでひとり食事をとっていたバイエルを見つけるなり、ぼくは楽譜を手に興奮した声で言った。
「やるよ。すぐに練習しよう。きみのバイオリンのパートも聴かせてよ!」
 だがバイエルは、まるでにらみつけるかのような視線を向けながら、冷たく言い放った。
「ぼくは音合わせなんかしない。試験の日までひとりで練習してくれ。一緒に演奏するのは、試験の日が最初で最後だ」
「え……?」
 二重奏なのに、音合わせもなしに試験に臨むなんて。バイエルは正気なんだろうか。ぼくは思ったが、バイエルのとてつもない自信を前にそれ以上踏みこめなかった。ぼくにもプライドというものがあったのだ。
 結局、ぼくたちはそれぞれ練習し、進級試験の当日に初めて一緒に演奏することになった。
 それは不思議な体験だった。
 バイエルと呼吸を合わせるのは思ったより難しくなかった。ルバート[*奏者が自分なりの解釈で、テンポに縛られることなく自由に演奏すること]の部分で、バイエルがピアノとちぐはぐなテンポをはさんだりはしたものの、適度なアドリブといった程度だった。初めて合わせたにしては、ほとんど完璧といえる演奏だった。
 けれどそれは、二重奏というより、ピアノを伴奏としたバイオリンの独奏というにふさわしかった。本人は百も承知だろう。ぼくの予想どおりなら、バイエルがそう仕組んだのだから。
「パーフェクト! すばらしい。ふたりとも合格だ」
 ぼくとのレッスンで一度も満足そうな顔をしたことのないイアンセン・ピュリッツ先生は、その日初めてぼくにほほえみかけた。
 ぼくは胸くそ悪い気分をどうにもできず、試験が終わるなり楽譜を持ってさっさとホールをあとにした。すると、バイエルが追いかけてきた。
「気に入ったよ。今後もぼくと組まないか」
「いやだね。ぼくはきみのお飾りじゃない」
「へえ、さっきまでおとなしく演奏してたやつの言葉とは思えないな」
 ぼくは我慢できず、くるりと振り返った。
「きみはぼくと二重奏をしたんじゃない! ぼくを伴奏に使っただけだ。きみの腕は認めるけど、そんな態度は許せない」
「こっちだってきみの腕に満足してるわけじゃないさ、貴族のおぼっちゃん。そんな実力でイアンセン先生に教えてもらえてるなんて、やっぱり金の力は偉大だな」
「うるさい!」
 バイエルはことさらに寛大な笑みを浮かべて言った。
「演奏のときの姿勢が気に入ったんだ、ゴヨ。ぼくがテンポをずらしても、きみは楽譜どおりに弾いてた。ほかのやつなら、中途半端にぼくのペースに合わせようとして、演奏を台無しにしてたはずだからね」
「ひとつも嬉しくないよ。きみのその偉そうな態度におとなしく付き合ってくれる伴奏者がいいなら、ほかを探してくれ、アナトーゼ・バイエル」
 ぼくは背を向け、バイエルもそれ以上は引き留めなかった。ぼくたちの出会いは、そんなふうに後味悪いものだった。
 傲慢な態度は癪に障ったけれど、バイエルのあの美しい音色は到底忘れられるようなものではなかった。ぼくはときどき、バイエルの楽譜を見返しては、あの日の二重奏を思い出していた。

 そうやってバイエルとの演奏に思いを馳せながら過ごしていたある日、またも意外な人物が声をかけてきた。
「ゴヨ・ド・モルフェ!」
 その声に喜びが満ちていたため、ぼくは一瞬、友だちなのかと思った。
 トリスタン・ベルゼ。男女を問わず、エダン音楽院で最も人気のある生徒だ。平民の出だが、貴族家の子どもたちとも仲が良いという噂を聞いていた。
「ぼくになにか……?」
「おっと、すぐに本題に入るのもいいけど、まずはちゃんとあいさつしよう」
 にこにこと笑いながら手を差し出す彼の第一印象は抜群だった。初対面の人に感じる気まずさをまったく感じない。よく知りもしないのに、またたく間に彼のことが好きになったぼくは、その手を握った。
「ああ……そうだね。よろしく。ぼくはゴヨ・ド・モルフェ」
「おれはトリスタン・ベルゼ。先に言っておくけど、おれはきみみたいな大貴族の生まれじゃない。ただの平民だ。平民は嫌い?」
「そんなことあるわけないよ」
 ぼくはすかさず答えた。トリスタンはにっと笑って、肩を組んできた。内心驚いたものの、いやな気はしない。そのままトリスタンに導かれるままに歩きはじめた。
「よし、じゃあきみが知りたがってる話をしよう。じつはね、今度の新年演奏会で一緒に演奏してくれる人を探してるんだ。バイオリンはもういて、ぼくはチェロ。きみにはピアノを弾いてもらいたいんだけど」
「トリオ? 新年演奏会ってもしかして……カノンホールで毎年開かれるあれのこと?」
「そうそう。そのとおり。これがどういうことかわかる? この年齢でカノンホールに立つってことが!」
 カノンホール。すべての音楽家が望んでやまない夢の殿堂。選ばれしマエストロだけが独奏できるという舞台。3年に一度の〈コンクール・ド・モトベルト〉もそこで行なわれる。
 そこで演奏できるチャンスが訪れるなんて、にわかには信じがたかった。
「本当にそんなことが?」
「ああ、そうだよ! 本当のことを言えば、ぼくは脇役だけどね。カノンホールから招待されたのはぼくじゃなくて……」
 トリスタンは、到着した先のドアを開けた。
 そこに誰かが座っていた。まるで肖像画を描かせている人のように、バイオリンを膝にのせてじっとこちらを見つめている。
「アナトーゼ……バイエル?」
「また会ったね、ゴヨ」
 カノンホールが特別に、音楽院の学生を新年演奏会に立たせることにしたのには理由があった。彼らの目的は、最も注目を集めている奇跡の神童、アナトーゼ・バイエルだった。
 しかし、まだ年端も行かない少年にカノンホールで独奏させるのはやりすぎだと考えたのか、主催者側は学生数名からなる室内楽団を結成するよう命じた。光栄にもそのメンバーに、ぼくとトリスタンが選ばれたのだ。選んだのはバイエルだったが。
「楽譜はもう準備してある」
 バイエルが楽譜を差し出した。ところが妙なことに、以前のような傲慢でいやみったらしい態度はなかった。さらには、音合わせなどやらないと言っていたバイエルが意外なことを口にした。
「じゃあ、一度やってみようか。楽譜を見たばかりだけど、いけるかな、ゴヨ?」
「え、音合わせをするの?」
 訝しげに問い返すと、トリスタンがくすくす笑いながらぼくの背中を叩いた。
「当然だろ。別々に練習するっていうのか? おもしろいやつだな」
 ぼくが理解できないという顔で見つめると、バイエルは視線をそらし、淡々と言った。
「トリスタンとぼくは、すでに一度合わせてみたんだ。無理なら次回に――」
「できるよ」
 ぼくはやっきになってピアノの前に座った。深呼吸をし、ひととおり楽譜に目を通してから、すぐに鍵盤を弾きはじめた。途中で一度つっかえそうになったものの、最後までミスなく弾き終えた。
 どうだ、という目でふたりを見ると、トリスタンは口笛を吹き、バイエルはこくりとうなずいた。
「よし。じゃあすぐに始めよう」
 その日の練習は思ったより楽しかった。毎回、即興でさまざまなテクニックを入れてくるバイエルは、まさに天才と言うしかなかった。
 それに比べ、トリスタンのチェロは意外にも平凡だった。アナトーゼ・バイエルが真っ先に選んだメンバーなだけに、エダン音楽院のもうひとりの天才なのではと期待していたぼくは、多少がっかりせずにはいられなかった。トリスタンは自分の音を際立たせることより、全力でバイエルの引き立て役に回っていた。
 そんなトリスタンを見て試験のときの自分を思い出したぼくは、なんだかいやな気分になった。けれど、それ以外はとても充実した練習だった。
「次の練習はいつにする、アナトーゼ?」
 チェロをケースにしまいながら、トリスタンがバイエルにやさしい声で訊いた。トリスタンがアナトーゼと名前で呼ぶことに、ぼくはまたも驚かざるをえなかった。
「まだ練習が必要?」
 バイエルは気乗りのしない態度で訊き返しながらぼくを見た。ノーと答えてほしそうな様子だった。だがぼくが答える前に、トリスタンがバイエルの肩を叩きながらほがらかに言った。
「合ってないとか、練習が足りないってわけじゃない。練習が楽しいから言ってるんだよ。そう思わないか?」
「……そうかな」
 バイエルはさほど同感していない様子だったが、結局、2日後にまた集まることになった。
 ぼくはようやく、アナトーゼ・バイエルを動かせる唯一の人間がトリスタン・ベルゼなのだとわかった。理由は定かでないが、バイエルはトリスタンにどこまでも寛大だった。しかも、トリスタンと一緒のときはぼくへの態度もやさしくなるのだ。でも、トリスタンがいないときのバイエルは、すれ違うときですらぼくには見向きもしなかった。
 そうして練習を重ねるなかで、初めはバイエルの天才性に驚いた。しばらくするとそれは嫉妬に変わり、最後には尊敬となった。
 ぼくの直感が言っていた。バイエルは、バイエルの音楽は永遠のものだと。

「緊張で震えてる」
 トリスタンが真顔で言った。ぼくも同じだというようにうなずいて見せた。
 とうとう新年演奏会の日がやって来た。ぼくたちはカノンホールの控え室で、緊張に身を震わせていた。いや、正しくはぼくとトリスタンが。バイエルはまるでいつものことだというように、いや、今後これが日常になることが決まっているかのように、落ち着き払ってバイオリンを調律していた。
「うんざりするほど練習したんだから、ミスするなんてことはないだろうね」
 バイエルがぼくに向かって静かに言った。ミスでもしたら、おまえを殺してやると言わんばかりに。
 バイエルの言いたいこともわかったけれど、ぼくだって、カノンホールでの初舞台を台無しにするつもりはなかった。ぼくたちの出番が近づくにつれ、緊張は気合に変わっていった。
「次ですよ」
 カノンホールのオーナー、レナール・カノンが控え室に入ってきて言った。稀代の楽器製作者J・カノンの末息子は、すがすがしい顔立ちと温かみのある人柄で慕われていた。レナール・カノンが、人好きのする微笑を浮かべてぼくたちを励ましてくれた。
「そんなに緊張しなくていい。きみたちならうまくやれるよ」
 そこから舞台までどうやって歩いていったのかは思い出せない。気がついたときには、すでにエダンで最上のピアノの前に座っていた。バイエルはカノンホールから提供されたバイオリンを断り、自分のものを手に席についた。トリスタンのほうは見る余裕もなかった。
 カノンホールの手厳しい観客が、しばしざわめく声が聞こえた。切羽詰まっていたぼくにも、"バイエル"とつぶやく声がいくつも聞き取れた。
「やってやろうぜ。ゴヨ、バイエル」
 演奏の前に、トリスタンが力強い声で言った。こんな状況でそんなことを言えるトリスタンの性格がうらやましかった。ぼくは胸がどきどきして、鍵盤を見下ろしただけでめまいがしそうだというのに。
 そのとき、ふとバイエルのつぶやく声が聞こえた。
「……いない」
 ぼくはハッとしてバイエルのほうを振り向いた。だがバイエルは口をきゅっと引き結んだまま、弓を弦のほうへ運んでいた。
 さっきのは幻聴?
 ぼくは狐につままれたような気分でバイエルを見つめていたが、やがて視線を鍵盤に落とした。噓みたいに震えが止まっていた。ため息ともつかないバイエルの声が、ぼくを正気に戻らせたのだろうか?
 バイエルが足で舞台の床を蹴った。一度。二度。三度目でスタートだった。ぼくはバイエルの足が振り下ろされるのを見ながら、鍵盤に指を滑らせた。
 無我の境地とはこのことだと、その日初めて知った。
 ぼくの耳には、バイエルとトリスタンの演奏以外になにも聞こえなかった。その和音に自分の奏でる音を出来る限り調和させたいという思いしかなかった。しだいに気持ちが楽になり、胸のなかに音楽が満ちてきた。緊張やミス、大勢の人に見られているといった雑念は頭のなかから消えた。ぼくはひたすら美しい和音に酔い、無意識に指を動かした。この大切な舞台においてさえ新しいテクニックを入れてくるバイエルに多少驚きつつも。
 そうして演奏が終わったとき、ぼくは胸がいっぱいで、もう少しでみんなの前で泣き出してしまうところだった。音楽がこれほど完璧にひとつになる感覚は初めてだった。座ったまま必死で涙をこらえていたぼくを、トリスタンが舞台の前方に導いた。
 ようやく客席に目を向けることができた。たくさんの人たちがぼくたちに拍手を送っていた。ぎゅっと肩を押さえてくれているトリスタンの手がなかったら、ぼくは間違いなく大声で泣いていただろう。トリスタンもまた、感きわまった面持ちで聴衆にあいさつした。
 そんな幸せの瞬間にただひとつ理解できなかったのは、バイエルの表情だ。バイエルは無表情だった。平然と、なんの価値もないものを見るかのような目で客席を一瞥しただけだった。
「ずっと緊張しっぱなしで死ぬかと思ったよ。もしミスでもしたらって」
 控え室に戻るなり、トリスタンが興奮気味にまくしたてた。はた目には落ち着いて見えたのに、内心はそうでもなかったらしい。
 バイエルはふっと笑って、バイオリンをケースにしまった。とくに浮かれていたり興奮している様子もなかった。ただ自分のやるべきことをやっただけ、そんなふうに見えた。
「ゴヨ、すごかったよ。あんまり自分の世界に入りきってるから、おれたちの音を聴いてないんじゃないかって不安になるくらいだった」
 トリスタンの言葉にどきりとしたが、ぼくはとっさに手を振って言った。
「そんな、ちゃんと聴いてたよ」
 それは噓ではなかったが、自分の世界に浸っていたのも事実だ。ぼくの演奏についてなにか言ってくれないものかと視線を向けたが、バイエルは興味のなさそうな顔をしていた。
 そうして控え室を出ようとしていたとき、レナール・カノンがやってきた。
「みごとだったよ。観客の反応もとてもよかった。小さな紳士方、このあとのパーティーにぜひ参加してくれないか?」
「パーティー? ぼくたちはそういうのは──」
 バイエルが言いかけたが、すかさずトリスタンがバイエルの足を踏んで割りこんだ。
「もちろんです! お呼ばれします!」
 レナール・カノンがいなくなると、トリスタンがバイエルをたしなめるように言った。
「ばかだな。重要なのはパーティーじゃなくて、そこに来る人たちだよ。なにせ、今日の新年演奏会に出演した人たちが全員参加するんだから!」
 なんてこった。ぼくは開いた口がふさがらなかった。今日の演奏者のほとんどが、エダンでマエストロと呼ばれる人たちだった。そのなかにはぼくが最も尊敬するピアニスト、オーレン・バオもいた。
 その日のパーティーで、ぼくたち3人にはそれぞれ特別な出会いがあった。バイエルは当代随一のバイオリニスト、クリムト・レジストから大きな関心を寄せられ、およそ一年後、彼の養子となる。
 ぼくは生涯心の師と仰ぐことになるオーレン・バオとあいさつを交わし、トリスタンは……彼の人生を奈落の底へ突き落とす、ある女性と出会うことになる。

 その日の帰り道、偶然バイエルとふたりきりになった。トリスタンがいないと、バイエルはやはり口を利かなかった。
 新年を迎えて間もなかったその日の晩、エダンには白い雪が音もなく舞い落ちていた。雪のなかを歩いていたぼくは、さっきまでの興奮が信じられないほど冷めきっていた。
 バイエルのバイオリンケースがコトコト立てる音を聞いたとき、ぼくはふと気になって尋ねた。
「さっき……演奏が終わったあと、どうしてあんな顔をしてたの?」
 普段のぼくなら絶対に口にしない、そして普段のバイエルなら絶対に答えなかっただろう問い。バイエルはしばらく黙って歩いていたが、なにを思ったのかふっと顔を上げて素直に答えた。
「いないから」
 やはり、演奏の直前に聞こえたバイエルのつぶやきは幻聴ではなかったようだ。
「いないって、誰が?」
「誰も」
 ぼくはバイエルの言いたいことがわからなかった。あんなにたくさんの観客がバイエルの目には見えなかったというのだろうか?
「ひとりも」
 バイエルはぼくが問い返す前に自分から言葉を継いだ。ぼくは疑問に思いながらも、黙ってバイエルの話に耳を傾けた。
「あれだけの席が観客で埋まってた。でも、聴衆じゃない、ただの観客だ。どんなに探してもひとりもいなかった。ぼくの曲を理解してくれる人、ぼくの言っていることをありのままに感じてくれる人、本当の意味でぼくの音楽を聴いてくれる人……。あそこにもいなかった。ぼくはその〝ひとり〟に会うためだけに演奏しているのに」
 一瞬、胸の内に大きな動揺が走ったが、ぼくはそんなそぶりを見せないように努めた。バイエルはまた普段どおりに戻り、口を固く閉ざしてぼくには目もくれずに歩きはじめた。
 けれど、たしかにバイエルは、その日初めてぼくに心の内を打ち明けた。そのときのぼくには、バイエルの苦悩がどれほど深いものなのかまではわからなかったけれど。

 ともかく、その日からぼくにもひとつの目標ができた。彼の”唯一の聴衆”になること。
 ぼくは彼の曲をじゅうぶんに理解し、愛し、聴いていると思っていた。でも、どんなに努力しても、彼の求める唯一の聴衆になることはできなかった。
 どんなに望んでも。

 その後バイエルとは、それ以上つかず離れずの微妙な関係が続いた。
 バイエルへの尊敬と、彼の唯一の聴衆になりたいという熱望がぼくのなかでどんどん膨らんでいく一方で、バイエルはぼくのことをたんに自分の伴奏者として――それ以上でもそれ以下でもなく――接した。それに比べ、トリスタンはバイエルとすべてを共有するほど近しい関係にあった。
 ときどき、トリスタンがうらやましく思えた。彼だけが、人嫌いのバイエルの唯一の友人だった。
 無邪気な子ども時代と思春期を過ぎ、エダン音楽院を卒業したぼくたちは、晴れて青年になった。言葉遣いもぐっと大人びた。
 バイエルは歴代最年少の16歳でド・モトベルトの称号を授かり、すでにエダンにおいて伝説のバイオリニストになっていた。それまでド・モトベルトだった彼の師であり養父でもあるクリムト・レジストに、「ついに真のド・モトベルトがあるべき地位に納まった」と言わしめたほどだ。
 トリスタンにも、優れたチェリストになる資質はじゅうぶんあった。だが彼はひとつのことだけに入れこむのではなく、楽しみながらいろんな楽器に触れていた。チェロやピアノやギターを弾くだけでなく、絵を描いたり詩を書いたりもした。
 だがトリスタンがなにより好んだのは、社交界を渡り歩きながら人々と交流することだった。彼の話術と、誰もが心を開かずにはいられない持ち前の雰囲気、日増しに秀麗さを増していく容姿のおかげで、社交界での彼の人気は右肩上がりだった。平民であるにもかかわらず、貴族たちはトリスタンをこぞってパーティーに招待した。
 そして年月が過ぎ、22歳にして3連続でド・モトベルトの栄誉を獲得したバイエルは、天才音楽家たちがそうしてきたように、他国の都市へ演奏旅行に出ることになった。最年少でド・モトベルトになってからというもの、他の追従を許さない当代きってのバイオリニスト。そのほか、バイエルの名を彩るあらゆる肩書きからしても、その演奏旅行はすでに成功したも同然だった。

 出立の日、ぼくはトリスタンと一緒にバイエルを見送った。ぎこちないしぐさで手を差し出したバイエルは、トリスタンにがばっと抱き締められてしばし面食らっていた。
 続いてバイエルが目の前に立った。なにを言うべきかわからずたじろいでいるぼくに、彼は言った。
「帰ってきたとき、もし上達してなかったら、トリオから外すからな」
 それからくるりと背を向け、少しの未練もなさそうに馬車に乗った。そして一度も窓の外を見ることなく去っていった。
「行っちまったな」
「行っちゃったね」
 バイエルの姿が見えなくなってからも、トリスタンとぼくはしばらくその場を動かなかった。トリスタンが首をかしげながら言った。
「わからないよなあ。ここは音楽の都エダンだ。観客なんざほっといてもいくらでも来るだろうに。あえて演奏旅行に出る理由ってなんなんだ?」
「それは、バイエルの言う唯一の人を見つけるためじゃないか。エダンにはいないみたいだし」
 なんの気なしに答えると、トリスタンは目を見開いて言った。
「唯一の人? なんのことだ?」
「……知らないのか?」
「アナトーゼに秘密の恋人でもいるってことか?」
 ぼくは慌てた。バイエルが垣間見せた心の内を、トリスタンも当然聞いているものと思っていたのだ。だが、彼はなにも知らない様子だった。
 気が咎めたが、その事実が嬉しかったぼくは、自分だけの秘密にしておきたくて話をはぐらかした。

 バイエルは3年後に戻ってくるものと信じていた。3年後に次の〈コンクール・ド・モトベルト〉が開催されるからだ。それとなくではあるが、バイエルの口から、自分が生きている限り誰にもその座を譲らないという言葉を聞いたことがあった。
 バイエルが帰るのを待つあいだ、ぼくは彼が残していったひとことを胸にピアノを弾きつづけた。実力は日一日と伸びていく一方で、作曲はそれを後押ししてくれなかった。どんなに一生懸命曲を書いても、バイエルにもらった楽譜に比べれば、それらは取るに足らない音符の組み合わせに過ぎなかった。
 結局、バイエルが戻ったら驚かせてやろうという決意は重圧となり、ぼくは疲弊し、ついにはひどいスランプに陥った。
 しばらくピアノに近づかず、いくつかあった演奏会も辞退して家に閉じこもっていた。母はそんなぼくを不甲斐なく思ったのか、毎日のように小言を浴びせてきた。
「アナトーゼ・バイエルとかいう平民出のバイオリニストは演奏旅行で大活躍しているというのに、あなたはいったいなにをしているの? メルデンの闇市じゃ、彼のチケットが元値の10倍で売られているというじゃない。それだけじゃなく、あらゆる都市の貴族と有力者たちが、彼を引き留めておくために大金を積んでいるとか。彼はいまや、唯一のド・モトベルトと呼ばれているのよ。なのに、あなたは? あなたのおかげでそこまでのぼりつめた恩知らずのバイオリニストがこれほどもてはやされているというのに、あなたはいったいなにをしているの?」
 母の小言とバイエルの活躍は、ますますぼくを憂鬱にさせた。友人の成功を喜ぶべきだとわかっていたが、どうしても自分と比べてしまうのだった。いまのぼくは、彼の伴奏さえできない気がした。彼の唯一の聴衆になりたいと思う自分にも虫唾が走った。
 ぼくは初めて、バイエルから自由になりたいと思った。

「なんだ、作曲で忙しいなんて大噓じゃないか」
 ある日のこと、庭にぼんやり座っていたぼくは、久しぶりに嬉しい声を聞いた。
「トリスタン……きみか!」
「こうして会うのがいつ以来か知ってるか? 3カ月ぶりだぞ、つれないやつだな」
 なんということだ。それほどの時が経っていたことにも驚いたが、3カ月もピアノを弾いていないなんて信じられなかった。
 憎らしげに言いはしたものの、トリスタンはすぐに笑顔になってぼくを抱き締めた。
「てっきり作曲に専念してるのかと思ってたよ。邪魔したくなかったから来るのを控えてたんだ。そこへ昨夜、おまえのお母上から手紙を頂戴してね。それを読んで初めて、おまえが深刻な状態にあると知ったんだ。だから、朝一番にこうして駆けつけたってわけ」
 母がトリスタンにそんな手紙を……。ぼくは恥ずかしくて頭をかくばかりだった。
 トリスタンと向き合って腰かけ、使用人にお茶を運ばせた。トリスタンは薄く笑みを浮かべ、心配そうな視線を向けながら口を開いた。
「で、どうしたんだ? アナトーゼに会いたくて熱でも出たか?」
 ぼくはため息をついてから、堰を切ったように話しはじめた。自分の才能への不信、バイエルへの劣等感、母からのストレスなどをとりとめもなくまくしたてた。トリスタンにならなにを言っても許されそうな気がした。
 トリスタンはときどき相槌を打ったり、小さくうなったりしながら、ぼくの話を最後まで聞いてくれた。そして、かぶりを振った。
「才能あるふたりが出会ったんだ、そういう危うさはつきものだよ。良きライバルとして才能を磨き合う関係になれれば一番だが……それが難しいことはわかってる。よし、そういうことなら、とっておきのものをやろうじゃないか」
「とっておきのもの?」
「なにも訊かずに、今日の午後5時半、モンド広場に来てくれ」
「急になんだい?」
「なにも訊くなって言ったろ」
 それじゃああとで、と言ってトリスタンは去っていった。ぼくは不意打ちを食らったように茫然として時計を見た。まだ午前11時を少し回ったところだった。
 それまでどう時間をつぶそうかと悩み、ふとピアノを振り返った。少しためらいながらも、ピアノの椅子に座ってみた。長いあいだ閉じられていたふたに手をのせると、切なさが胸に広がった。勇気を出してふたを開ける。
 ああ……。
 ピアノの鍵盤を指でゆっくりと撫でながら、ぼくは涙をこぼした。どうしてこの感触を忘れていられたのだろう。E、F、G……一音ずつ鍵盤を鳴らす。それから和音をつくり、それに伴奏を合わせ、ピアノを弾きはじめた。
 積もり積もった悲しみと苦悩と痛みが、いっきに鍵盤へと注ぎこまれた。あるときは鍵盤が壊れそうなほど力強く、あるときは赤子をあやすようにやさしく指を動かした。Eフラットマイナーから再びCマイナーへ、その旋律は自分でも予測のつかないほどめまぐるしい変化を繰り返した。
「ゴヨ……ゴヨ……ゴヨ・ド・モルフェ!」
 完全に没頭していたぼくは、はっと驚いて指を止めた。いつからそこにいたのか、母が心配と苛立ちの入り混じった顔でぼくを見つめていた。
「6時間も弾きっぱなしよ。腕が折れるまで弾くつもりなの?」
 驚いて時計を見た。もう5時だった。慌てて使用人に馬車を表へ回すように命じた。
 御者を何度も急かしたおかげで、遅れることなくモンド広場に着いた。広場の北にある時計塔を確かめたぼくは、もどかしい気持ちでトリスタンを待った。
 モンド広場は、いつものようにアマチュア奏者たちで賑わっている。トリスタンが来るまで、近くにいたバイオリニストの演奏を聴いた。折しも、バイエルの最も有名なレパートリーである『ムー・デム・イノックス』だった。
 バイエルの足元にも及ばないことは言うまでもなく、懸命にバイエルのテクニックを真似する様子に、ぼくは笑いをこらえられなかった。
 ほどなく、時間ぴったりにトリスタンが現れた。
「よし、それじゃあ、のんびり行ってみるか」
「ああ、ちょっと待ってて」
 ぼくはコインが数枚入っているだけのバイオリンケースに、100フェール紙幣を入れた。バイオリニストはちらりとぼくの顔を見ると、感謝を示すようにぺこりと頭を下げた。ぼくも会釈を返してから、トリスタンのあとを追った。
「やっぱり金持ちのおぼっちゃんは違うねえ。モンド広場でその紙幣を出すやつはいないよ」
「ふうん……そんなものかな。そうだ、もしもバイエルが変装してここで演奏したら、ケースにいくら集まると思う?」
「うん? ははっ、そりゃおもしろそうだ。アナトーゼが戻ったら一度やらせてみようじゃないか」
「やめたほうがいい。いくらきみでも絶交されるぞ」
 ぼくたちはそんな冗談を交わしながらモンド広場を出た。そして、さわやかな緑の香りが漂う砂利道に入った。
 左右に街路樹が立ち並ぶその道を歩いていると、気持ちがほぐれていくのを感じた。行き先は知らなくても、トリスタンは間違いなくぼくをすてきな場所へ導いてくれていると確信できた。
「さあ、ここだ」
 驚いたことに、その先には大邸宅があった。エダンでこれほどの邸を所有している人は数少ない。
 ぼくの知る貴族や資産家たちを順々に思い浮かべ、それまで一度も訪ねたことのなかったある人の名を思い出した。
「イエナス・ド・ガフィル侯爵か」
「なんだつまらない、もう当てちまったのか」
 トリスタンはそう言いつつも、まんざらでもないという顔で門を叩いた。使用人に案内され、ぼくたちはきれいに手入れされたアプローチを通ってなかへ入った。なかから音楽が聞こえてきていた。
「まさか、サロン演奏会でもあるのか?」
「ただのサロン演奏会じゃない。ここは最近、エダンで一番人気の社交場なんだよ。エダンの有名な音楽家だけでなく、詩人、美術家、役者、それ以外にもたくさんの大物が集まってくる場所だ」
 ぼくは呆気にとられた。エダンの社交界でトリスタンがもてはやされているとは知っていたが、こんな所にまで顔を出すようになっていたとは。ふと、尊敬の念さえ浮かんだ。
 ぼくたちは間もなく2階のサロンへ案内された。サロンのドアが開くと、まるで舞踏会を楽しむかのように、シャンパングラスを手に歓談している人々が見えた。片隅ではぼくもよく知る音楽家たちがピアノやチェロ、フルートを奏でている。
「まさか、あれは……9つ指の奇跡、ポール・クルーガー? チェロを演奏してるのは……シュテンベルグ先生?」
 ぽかんと口を開けたまま奏者たちを見つめていたぼくの前を、肖像画1枚にじつに2000フェールの値がつくという役者が通り過ぎていった。
「ここはいったい……」
 呆気に取られているぼくの背中を、トリスタンがポンと叩いて言った。
「さて、今後はおまえもここの客だ。ほかでもない、イエナス侯爵の令夫人、ガフィル夫人のサロン。エダンで最も魅力的な場所のね」
 サロン内に流れるやさしい音楽、なんともいえない上品な香り、エダンが誇る天才たちの笑い声。
 その天国ともいえるような場所で、ぼくは初めてガフィル夫人に会った。

 夫人はぼくより3つか4つほど上かと思われるあでやかな女性だった。気品あふれるオーラと、奥ゆかしい微笑がこのうえなく美しい。そのうえ、彼女の知識は芸術のみならず政治、社会など多岐にわたっていた。
「ようこそ、ゴヨ・ド・モルフェ。お話はトリスタンからたっぷり伺っています。でも、残念ながらまだあなたの演奏を聴いたことはないのです。いかがでしょう、失礼にならないようでしたら、今日ここでわたくしたちのために演奏していただくというのは?」
 ガフィル夫人が提案すると、近くにいた人たちがぼくに注目した。ああ、悪い冗談であってほしい。こんな大物たちの前でぼくの未熟な腕を披露するなんて。
 トリスタンに助けを求めようとしたが、彼はすでにほかの友人たちに囲まれていた。ぼくは覚悟した。
「夫人がそうおっしゃるのなら……まだまだ未熟者ですが、精いっぱい演奏させていただきます」
 みなが見つめるなか、ピアノの前に腰かけた。これほどの緊張は、カノンホールで演奏して以来だ。深呼吸しながら、なにを演奏しようかしばし悩んだ。
 頭に浮かぶのはただひとつ。さっきまで6時間ものあいだ休むことなく弾きつづけた曲。
 ピアノの音が流れると、入り乱れていたサロンの雰囲気が徐々に静まっていった。ぼくが演奏しているメロディは、言うならばバイエルへのもどかしさを込めたものだった。胸の奥に押しこめてきた、彼の唯一の聴衆になりたいという思い。だがそうなれないことへの果てしないもどかしさ。
 この音楽が、どこにいるかもしれないバイエルに少しでも届くなら。
 完全に自分の世界へと入りこんだぼくの耳には、ピアノの音以外になにも聞こえなかった。そうして数分余りの演奏が終わると、突然大きな拍手が響いてきた。
 照れ笑いしながら立ち上がると、なんとポール・クルーガーが歩み寄ってきて手を差し出した。彼の四本指の右手を驚異をもって見つめていたぼくは、その手をしかと握った。
 そうしてぼくはサロンの一員となった。
 そこは、身分を問わず、才能ある人たちに開かれた場所だった。ある日、ぼろをまとって食べ物にがっついていた男が、突然ケーキをぐちゃぐちゃに崩しはじめるという光景を目撃した。どこからか忍びこんできた浮浪者がこの貴重な時間を台無しにしなければいいが……。だがそんなぼくの心配をよそに、人々は興味深げにその様子を見守っていた。
 驚いたことに、男はぐちゃぐちゃにしたケーキで、祈りを捧げる婦人像をつくり上げた。あっという間の出来事だった。ケーキの割れ目は、服や指などの細かい線を形づくっているではないか。ぼくは開いた口がふさがらなかった。この世はなんと多様な才能にあふれているのだろう。
 ぼくはこのサロンで、多くのひらめきや刺激を受けた。大家たちの朗読する詩から楽想を練ることもあれば、モンド広場で見かけそうなパスグラノたちと一緒に演奏することもあった。それは思ったより愉快な経験だった。スランプは、そんなふうに少しずつ薄らいでいった。
 そしてこの頃から、エダンのいたる所で、さらにはガフィル夫人のサロンでも、預言者キセの終末論がささやかれはじめたのだ。



#02 楽器オークション

天才と超現実は奇妙な磁力で引かれ合う
彼が氷の木の森の話を持ち出したとき
ぼくはそんなことを思った


 あれから3年が過ぎた1628年。その頃エダンを支配していたのは、音楽と終末論だった。
 通りにはいつものように騒がしいパスグランが流れ、屋内では高級感のあるマルティンが奏でられていた。互いに排他的な二つの音楽が調和を織り成す唯一の場所、それはエダンの中心にあるモンド広場だ。
 モンド広場では、さまざまな種類の音楽とともに、こんなささやきが聞こえてくる。
 キセは詐欺師だよ。そう言うのはマルティノだ。
 いや、キセは本物の預言者だ。バスグラノが言い返す。
 キセは預言にかこつけて平民たちを煽り立て、貴族政治に首を突っこもうとしてる機会主義者に過ぎない。これは貴族たちの言いぶんだ。
 キセが言うには、1628年の終わりには、貴族という貴族は終末を迎えるらしいぞ。おずおずとそうつぶやくのは平民たちだ。
 だが、世間でどんな話が行き交っていようと、ぼくの関心はバイエルがいつ戻るのかということだけだった。〈コンクール・ド・モトベルト〉が開かれるのは秋のことで、いまはまだ一月だというのに。
 雪の降るある日、窓の外を眺めながら、ぼくはトリスタンとお茶を飲んでいた。
「今度はずいぶん南のほうへ下ったそうだ。こりゃあいよいよ戻ってくる気がしないな。なんにせよ、戻ってきたらただじゃおかないぞ。演奏する手はあっても、手紙を書く手はないっていうんだから」
 トリスタンが拗ねたように言った。バイエルは3年間、手紙ひとつ寄こさなかった。ぼくたちは、バイエルが滞在しているという街へときどき手紙を送っていた。だが返事はなく、手紙を読んでいるのかさえ怪しかった。
「それはそうと、バイエルがもしコンクールに出ないとなると……今回ド・モトベルトになるのは誰だろう? またクリムト・レジストかな?」
 ぼくが言うと、トリスタンは首を振った。
「あのお方は参加しないそうだよ。もう年をとりすぎたからって。バイエルの前例があるから、今回も若手が選ばれるんじゃないかというのが社交会の見立てだ」
「若手か……」
 注目を集めている新人をひとりひとり思い浮かべていると、トリスタンがいたずらっぽい顔でじっと見つめてきた。
「なんだい、その目は?」
「にぶいやつだなあ、その若手のひとりがおまえだよ」
 その言葉に、思わず腰が浮いた。
「なにを言っているんだ。ぼくみたいなのがド・モトベルトになったら、コンクールの名に傷がつくよ」
「でも、このところエダンでもずいぶん名を上げてきてるだろう。演奏の依頼もあとを絶たないじゃないか」
「ハッ!」
 ぼくは一度頭を抱えるようにしてから、言った。
「バイエルがいなくなって、エダンは人材が尽きたようだね。ぼくみたいなやつまで候補に挙がるなんて」
「そんなに自分を卑下するなよ、ゴヨ。どちらにせよ、おまえもコンクールに出るんだろう? 違うか?」
 トリスタンにそう言われ、返す言葉に困った。
「それは、経験になるからだよ……。自分の演奏をたくさんの人たちに聴いてもらえるし……。でも、ぼくはド・モトベルトになりたいわけじゃない」
「やれやれ、お母上の話をもっと心して聞くべきだな。欲を出さないと。それがおまえとバイエルの一番大きな差だってことがわからないのか?」
 その言葉は、思った以上にぼくの心に突き刺さった。トリスタンはそんな波紋を投げておいて、突然話題を切り替えた。
「それよりゴヨ、今度カノンホールで大きな楽器オークションが開かれるらしいんだが、興味あるか?」
「オークション? カノンホールで?」
「J・カノンの名器をはじめ、数100万フェールはする楽器の数々が出品されるそうだ。そのオークションに参加するために、早くも各都市から金持ちが集まってきてる」
「オークションか……」
 参加してみたかった。ちょうど、いいピアノがほしいと思っていたところだったのだ。いまのピアノは子どもの頃から使っているもので、もうずいぶん古い。
「行きたいけど、母上がなんて言うか。最近は、そんな体たらくならピアノなんてやめてしまいなさいと言っているぐらいだから」
「すっかり忘れてるようだが、おまえの親はひとりだけではないだろう」
 トリスタンの言葉に、ぼくはようやく思い出した。最後に会ってから1年も経っていた……父を。

 モルフェ家は代々、エダンと隣り合うアナックス王国の財政を任されていた。
 数千万フェールという巨額の金が日に何度も往来する場所。父はそこの責任者で、ふたりの兄も父の仕事を手伝っていた。桁違いの数字を扱う仕事をしているせいか、父は家計のことには無関心だった。
 ともかく、王室からもらう俸給も恐れ多いほどなのに、聞く話によると、裏で動いている金額はその何倍にもなるらしかった。おかげでわが家はエダン一の金持ちと言われていた。

父上

 冒頭にそう書いてから、長いあいだ悩んだ。どんなふうに切り出せばいいか想像もつかなかったのだ。父と交わした言葉は、ひとつひとつ思い出せるほど数少ない。
 それでもどうにか、長い時間をかけてやっと手紙を書き上げた。ひとことに要約すれば、「お金をください」という手紙を。
 父のいるアナックスの首都カトラまでは馬車で数時間の距離だったが、忙しい父のことを思えば、オークションまでに返事が届かない可能性もあった。
 だが驚いたことに、返事は翌朝に届いた。

  愛する三男坊、ゴヨへ

 封筒に美しい筆記体でそう書かれているのを見た瞬間、恥ずかしくも涙がこぼれてしまった。父から愛しているなどと言われたのは初めてだった。
 ぼくは震える手で封筒を開いた。

 ゴヨ、おまえから手紙をもらうのは初めてだな。
 家のことに構えないわたしを許しておくれ。それも家族を思ってのことだと言っても、つまらない言い訳にしかならないだろうが。
 最近はカトラまでおまえの噂が聞こえてきているよ。立派なピアニストになったようだな。おまえを音楽家に育てることにしたのは、わたしの生涯で最も誇れる決心のひとつだ。
 聞くところによると、次のド・モトベルトの有力候補だそうだが、それはきっと、わたしにごまをすろうとする者たちのおべっかだろう。わたしはおまえに、そんな期待をかけて負担を与えたくはない。大切なのは、自分の幸福を守ることだ。
 それから、ゴヨ。
 わたしは一度もおまえにとって温かい父親でいてやれなかったが、その代わり、自慢の息子が望むものくらいは買ってやれる。
 同封した小切手を使いなさい。次に帰ったときには、新しいピアノでわたしにも演奏を聴かせておくれ。

 いつでもおまえを愛している父より

 ぼくはしばらく、手紙を抱き締めたまま静かに泣いた。添えられていた小切手の金額欄は空白になっていた。
 だが、ぼくはそれ以上に価値あるものをもらった気分だった。

 父から手紙をもらった1週間後、ぼくとトリスタンはカノンホールで開かれる大規模なオークションに参加した。トリスタンはカノンホールのオーナーであるレナール・カノンとも昵懇の仲だったため、最上席をふたつとることができた。
 オークションの開始前、ぼくたちはその日の品目をざっと見て回った。ぼくは3台あるうちの、真ん中にあった黒いピアノにすぐさま心をつかまれた。
 レナール・カノンに許しを得て、鍵盤にさわらせてもらえることになった。音はどれもすばらしかった。隣にあった茶色いピアノのほうが音に深みが感じられる気がしたが、ぼくはやはり、すっきりした音を出す黒いピアノにしようと心を決めた。
「おれが思うに、茶色のほうがいいんじゃないか、ゴヨ。これは……やはりJ・カノンの作品か」
「でも、黒いほうが好きなんだ」
「うーん。クリスティアン・ミヌエルの作品か……。なに、そっちも悪くはないが」
 クリスティアン・ミヌエルはJ・カノンの弟子だった。J・カノンは彼を弟子に迎えるとピアノ作りから手を引き、すべてを託した。だが、クリスティアンはJ・カノンから受け継いだ技術が熟す前に、23歳という若さで不慮の事故により亡くなってしまう。
 そのため、クリスティアンの名前がついたピアノは、この黒いピアノを含めて2台しかない。もう1台は、カノンホールに提供されていた。
「でも、ゴヨ。J・カノンの名器が自宅にあることを想像してみろよ。これはすごいことだぞ」
 トリスタンは諦めきれない様子だったが、ぼくは首を振った。
「いくら父上の小切手があるからといって、そんな大金は使えない。J・カノンのピアノなら、間違いなくとてつもない競りになるはずだよ」
「そもそも、音楽家は楽器に金を惜しまないものだ。それに、こんな機会はおそらく二度とない。オークション史上、J・カノンの名器がこれほど多く出品されるのは、きっとこれが最初で最後だぞ」
 カノンホールの創立者であり、稀代の楽器製作者として名を馳せたJ・カノン。彼は自身の作った楽器を未来のド・モトベルトたちに献呈してくれと息子たちに言い遺したが、彼らは約束を守らなかった。
 末息子のレナール・カノンだけが楽器の相続を放棄し、代わりにカノンホールを受け継いだ。おかげで、このすばらしい建築物がほかの人の手に渡ることだけは防げた。残りの兄弟はJ・カノンが亡くなって30年となるこの日、父親の遺した楽器のほとんどをオークションに出品した。
「わたしも父の作品を勧めたいね、モルフェ君。金持ちは展示品のように家に置いて自慢するだけだ。そんな人たちの手に渡るなんて我慢ならない」
 レナール・カノンが悲しげな面持ちで言った。父親の遺品がこんなふうに売りさばかれるなんて、どんなにつらいだろう。ぼくは、急に老けこんだように見える彼を黙って見つめた。
 そのとき、がやがやと人の声が聞こえた。また別の楽器を運んでいるようで、その様子からしてずいぶん貴重なものらしい。となると、きっとJ・カノンのバイオリンだろう。
 J・カノンの作品のなかでも、バイオリンはどれもこのうえない出来で、それだけ値も張った。
「おい! 気をつけてくれ!」
 レナール・カノンがそちらのほうへ走り寄りながら叫んだ。普段は誰よりもおとなしい彼があれほどやきもきするものとはなんだろう?
 ぼくとトリスタンは顔を見合わせて言った。
「どうやらあれのお出ましのようだな?」
「まさか……J・カノンのイントゥルメンタ?」
 J・カノンのイントゥルメンタとは、彼が作った楽器のなかでも最高峰とされる4つを指す。
 彼は生前、自分の魂を砕き、それでバイオリン、チェロ、ビオラ、ピアノを作ったという。そしてその四つの楽器にだけ特別な名前をつけた。黎明、黄昏、薄明、早暁。
「どれどれ……見えそうで見えないな」
 トリスタンが黒い布で覆われたガラスケースをなんとかのぞき見ようとしながら言った。
 胸が高鳴った。もしもピアノの〈早暁〉が出品されたなら、ぼくは父に借金をさせてでも自分のものにしたかった。だが、(父にとってはさいわいなことに)ピアノやチェロにしては小さすぎる。バイオリンである黎明は消失したというから、どうやらビオラだろう。
「今日破産する人はひとりじゃ済みそうにないね」
「おれはガフィル夫人に賭けるよ」
「夫人もいらっしゃるのかい?」
「知らなかったのか。夫人は楽器に目がないんだ。そばでイエナス侯爵に止められなかったら全財産をつぎこんでしまうだろうな」
 ぼくは首をかしげた。
「でも、夫人は演奏しないじゃないか」
「ああ、そうとも。ご自分のためじゃなく、サロンにやってくる音楽家たちのためにだ。まったくすばらしいお方だよ」
 ぼくはやっと合点がいった。そうでなくても、ガフィル夫人のサロンにある楽器に感嘆していたところだったのだ。

 ついにオークションが始まった。
 初めはベマのハープやギニフのトロンボーンなどで人々の関心を引きつけ、続いてヘモンガルトの傑作チェロで会場をしばらく狂乱の渦に巻きこんだ。
 名も知らないある紳士が500万フェールでそれを落札すると、ざわめきが起こりはじめた。早くもこの調子では、J・カノンの作品が登場したときなにが起こるか想像もつかない。
 続いて、初めてJ・カノンの名器が運ばれてきた。さっき見た茶色のピアノだった。買いたい気持ちがないわけではなかったが、700万フェールまで競り上がったところであきらめた。ピアノは最終的に、950万フェールで恰幅のいいどこかの金持ちに落札された。
 そっとレナール・カノンの顔をうかがうと、彼はこちらが申し訳なくなるほど沈鬱な顔をしていた。
 そしてとうとう、ぼくが待ちに待った黒色のピアノが出てきた。J・カノンのものとは比べものにならないが、彼の一番弟子だったクリスティアン・ミヌエルが手がけたピアノは、思いの外値段が吊り上がっていった。それは、彼が手がけたピアノがこの世に二台しかないという希少性もあるのだろう。
 150万フェールで落ち着いたところで、ぼくは静かに手を挙げて200万フェールと告げた。もう手を挙げる者はいなかった。
「おめでとう、ゴヨ。最初の演奏はもちろんおれに聴かせてくれるよな?」
「残念だけど、父上が先だよ。いつ戻られるかはわからないが」
 トリスタンのいたずら半分の言葉に、ぼくはにこりと笑いながらそう返した。
 小切手に200万フェールと書きこんで係の者に渡すと、彼はモルフェ家のサインに一瞬驚いた顔をした。ぼくは楽器を邸に運ぶよう頼み、自分の席に戻った。
 その間に、J・カノンの名器がまたも登場していた。
「400万! ガフィル夫人、400万をご提示になられました。おお、後ろの殿方は450万!」
 初めてガフィル夫人の名が飛び出すと、ぼくとトリスタンは後ろを振り向いた。使用人をひとりだけ連れた彼女が凜として座っていた。ぼくたちに気づいた夫人はほほ笑み、ぼくたちも会釈を返した。
「500万! マエストロ・レジスト!」
 バイエルの養父の名が挙がると、ぼくは驚いて振り向いた。内心、マエストロがそれを競り落としてバイエルに贈ってくれたらと思いながら。バイエルならJ・カノンの名器を奏でるにじゅうぶん値する。
「ああ……殿方が手を挙げられました。600万です。マエストロ?」
 ガフィル夫人の後ろに座っていた見知らぬ紳士が手を挙げると、司会者は脂汗を浮かべた。彼は相当な大金持ちのようだった。すでにヘモンガルトの傑作チェロとベマのハープも買っている。
「楽器ミュージアムでも建てるつもりらしい」
 トリスタンが低くぼやいた。結局マエストロは残念そうな微笑を浮かべて首を振り、J・カノンのバイオリンまでもがその紳士の手に渡った。
 あっという間に数時間が経っていた。オークションに出された品々のほとんどが落札されていったが、トリスタンとぼくが待っている品はまだ登場していなかった。
 いまかいまかと待っていたぼくたちの耳に、ついに司会者がこう言うのが聞こえた。
「さて、本日最後の品です。おお……これをなんとご紹介すればいいでしょうか。いや、このひとことに尽きるでしょう。イントゥルメンタ。J・カノンのイントゥルメンタのひとつ、〈黎明〉です!」
 黎明!
 まさか、消失したはずでは?
 信じられないというように、黎明とつぶやく声がそこかしこから聞こえてきた。多くの人々が席を立ち、入り口のほうを見つめた。
 黒いベールに包まれ、ゆっくりと運ばれてきた小さなガラスケースを見つめる人々の目には、驚愕と驚異の色がにじんでいた。
「まさか……黎明が。黎明……? 黎明とは!」
 トリスタンはガラスケースに釘づけになったまま、われを失ったようにつぶやいた。それはぼくも同じで、トリスタンをからかう余裕もなかった。
 そろそろと運ばれてくるケースを、みなが視線で追った。とうとうそれが舞台にのぼると、四方からため息が漏れた。
「でも……でもあれは……どういうことだ? あれは演奏できないじゃないか」
 誰かのつぶやきが聞こえてきた。ぼくも同感だった。
 あれがどんな名器だとしても、J・カノンの魂そのものだとしても、演奏することはできない。
 司会者はハンカチで汗をふいてから、震える声で言った。
「みなさま、このとんでもない楽器についてはよくご存じのことかと思います。J・カノンは存命の頃、世界で最も美しく最も優れた音色のバイオリンを製作しました。彼の言葉どおり、魂を込めて。ひとえに音域の神モトベンにのみ仕える、傲慢かつ魅惑的なこの名器を、みなさまの目でとくとご覧ください!」
 司会者が芝居がかった言い回しとともに手を振り上げると、脇にいた係がベールを剥いだ。
「あっ……!」
 ぼくは思わず声を漏らしたが、心のなかでは大きな悲鳴をあげていた。それはぼくだけではなかっただろう。
 真っ白だった。
 そんなバイオリンは見たことがなかった。よくよく見ると、やや色褪せたような灰色を帯びている。いったい何を塗っているのだろう? それとも、木そのものの色? あんな木が存在するのだろうか?
「……ほしい」
 隣でトリスタンがつぶやいた言葉に、ぼくも深くうなずいた。すでに小切手を使ってしまったことを後悔した。
 ぼくがバイオリンを演奏しようとしまいと、そんなことはどうでもよかった。どうせ誰も奏でられない楽器なのだから。でも、ほしい。頭では理由を見つけられないのに、心では途方もないほどそれを求めていた。
「この楽器の犠牲となったバイオリニストはおびただしい数にのぼります。J・カノンはあるとき、この楽器を封印し、秘密の場所に隠しました。そして30年の時を経て、黎明は再びここに登場したのです!」
 そう。30年ものあいだ黎明の行方は知れないままで、誰もが消失したものと思っていた。J・カノンみずから、亡くなる前に燃やしてしまったという噂もあった。
 黎明は、数多の音楽家の命を奪った罪深き名器だった。誰ひとりその原因を知らないが、黎明を奏でたバイオリニストはみな、数日のうちに肉が腐り果て、死んでいった。それにもかかわらず、ひと目見れば誰もが弾きたくなる魔力を秘めていた。
 あるとき詩人リーツが、黎明が仕えるのは音楽の神モトベンだけだと述べて以来、それが伝説となったのだ。
「では、100万フェールから」
 初値が100万フェールとは。司会者の言葉に、ぼくは苦笑いするしかなかった。
 最初はみな、圧倒されたかのようになかなか手を挙げなかった。果たしていくらと言えばいいのか。
 ふと後ろを振り向くと、ガフィル夫人は目に涙をため、うつろな顔で黎明を見つめていた。だが、夫人は手を挙げはしないだろう。楽器を展示して眺めるようなことは我慢ならないだろうから。
「誰もいらっしゃいませんか? ああ……500万フェール」
 ガフィル夫人の後ろにいた紳士がまた手を挙げた。何者かわからないが、どうか彼の手に渡らないようにとぼくは願った。
「マエストロ・レジスト、700万フェール」
 マエストロの顔も手に入れたいという欲望に満ちていた。おそらく全財産をつぎこもうとしているのだろう。
「1000万……フェール。1000万フェールが出ました」
 司会者の声も震えていた。初めて提示価格が1000万フェールを超えたのだ。隅にいた老貴族だった。
「1200万……1500万、あ、あちらから1800万……その後ろの方、2000万!」
 あちらこちらで、なにかに取り憑かれたかのように手が挙がった。この世にはこんなにたくさんの金持ちがいたのか? 場内の雰囲気はどんどん白熱していく。
「おれは夢でも見ているんだろうか、ゴヨ。席を立ちたいよ」
 トリスタンがぎゅっと眉をしかめた。同感だった。楽器ひとつをめぐって、みなが醜いほど欲望をむき出しにしていた。
「3000万! ああ……みなさん。どうか落ち着いてください。3100万! 後ろの方、3200万!」
 そのとき、ガフィル夫人の後ろに座っていた紳士が腰を上げて叫んだ。
「5000万! くそ食らえ、これ以上は誰も出せないだろう!」
 場内は水を打ったように静まり返った。光を受け、表面をゆらめかせているバイオリンを見つめるうち、ふとそれが笑っているような気がした。
 啞然として紳士を見つめていた司会者は、はっとわれに返った。
「5000万……。ほかにいらっしゃいますか?」
 場内の沈黙を破る者はいなかった。残念だが仕方ない。楽器ひとつにそんな大金はそうそう払えないだろう。それだけの財力をもつ人も多くはない。
 だが、そのときだった。
「5500」
 静かな声が会場の片隅から聞こえてきた。みなそちらを振り向いた。ぼくも振り向いて、様子をうかがった。
 5000万と言った紳士は新たなライバルを訝しげに見据えた。そんな大金を払えるようには到底見えなかったからだ。
 紳士が腹立ちを抑えるような声で言った。
「きみ、これがおふざけじゃないことぐらいわかっているんだろうな? 5500というのは本気か?」
「もちろん」
 相手は冷静に答えた。紳士は顔を赤くして息巻き、司会者のほうを振り返って絞り出すように言った。
「6000万。これで終わりにしようじゃないか」
 低い声が反撃するように応じた。
「7000万」
「おい、本当にそれだけの金があるのか見せてみろ!」
「あなたにお見せする義務はありません。ぼくはオークションの関係者とだけやりとりすればいいはずです」
 紳士は息巻きながらうなるように言った。
「わたしはジモン財閥の会長だ。きみが本当にそれだけの金を持っていると言うなら、わがジモン銀行のVIPに違いない。名を名乗りたまえ!」
 ついに紳士の正体が明らかになった。彼は全都市に支店のある巨大銀行を有するジモン財閥の会長だった。1000万単位の大金を管理できる場所といえば、ジモン銀行しかない。7000万と言った人物は本当にそこの顧客なのだろうか?
「それはちょうどいい。この場であなたに小切手を書いてもらえば済みますから」
 その人物は冷たく鋭利な微笑を浮かべて言った。
「アナトーゼ・バイエル・ド・モトベルト。お確かめください」


(翻訳:カン・バンファ)

☆続きは本編にてお楽しみください。


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