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フィンランドが幸福度ランキング3年連続世界1位のワケとは? これからを生き抜くためのフィンランド式生き方ガイド 『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』試し読み

3月22日、フィンランド出身で新進気鋭の哲学者がこれからの時代を生き抜くための『世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(フランク・マルテラ[著] 夏目大[訳])を刊行します。

ある朝起きて、あるいは夜遅くまで働いていて、ふと「人生は無意味だ」--そう感じたことが、誰もが一度はあるはず。人生を「意味のあるもの」「幸せ」と感じるにはどうすればいいのでしょう。本書ではフィンランド出身の若き哲学者であるフランク・マルテラがそんな人生の大きな課題にこたえてくれます。

著者は「幸せ」を追い求めることを人生の目的にせず、人生に「意味」を見出すことが重要だと説きます。実は人生の「意味」を見出す方法は、実は意外なほど簡単。本書は「幸せ」の源流から、「人生の意味」をなかなか見出せない理由、そしてこの複雑な現代社会で「人生の意味」を見出すために、いますぐ実践できる方法までを網羅し、まさに今を生き抜くための1冊です。

今回本書を試し読みでお届けします!お楽しみください📖

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はじめに

「人生は無意味だ」と感じたことはあるだろうか。あるとしたら、どういうときにそう感じたのか。代わり映えのしない味のコンビニ弁当をレンジで温めて食べながら、この弁当を食べるのも今週3度目だと気づいたときだろうか。それとも、夜中の2時に急ぎの仕事を終わらせてメールの送信ボタンをクリックしたあと、こんな仕事をしたところで世界は少しも良くならないと思ったときだろうか。人生を変えるような悲劇が起き、それをきっかけに、自分が本当は人生になにを求めているのか真面目に考えてこなかったことに気づく人もいる。ある朝、目を覚まし、浴室の鏡で自分の姿を見たとたん、急に自分の存在がバカげたものに思え、このちっぽけな存在にいったいなんの意味があるのか、などと考え始める人もいる。
 仮にそういうことがあったとしても心配はいらない──あなたは一人ではないからだ。この本では、多数の偉大な思想家たち、哲学者たちの言葉や考えに触れる。どの人も自分の存在の小ささを直視した人たちだ。だがその結果、人生を肯定するにいたった。人生の意味を取り戻すことができたのである。
 人間であれば誰もが、重要な存在、価値や意味のある存在になりたいと思っている。心理学者のロイ・バウマイスターも、私たちは「生まれつき意味を求める生き物」だと言っている。自分の存在に意味が感じられないのは、人間の心にとっては重大な問題だ。そのせいでうつ病になる人もいれば、最悪の場合には自殺してしまう人さえいる。人間が生きる意欲を持ち、幸福になるためには、意味がとても重要だ。生きるに値する人生を送っていると思えることが大切なのだ。
 いくつかの調査の結果から、自分の人生に目的があると強く感じている人ほど長生きをすることも明らかになっている。ホロコーストを生き延びた有名な心理学者、ヴィクトール・フランクルは、まさに強制収容所にいるときに、そのことを自分の目で確かめている。耐え難い状況に置かれながらも生きる目的を持ち続けた人だけが生き延びたのだ。フランクルはニーチェの「生きる理由を知っている者は、ほぼどのような人生にも耐えることができる」という言葉を好んで引用していた。
 問題は、特に今の西欧の社会では「人はなぜ生きるのか」という問いに満足に答えるのが難しくなっているということだ。
 実は、過去にはそうではなかった。かつてはどの文明にも確かな枠組みがあり、「生きる意味とはなにか」という人生における最大の問いへの答えもあらかじめ用意されていた。「自分の人生をどう生きるべきか」という疑問が浮かんでも、社会がその疑問に答えてくれた。社会の揺らぐことのない習慣、信仰、制度などが人を導いた。
 だが今は、かつて意味を与えてくれていた基盤が揺らいでいる。近代科学は、私たちの物理的な生活環境を大きく改善したが、同時に古い世界の価値体系を壊した。しかも、それに代わる価値や意味を与えてくれたわけでもない。スコットランドの哲学者で、道徳の歴史を研究しているアラスデア・マッキンタイアも言っているとおり、現代の西欧社会は相変わらず昔のままの価値観の上に成り立っているが、その価値観がもはや意味をなさなくなってしまった。古い価値観はそのまま受け継いでいるにもかかわらず、その価値観のもとになる大きな世界観は失われた。今、西欧の世界観は世俗化し、個人主義的になり、その影響は世界中に広まっている。
 現代の世界観では、自分の人生の意味は自分で自由に見つけていいことになっている。自分が選んだ価値観に基づいて、自分だけの生きる道を見つけていい。ただ残念ながら、自由を得たのはいいが、同時に虚しさを感じる人も増えた。ほとんどの人が、昔の人よりもよく働いているし、賢明で効率的な働き方をしているのは間違いない。しかし、なぜ、それほど必死に働くのか、その理由は見失ってしまっている。
 現代には、ティム・クレイダーが「忙しさの罠」と呼ぶ罠に進んでかかる人が多い。クレイダーはそのことについてこう言っている。「忙しさは、私たちに実存的な安心感を与えてくれる。忙しくしていれば、虚しさを感じにくいからだ。忙しさが続く限り、つねに予定が詰まっていて、一日中、なにかしらすることがある限り、人生はバカげたものにも、取るに足りないものにも、無意味なものにもなりようがない」
 忙しい状態、すぐになにかをしなくてはいけない状態を保つためなら、どんなことでもする。その状態が続けば、退屈は避けられるし、孤独に自分の思考と向き合う必要もない。自分が本当にしたいことはなんなのか、などと考えたくはないので、なにかの権威が生きる目的を与えてくれれば、喜んでその目的に向かって生きる、という人もいる。哲学者のイド・ランドウは「今夜どのレストランに行くか、どの映画を見るか、ということを真剣に考える人は多いのに、自分の人生をより意味あるものにするためになにをすべきかを真剣に考える人は少ない」と言う。それが現代人のおかしなところだ。
 自分の選択に従って人生を生きるには、自分で船を操縦するには、そもそも自分がどの方向に行きたいのかを知っている必要がある。また、人生の岐路に立ったとき、選ぶべき道を知るには、自分の中に核となる価値観が必要だ。まずは、これまでの人生についてじっくり考えてみよう。自分の人生に意味などないのでは、という疑問が心の中にずっとあるという人もいるはずだ。そういう疑問が少しでもあれば、目を背けることなく直視しよう。
 レフ・トルストイ、トマス・カーライル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、セーレン・キルケゴール、アラン・ワッツなど、歴史上の偉大な思想家たちの中にも、人生の不条理に直面し、自分の存在の小ささを受け入れたことではじめて自らを解放でき、人生に確かな意味を見つけることができた、という人たちが大勢いる。この本では、人生についての新しい考え方を提案したい。文化、宗教などの違いを超えて、あらゆる人に有効な考え方である。最後まで読めばきっと、より充足した、意味深い人生を送る方法がわかるだろう。
 私は、あなたがより意味深い人生を送る手助けをしたいと思っている。哲学、心理学、そして人生の意味の歴史について10年間、研究した結果、わかったのは、人生を意味深いものにすることは意外に簡単だということだ。誰の人生にも、意味深いものやことはたくさんある。あなたはただ、目を開いて、心を開いて、それを見て、感じればいいだけだ。人生の意味を見つけることを、決して解けない難題のように思いやすいのは、多くの人の世界観が古いままだからだ。そのせいで、時代が変わり、もはや意味をなさなくなった問いについていつまでも考えてしまう。必要なのは考え方を変えることだ。そうすれば、日常生活の中に答えを見つけられるようになる。
 この本では、まず、そもそもなぜ人間は人生の意味を探すのか、ということを考える。そして、なぜ現代人は人生の意味を見失って不安を抱えるようになったのか、どうすればもっと簡単に人生の意味を見つけられるのか、ということを考えていく。読んでいて、すぐには受け入れ難いこともあれば、今さらなぜこんな当たり前のことを書くのだろう、それならすでに知っている、と思うこともあるかもしれない。いずれにしても、読み終えたあとには、読む前よりも人生を肯定できるようになり、より満足のできる、意味深い人生を送れるようになるだろう。
 人は自分で望んで生まれてくるわけではない。誰かの許しを得て生まれてくる人もいない。誰もが、人生のマニュアルなど持たないまま、気づいたらこの世界にいて、限られた時間の中でなにか意味のあることをするよう求められる。あなたは手遅れになる前に、そのことに気づくべきだろう。映画『ファイト・クラブ』の中で、エドワード・ノートンが演じる〝僕〟もこう言っている。「これが人生だ。そして、この人生は刻一刻と終わりに近づいている」

第1部 人間はなぜ人生に意味を求めるのか

第1章 人生の不条理

 当たり前だと思っていた前提が突然崩れることはあり得る。私たちは毎朝、目を覚まし、路面電車に乗って事務所や工場に行ってそこで4時間ほどを過ごし、食事をし、眠る。月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日と毎日同じリズムで生活をする─同じことを繰り返すのに苦労することはまずない。しかし、ある日、頭に〝なぜ〟という言葉が浮かぶと、退屈だったすべてのことを驚きの目で見つめることになる。
─アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』[1942年]

 人生は不条理なものだが、私たちは普段それを特に気にしていない。アルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』ほど、そのことを雄弁に書いた文章はないだろう。実存主義文学の古典とも言えるこの文章の主人公は、古代ギリシャの神話に登場するシーシュポスという人物である。シーシュポスは神に逆らい、神の怒りを買ったために罰を与えられた。大きな岩を山の頂まで押して運ぶという労働を永遠に続けなくてはいけないという罰だ。山頂まで運び終えたとたん、その岩は転がり落ちてしまう。シーシュポスは転がり落ちた岩を再び山頂まで運び上げなくてはならない。それを永遠に続けるのだ。カミュは、このシーシュポスこそが不条理の英雄だと考えた。たとえば、映画『恋はデジャ・ブ』の主人公、フィル・コナーズは、シーシュポスと同じような境遇に陥った人物と言えるだろう。テレビで人気の気象予報士、フィル・コナーズは、2月2日の〝グラウンドホッグデー〟という天気占いの行事を取材するため、ペンシルベニア州パンクスタウニーという町に行く。ところがその後、何度、朝を迎えてもなぜか2月2日に戻ってしまい、時間が先に進まない。コナーズがなにをしても、その繰り返しは止まらない。コナーズは思い余ってついには自殺までするのだが、それでも同じ日の繰り返しから抜け出すことはできない。朝、コナーズが目を覚ますと、ラジオからは必ず同じ曲が流れる。そうして彼は、同じ町で何度も同じ日を生きる。彼が1日の間になにをしても、朝、目覚めるとまた同じ日に戻っているのですべてがなかったことになる。すべてが無意味なのだ。ヴァージン諸島に行ったことも、一人の女性と知り合ったことも、ロブスターを食べ、ピニャ・コラーダを飲んだことも、なにもかもが無意味だ。日暮れ時には、知り合ったばかりの女性と愛し合い、とても素晴らしい1日を過ごしたと思っていても、朝、目覚めるとまた同じ日に戻りなにもかもが幻になる。なぜ、何度も同じ日を繰り返さなくてはいけないか、とコナーズは思う。しかし、読者の中にも彼と同じような疑問を抱きながら生活している人は実は大勢いるのではないだろうか。時には楽しく過ごせた日があったとしても、結局はほとんど毎日が同じことの繰り返しで退屈をしていて、そこから抜け出そうとしても抜け出せない、そういう人は少なくないはずだ。
 あなたの人生を作るのは、当然、あなた自身だ。そして誰もが自分の人生にかなりの投資をしているだろう。だが、時折、この広大な宇宙にとっては自分の存在など、自分の人生など、ちっぽけなものだと気づかされることもある。自分はただ、偶然にこの世界に生まれただけで、生きていることに特別な意味などなにもないと気づくのだ。人生は価値あるものだと思いながらも、同時に自分の人生など無価値でバカげたものではないかと感じている。誰しもそういう大きな矛盾を抱えながら生きているのではないだろうか。哲学者のトッド・メイは「私たちは人生に意味を必要としているが、宇宙はなかなかそれを与えたがらないため、対立が生じている」と言う。自分のしていることの意味がわからず、また人生がなぜ生きるに値するのかがわからず、多くの人が困惑している。特に、社会や家族など、他者から与えられる枠組みを失ったとき──価値あるものとはなにかを教えてくれる枠組みを失ったとき、人は大いに戸惑うことになる。
 欧米諸国ではこの問題が近年、次第に大きくなってきている。
 社会学者のロバート・ベラーは、アメリカ社会を分析した名著『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』の中で、現代のアメリカではあまりに誰もが自己本位になってしまっており、その心の風景は実に平板で単調なものであると指摘した。なにを人生の目的とするか、どういう人生を良しとするかは現代のアメリカ社会においては、完全に「個人が自分だけで選択すること」だ。人々はもはや文化の強固な枠組みを失い、自分を導いてくれるものはなにもないと感じている。どう生きればいいかは誰も教えてくれず、自分でそれを考えなくてはならないと皆が思っている。まさに「神が存在しないのだとしたら、すべてが許されることになる」というジャン=ポール・サルトルの言葉どおりになっているのだ。
 2007年、アメリカのギャラップ社は132カ国の14万人以上の人を対象にした世界世論調査を実施した。幸福度や生活の満足度などについて国際的な調査をすると、豊かな国──つまり1人あたりのGDPが多い国──の人たちほど、貧しい国の人たちに比べて幸福度も生活の満足度も高いという結果が得られるのが常である。その結果は同じような調査を何度しても同じだ。ところが、「あなたは自分の人生に重要な目的や意味があると感じていますか」という質問への答えに関しては、これとは逆の傾向が見られた。世界中の人の91パーセントがこの質問には「ある」と答えたが、イギリス、デンマーク、フランス、日本といった豊かな国では、「ない」と答える人が比較的多かった。一方、ラオス、セネガル、シエラレオネといった貧しい国では、ほぼすべての人が、人生には目的や意味があると答えたのだ。そして、人生に目的がないとみなす人の多い豊かな国では、自殺率も高い。
 人生に意味や目的はあるかと考えることを不快に感じる人も多いだろう。それを考え始めると、突然、なんの疑問もなく受け入れていた日常が受け入れ難いものに変わってしまう。朝、目覚まし時計が鳴っても、昨日と同じような1日を始めることに耐えられなくなるのだ。昨日と同じように起き、支度をして出勤して忙しく働く、なぜそんなことをしなくてはならないのかと思ってしまう。どれだけ懸命に努力をしても、シーシュポスが山の上に岩を運び上げているのと同じで無駄になってしまうのではないか。それでもまた同じような明日はやってくる。
 だが実は、世界観の作り方によっては、そのような思いに逆らって人生に意味や目的を見出すことは不可能ではない。現代の科学は、宇宙の中で人間の存在がいかに小さいかを教えてくれる。しかし、自分の小ささを知った上でなお、自分の存在、自分の人生に価値と意味を感じ、幸福に生きることは可能なのだ。ただ、そういう話をする前にまず、人生に意味があるという私たちの観念はそもそもどのようにして破壊されたのか、という話をしよう。人生など無意味だという考えがどのようにして生まれてきたのかをまず知ってもらいたい。それを知れば、新たに人生の意味を見出すための一歩を踏み出すことができる。

第2章 宇宙的には取るに足りない

偶然の産物

 この世紀には、とてつもなく大きいものや、とてつもなく小さいものについて次から次へと驚くべき発見がなされ、地質時代がとてつもなく長かったことも明らかにされた。宇宙は巨大であり、原子内部のふるまいは不確定であることも知った。この宇宙の本質を数学の式にまとめてしまえることもわかった。こうしたことすべては、私たちが自分で思っているよりも大きく私たちを蝕んでいる。
─ジョン・アップダイク『進化を批判するエッセイ(Critical Essay on Evolution)』[1985年]

 すでに書いたとおり、広大な宇宙について調べて、そこに人間が存在する意味を見つけることは難しい。
 人間が存在する意味がわからなければ、自分の人生の意味もわからないというのはごく当然のことだろう。なにをしても無意味だ、バカげていると考えてしまっても無理はない。人生は無意味だと思い至るまでには、だいたい3つの段階を経るのではないかと思う。まず(1)自分の存在がちっぽけだと知る。そして、(2)自分の存在が永遠でないことを知る。そして最後に(3)どのような価値も目的も人間が気まぐれに考えたもので、普遍的なものなどひとつもないと悟る。ここで、3つの段階それぞれについてさらに深く考えてみることにしよう。自分が落ちた穴がどういうものかを正しく知れば、そこから出る方法もわかるはずだ。

自分の存在がちっぽけだと知る

 宇宙の歴史─実際には140億年ほどの長さだ──が24時間だとすれば、人類という種の進化が始まったのは午後11時59分45秒頃のことである。あなたの人生は1秒にも満たない短い時間ということになる。それだけ長い歴史を持つ宇宙から見て、一瞬で消えてしまう自分の存在に価値があるとはとても思えない。惑星は大きく、太陽と惑星が集まった太陽系はさらに大きい。そして無数の星々が集まった銀河はさらにとてつもなく巨大である。自分がそこでなにをしようと宇宙全体にはなんの影響もないと考えるのは自然だろう。アメリカの天体物理学者、ニール・ドグラース・タイソンは、「宇宙には、自分のことを人間に理解させる義務はない」と言っている。それはそうだろう。もし、そうでないとしたら逆におかしな話である。

 小さな点が見える。あれが、私たちのいる場所だ。私たちの故郷だ。あれが私たちだ。あの点の上で私たちは愛し合う。私たちの知るすべての人たち、名前を聞いたことのある人たちがそこにいる。そして過去に存在したすべての人たちもそこにいて、そこで生涯を全うした……太陽光線に照らされて漂っている埃のように見えるその場所で。
─カール・セーガン(1990年、ボイジャー1号が太陽系を離れる前に最後に撮影した地球の写真を見ての言葉)

 だが、かつてはそうではなかった。私たちの祖先は、地球をすべての中心だと信じていた。人間にとって神が最も大切であるのと同じように、神にとっても人間は最も関心を寄せるべき存在だった。どの土地の創世神話でも、人間は宇宙の歴史の中で最も重要な役割を果たす存在として描かれている。ところが21世紀に生きる私たちはまったく違う認識を持っている。天体物理学、宇宙論などの研究成果をよく知っているからだ。知りすぎたことが私たちにとって呪いになっている。私たちは今、科学が突き止めた厳しい現実を知っている。宇宙がどれほど大きいか、その歴史がどれほど長いか、それに比べて私たちの存在はどれほど小さく、生きる時間はどれほど短いかをよくわかっているのだ。
 人間の存在の大きさに対する認識は過去とは完全に変わってしまった。哲学者のトマス・ネーゲルは「私たちは果てしなく広がる巨大な宇宙の中では、ごく小さな塵のようなものだ」と言ったが、そういう結論に達するのは必然だったと言えるだろう。


自分の存在が永遠でないことを知る

 永遠だと考えていた何かをなくした者は、ついには何者も自分のものではないのだと悟ることになる。
─パウロ・コエーリョ『11分間』[2003年]

 私たちは皆、束の間の存在である。私たちの身体は年老い、病を得て、いずれは滅びてしまう。ばらばらに分解されてしまうのだ。ただし、死は私たちの肉体だけに訪れるものではない。私たちの肉体だけでなく、感情、知性もやはり一時的な存在である。すべては刻一刻と変わり、一時も同じままで留まってはいない。仏教徒は特に、この永続性をよく知っているだろう。仏教ではそれを「無常」と呼ぶ。あらゆる生命は一過性のものであり、絶えず変動していて、最後には消滅するという認識を持っているのだ。だが、仏教徒でなくても、現代人であればおそらく同じような考えを持っているだろう。そして、なにもかもがいずれ消えてしまうのだとしたら、自分がなにをしようがどのように生きようがそこに価値はないという虚無的な考えに陥ってしまいがちになる。


価値は気まぐれ

 公正であれ。そうあれない場合は勝手にやれ。
─ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』[1959年][鮎川信夫訳、河出書房新社、2003年]

 生命がそもそも偶然に生じたのだ、と認識すると、いずれ、どのような意図、目的にも、どのような価値観にも、結局は確かな根拠などないのだという考えにいたることになる。もちろん中には、ある原理や価値観を非常に真剣に受け止め、それによって人生における選択、行動が左右される人もいる。だが、果たしてその原理、価値観は、絶対的に正しいものと言えるのか。それとも単に自分が根拠なく気まぐれに正しいと信じているだけなのか、と問われたとしたらどうだろう。人間はどうしても、自分の価値観がこの宇宙の中でつねに正しいものだと信じたがる。だが、宇宙というものをよく知るにつれ、宇宙自体は私たち人間になんの価値も認めていないし、私たち人間にどのような意見も持ってはいないと悟ることになる。アインシュタインの相対性理論は、物事に意味や価値があるべきだとはいっさい言っていない。物理的な宇宙は、私たちの存在にも、私たちの考えにもまったく無関心なのだ。
 生命とは、言ってみれば自己複製の可能な物質の集まりだ。それは宇宙の歴史のどこかの時点で、まったくの偶然に生じた。そこには客観的な価値はなにもない。価値は本来、人間が自分で作り出したものだ。人間に価値観があるのと同じように、動物にもおそらくなにか好き嫌いのようなものはあるだろう。ただ、人間が他の動物と違っているのは、自らの価値観について考えをめぐらせ、それを言葉で表現できるということだ。私たちは紙に書かれた文字、言葉を認識できる。だが、どれも本当はインクの染みにすぎない。文字や言葉は、本当に人間の頭の中にしか存在しないのだ。人間が解釈しない限り、それにはなんの意味もない。価値や価値観にも同じことが言える。客観的な価値を持つものはなにもない。ただ人間がそれに価値を見出すだけのことだ。
 現代では、人生の目的も価値観もそれぞれの人が自由に選択すべきものだと考えられている。ただ、どの目標も価値観も、単に自分が個人的に選んだだけで、究極的には他と比べても絶対的に良いわけではないのだと考えると不安でもある。自分のものが永遠に、絶対的に正しいのだと思えなければ、自分の行動に価値があると思えない人もいるだろう。しかし、現代の社会からは、そのような目標や価値観は失われてしまっている。


後戻りはできない


 自分はこの宇宙に漂う青く小さな点の上に偶然に生じた有限の存在で、本質的になんら価値を持たない。そんな人生観を抱いて生きるのは憂鬱かもしれない。もちろん、「なにもかもが虚しい」とつねに考えながら日々を過ごす人は少ないだろうが、なにを見るときも、なにをするときもこの人生観に少しは影響されることになる。レフ・トルストイも、『懺悔』の中で「いったん知ってしまったことを知らないことにはできない」と書いている。人間の人生はこの広い宇宙の中では本質的になんの価値もないのだ、という考えに一度、目覚めてしまったら、もう二度とそれを完全に忘れることはできない。後戻りはできないということだ。だとすれば、もう前に進むしかない。幸い、このような認識を持ちながら、それでも楽しく努力、創造をし、喜びに満ちた人生を送る方法はある。意味のある人生を自分の手で作り出す方法は確かに存在しているのである。この本を読めばきっとそれがわかるはずだ。
 この問題に正面から向き合う人は少ない。ほとんどの人は、向き合うのを避ける道を選んでいる。また、問題から目をそらす逃避の手段も現代では高度に洗練されてきている。企業もその種の手段を積極的に提供してくれる。人生の不条理に向き合いたくないと思い、自分は絶対に向き合わないと決意すれば、そのようにして楽しく生きることは十分に可能だ。たとえば、SNSを活用するのもひとつの方法だし、簡単に手に入る娯楽も無数に提供されている。苦しいときにはセラピーを受けることもできる。広い宇宙の中で人間の存在は本質的に無意味だというような認識はあっても、それで即、つねに明確に自分の人生は無意味だと意識しながら生活する人はむしろ少ない。いちおうは人生の目標を定め、なんらかの価値観を持ちながら、それに漠然とした違和感や、誰かに否定されるのではないかという不安感を抱いて生きている人がほとんどである。特に物事が順調に運んでいるときには、自分の存在に対する疑いを抑制することはたやすい。問題は、物事がうまくいかなくなったときだ。人間関係や健康、仕事に大きな問題が生じたとき、人間はどうしても、なにか確かなものの助けを借りたくなる。自分の苦しみに意味を与えてくれるものはないかとつい思うのだ。しかし、結局は、確かなものなどなにもなく、自分の価値観にも絶対的な正しさはないと、さらに強く認識する結果になる。そういうときには、一時的な逃避など、もはやなんの役にも立たないだろう。
 現代の社会で、空虚を埋める手段、虚無からの逃避の手段としておそらく最も広く普及しているのは、「人は幸せになる義務がある」という考え方だろう。だが、幸せを追求しようとすると誰もがある矛盾に直面することになる。それについて次の章で話すことにしよう。

第3章 「幸福」という悲しき人生の目標


 幸せな人というのは、(私が思うに)自分の幸せ以外の何かに心を留めている人だけである。たとえば、他人の幸せや、人類全体の進歩、あるいは何かの芸術、仕事などを単なる手段としてではなく、究極の目的として追求している人は幸福だろう。自分の幸せ以外のことを心に留めていれば、そのことによって幸せを見つけることができる。
─ジョン・スチュアート・ミル『ミル自伝』[1873年]

 私たちの先祖には、渇望を癒やしてくれるような「大きな物語」があった。ところが現代の私たちはそういう物語を失っている。そして人間を、単に苦痛を避け、快楽を追求する存在だとみなすようにまでなってしまった。かつては、超越的な価値というものがあり、そのために人生を賭けるに値するような目的が存在すると思えたのだが、それが失われた今、空いた隙間を〝幸福〟が埋めるようになっている。
 現代の、特に西欧の社会では、幸福がなによりも優先すべき人生の目的となった。幸福は大きなビジネスを生んでもいる。2000年には、幸福をテーマにした本は50冊ほど出版されただけだったが、わずか8年後、その数は4000冊に近くなった。現在では、〝幸福担当役員=CHO(Chief Happiness Officer)〟と呼ばれる役職を置いている企業まで存在する。その名のとおり、社員に幸福をもたらすことを仕事とする役員だ。また、ソフトドリンクや香水などを消費者に〝幸せを届ける商品〟として販売する企業もある。
 政府までもが幸福に注目し始めている。世界の156カ国を、国民がどの程度幸福かでランクづけした〝世界幸福度報告〟が最初に発表されたのは2012年である。この報告に注目する人は年々増えている。南アジアの小さな王国であるブータンでは、1970年代以降、GDP(Gross Domestic Product=国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness=国民総幸福量)を増やすことを政府の目標としてきた。雑誌の記事から、書籍、歌、広告、マーケティング戦略などにいたるすべてが、GNHを増やすという目標達成に寄与するものになっている。現代においては、「今を楽しく生きる」という考えはもはや強迫観念に近いものだと言ってもいいだろう。幸福を追求することは個人の権利というだけでなく、個人の義務であると言う人もいる。
 英語のhappiness(幸福)という言葉は、「運」や「偶然」を意味するhapという古い言葉から派生したもので、元来は、「なにか良いことがあった」あるいは「物事がうまくいった」というくらいの意味で、心の中の状態が良好であることを意味する言葉ではなかった。イタリア語、スウェーデン語をはじめ、ヨーロッパの言語のほとんどで、英語のhappyにあたる言葉は、元来、単に「ついている」というほどの意味だった。たとえば、フィンランド語で、英語のhappinessにあたるのは、onnellisuusで、これもやはり、「ついている」という意味のonnekkuusという言葉から派生している。ドイツ語でhappinessにあたるのはgluckという言葉だが、これは今でも「幸福」と「偶然」どちらの意味にもなる。どうやら、もともと、英語においてhappinessというのは、「偶然の出来事」、人間が自分で操作できないもの、という意味合いが強いようだ。幸福になるかどうかは、神や運命の手に握られているというわけだ。
 チョーサーの『カンタベリー物語』の中では、修道僧が運(fortune)について「それゆえに、運(Fortune)の回転にはまったく信用が置けない/まったくの偶然(happiness)のせいで人間は悲しみに突き落とされる」と言っている。チョーサーが頭文字を大文字にして「Fortune」と書いているのは、これが神の手によるものであることを意味している。人間の行動や心の状態とはまったく無関係の、説明のつかない力がはたらいていることを表そうとしたのだ。ただ、ここで注目しているのは、あくまで外側の状況であって、心の内側の感情ではない。これは当時の文化が今ほど、人間の感情に重きを置いていなかったことの反映だろう。
 17世紀、18世紀と時代を経るに従い、happinessという言葉の意味も徐々に変わり、単に外側の状況が良いというだけでなく、心の内側の状態が良いことも指すようになってきた。トーマス・ジェファーソンがアメリカ独立宣言の「生命、自由、および幸福の追求(life, liberty, and the pursuit of happiness)」という有名な一節を書いたときは、おそらくまだhappinessという言葉には、「外側の状況の良さ」という意味合いが強かったと考えられる。その後、次第にこの言葉は、内面の状態の良さや、人生の全体としての良さを意味するようになっていく。
 言葉の意味合いが変わると同時に、人々の考え方や態度にも大きな変化が起きる。人は個人として幸福になるべきだ、幸福は人生において追求する価値のあるものだ、という考えが芽生え始めたのだ。アメリカ独立宣言にも書かれているように、幸福はかつては社会の目標だと考えられていた。しかし、特に1960年代以降、西欧の社会では、幸福は個人が自分の責任で追求するものという意識が強くなっていった。そして文化的には、幸福であるのは望ましいこととされ、人生の当然の目的であるともされるようになった。私たちが幸福を望むのは、社会が私たちに幸福になれと指示するから、ということである。その人がどの程度、幸福を感じているかで、人の良し悪しを評価する倫理観すら生まれている。幸福こそは現代の聖杯であり、私たちが努力して追い求めるべき理想とされるようになったのだ。
 ただ困ったことがある。幸福は結局、単なる感情なのだ。ともかく、自分の置かれている状況や、これまでの経験を良いものだと思うことができ、総じて満足していれば、その人は幸福だと言える。つまり、生きている中で不快な経験よりも快い体験を多くすれば、それで幸福になれるということだ。そうだとすれば、幸福は、人生に永続的な意味を与えてくれるものではないことになる。幸福を追求せよ、と言われても、単に不快なものを避ける行動を続けるだけの人間になる可能性は高い。
 世界の中には、個人の幸福にさほど重きを置かない地域、あるいは少なくとも最近までは重きを置いていなかった地域も多い。以前、中国のある心理学者と長時間、議論を交わしたことがあるが、その心理学者の話によれば、彼の親の世代は個人の幸福にまったく価値を見出していなかったらしい。むしろその逆だ。個人として不幸であるのは名誉の証とされていた。それは家族のため、または国家のために自らを犠牲にした証拠だというのだ。自分を犠牲にして他者に尽くすことは、その人自身が幸福を感じて生きることよりも価値があるとみなされていた。2004年に行われたある調査では、アメリカ、中国の両国で大学の学部生に「幸福とはなんだと思いますか?」という簡潔な質問をした。学生はその質問に対し小論文を書いて回答をすることになっていたのだが、それを読むと両国の文化の違いがよくわかる。アメリカの学生たちは、多くが個人の幸福の大切さを強調しており、それを人生の究極の目的だとしていた。中国の学生たちの小論文には、「個人の幸福が重要だ」「人生の目的だ」という言葉はまず出てこない。幸福の追求が人生の普遍的な目的でないことはこれだけでも明らかである。幸福の重要性は、その土地の文化によって大きく変わるのだ。
 幸福を追求すると、それが逆効果になることも珍しくない。幸福になろうとして、かえって不幸になってしまうことすらある。エリック・ワイナーの著書『世界しあわせ紀行』に、シンシアという女性の話が出てくる。シンシアは、引っ越しを考えていた。次に住むところに一生、住みたいと思ったので、どの地域に住めば最も幸福になれるかを事前に細かく検討した。彼女はまず、文化的に豊かな地域がいいと考えた。また、美味しい飲食店の多い地域、自然、できれば山が近くにある地域を望んだ。検討の末、シンシアが選んだのはノースカロライナ州のアシュビルだった。小さいが文化的に豊かな街で、山に囲まれていて自然が近くにある。ワイナーは彼女に、「このまま一生、アシュビルに住み続けるのか」と尋ねたが、シンシアは返事に迷った。アシュビルは確かに彼女の掲げた多くの条件を満たしているけれど、ここが本当に最良の土地かどうかはわからないというのだ。彼女はまだ良い場所を探していた。アシュビルに3年住んでも、まだ「ひとまずここに住んではいるけれど、良いところが見つかればすぐに引っ越す」と思っていた。シンシアと同じような問題を抱えている人は少なくないとワイナーは考えた。アメリカ人には彼女のように無限に幸福を追い求めていつまでも落ち着くことがない人が大勢いる。すでに幸福なのにもかかわらず、明日はもっと幸福になるのでは、もっと幸せになれる場所があるのでは、今よりもっと幸福な生き方があるのでは、と考え続けてしまう。つねに目の前に無数の選択肢があるため、どうしても1つに決めることができないのだ。ワイナーは「これは危険なことだと私は思う。私たちはどの場所も、どの人も本当に愛することができない。どこにいても、いつも片足をドアの外に出しているようなものだ」と書いている。
 ワイナーはシンシア以外にも何人もの人に話を聞いたが、どの人も、どこでなにをしていてもつねに最大限の幸福を得なくてはと考えていた。そのため、今、自分の目の前にあるもの、自分の持っているものが最良だとは思えなくなっていた。今のありのままの人生を楽しむことができなくなっていたのだ。人が自分の幸福を追求することの弊害はこれだけではない。もっと幸福にならなくてはと思うあまりに、人生を楽しめなくなるのも確かに問題だが、それ以外にも、すべての人が自分個人の幸せだけを考えるようになると、人間関係に悪影響が出ることも多い。実はこの人間関係こそが幸福の真の源泉であることが多いのに、それが損なわれてしまうということだ。誰しも生きていれば、どうしても辛いこと、苦しいことに直面するし、どうしてもそれに耐えなくてはいけないこともある。だが、人は誰もが幸福になる必要がある、という考え方が社会の中で優勢になると、不幸なとき、それに耐えて生きることが難しくなってしまう。人間はつねに幸福でいなくてはいけないのに、不幸になった自分は失敗した人間、ダメな人間だという意識を持つことになる。不幸はそれだけで重荷なだけでなく、二重の意味で重荷になるということだ。
 幸福を人生の究極の目的にしないとしたら、私たちはどうすればいいのだろうか。私たちにとって大切なものは、幸福以外にもたくさんある──たとえば、愛、友情、なにかを成し遂げること、自己実現など──どれも私たちを良い気分にしてくれるわけではないが、人生を豊かにしてくれる。どれもそれ自体に価値がある。たとえば、私たちが友情を素晴らしいと思うのは、友情によって良い気分の量が増えるからではないだろう。友情の価値は、特に困難な状況になったときに明確になる。重い病気にかかるなどの危機に直面して、助けが必要なときには、友情の大切さがよくわかるのだ。共に過ごして楽しいということだけが価値ではないだろう。良いときも悪いときも、お互いに人生を豊かにすることができるからこそ、友情は大切だ。人間は複雑なものである。単に良い気分になるだけでは十分ではない。それ以外にも必要なものはたくさんある。確かに幸福な気分になれるのは良いことだが、それを人生の究極の目的にしてしまうと、真に価値のあるものが多く失われ、人生の豊かさが損なわれる結果になるだろう。
 とはいえ、現代の私たちの社会で、幸福を目的にせずに生きるのは容易ではない。「人間は幸福になるべきだ」というメッセージが社会にあふれているからだ。たとえば、テレビをつけてみると──特にコマーシャルを見ると──ともかくあらゆる企業が、微笑みをたたえた健康そうで美しい人を使い、「この商品を買えば幸福になれますよ」と訴えてくる。しかし、どの人もニセ予言者のようなものだ。その言葉に決して騙されてはいけない。もっと幸せになりたいと思うあまりに、人生において大切なものを犠牲にしてはならない。幸福とは単なる感情であり、それ以上のものではない。なにか真に価値のあるものを手に入れたときには、その副産物として幸福感も得られることはあるが、その場合、重要なのは幸福感ではない。つまり、人生を真に価値あるもの、意味あるものにしたいのならば、単に幸福を追求して生きるのは良い方法とは言えないということだ。


幸福とヘヴィ・メタル:その複雑な関係

 フィンランドはおそらく、人口1人あたりのヘヴィ・メタル・バンドの数が最も多い国であり、また同時に政治の面では、世界の中でも特に優れた国のひとつと言えます。この2つの間になにか相関関係があるのかどうかはわかりませんが。
─バラク・オバマ大統領(2016年、北欧諸国首脳との会合でのスピーチ)

 フィンランドは、2018年、2019年の世界幸福度報告で共に1位にランキングされた。国民の生活への満足度のランキングを作ると、フィンランドをはじめ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランドといった北欧の国々が必ずトップ10に入る。特に社会の安定度、安全性、自由という面で、北欧諸国は際立っている。長い冬の気温は氷点下で、しかも、一日中暗闇に包まれてしまう街さえある。そんな中、フィンランド人たちはどうして幸せでいられるのだろうか。それには実はヘヴィ・メタル音楽が重要な役割を果たしているのかもしれない。
 ヘヴィ・メタルは総じて言えば評判の良い音楽ではない。しかし、フィンランドでは事情が違う。ポップ・ミュージックは元来、明るく楽しい音楽だが、ヘヴィ・メタルは暗く重苦しい。冬が暗く寒いことで知られるフィンランドには、人口1人あたりにすると、地球上のどの国よりも数多くのヘヴィ・メタル・バンドが存在している──10万人あたり63のバンドがある計算になる。フィンランドでは、ヘヴィ・メタルが音楽の王である。主要なラジオ局でかかる音楽もヘヴィ・メタルが多いし、カラオケ・バーでも多く歌われている。フィンランドで史上おそらく最も人気があったバンドは、チルドレン・オブ・ボドムだろう。チルドレン・オブ・ボドムは王の中の王と言える存在で、ヘルシンキからリオ・デ・ジャネイロまで、どこでコンサートを開催しても満員になる。暗く重苦しいヘヴィ・メタル音楽が国に幸福をもたらしているというのはなにか矛盾するようだが、それはフィンランドという国の抱える矛盾を反映しているようにも思える。
 2019年の世界幸福度報告の調査では、156カ国の人たちに、自分の現在の生活を10点満点で評価してもらっている。0が最悪で最高は10だ。フィンランド人はこの評価の平均スコアが世界で最高だった。この結果はまったく驚きではない。フィンランドの社会には他の国に比べて、生活の満足度を高める上で大切な要素が揃っているからだ。まず、日々の食べ物を得るのに苦労することはまったくない。社会サービスは充実している。政治的な抑圧はない。そして、政府への信頼度も高い。
 ただし、幸福というのは、生活に満足すれば得られるものではない。幸福というのはあくまで感情だからだ。生活への満足度ではなく、国民の持つ感情で幸福度を計ると、ランキングの様相は一変する。そのランキングでは、パラグアイ、グアテマラ、コスタリカという国々が上位に入る。フィンランドはトップから遠い位置にまで下がってしまう。ただ、この結果もさほど驚きではない。なにしろフィンランド人というのは、つつましく控えめで、感情をあまり表に出さないことで有名だからだ。内気なフィンランド人は人の靴を見て話をするが、陽気なフィンランド人もやはり人の靴を見て話をする、という古いジョークがあるほどだ。
 また各国のうつ病の罹患率を調べると事態はさらに複雑になる。たとえば、人口1人あたりの単極性うつ病の罹患者数を比べると、アメリカとフィンランドが共にトップ近くにランキングされることがある。もちろん、どの調査も完全ではないので、直ちに正しい判断ができるわけではない。時には、フィンランドのうつ病罹患率がヨーロッパの平均程度と評価される場合もある。だが、うつ病対策という点では、フィンランドが世界の中で特に優秀と言えないことだけは明らかだろう。矛盾するようだが、生活への満足度が非常に高いまさにその国で、多くの人がうつ病になっているのである。
 問題は幸福という言葉に明確な定義がないことだ。人間の感情とは複雑なものだ。生活に満足できたからといって、必ず感情が良くなるわけではないし、悪い感情がそれで消えるわけではない。うつ病にならないわけでもない。心の中が良い感情で満たされること(そして、それを表に表すこと)を幸福と呼ぶのだとしたら、おそらくフィンランドは幸福な国とは呼べないだろう。うつ病がないことを幸福というのなら、フィンランドは世界で最も幸福な国ではない。しかし、生活のための条件が総じて整っていることを幸福と呼ぶのだとしたら、フィンランドをはじめとする北欧諸国は確実に世界で最も幸福な国々ということになる。
 そして、フィンランドの人たちの幸福にヘヴィ・メタル音楽が重要な役割を果たしていることは見過ごせない。普段控えめでつつましく、それに誇りを持っているフィンランドの人たちにとって、ヘヴィ・メタルは精神を解放し、浄化する作用を果たしているように見える。大声で叫ぶことで、抑えつけられていた負の感情を外に出すことができる。カタルシスが得られるということだ。それは本人が自覚する以上に、重要な意味を持っている可能性がある。さまざまな感情を経験するのは、精神的な満足のためには良いことだが、負の感情──ヘヴィ・メタルにはそれを表現した曲が多い──を抑えつけるのはまったく良いことではない。また、負の感情がないのは良いことだが、実際にはあるものをないことにしてしまうと、結局は幸福が損なわれてしまう。負の感情を表に出すことを許容せず、それを抑圧するような文化は健全とは言えないし、人々の感情に必ず悪影響をおよぼす。あらゆる感情をいつもなんらかの方法で表に出せることが重要だ。ヘヴィ・メタル音楽は感情を表に出すための良い手段になっていると言える。雪に覆われた森の中で叫んでも誰も聴いていないのでは、と思う人がいるかもしれない。しかし、聴いている人がいるかいないかはこの場合どうでもいいことだ。それによって自分自身と自分の抱える感情を知ることができれば、楽しくもないのに無理に笑うよりも心にとってははるかに良い作用をもたらすだろう。


お金の問題ではない


 経済的に成功すれば幸福になれると思い込む人も多いが、それは間違いだ。皆がそういう考えを持つのは、企業や広告代理店にとってはありがたいことかもしれない。自分たちの商品を買えば幸せになれると言って、納得してもらえる可能性が高くなるからだ。これまでの研究でわかったのは、収入が増えることによって幸福度が即、上がるのは、もともとの収入が極めて低い人たちだけだということである。家賃も払えず、食べ物も買えず、最低限の生活すら成り立たない、という人たちの幸福度は、そうでない人たちに比べて確かに著しく低い。そういう人たちは、少しの収入を得るだけで幸福度が大きく向上するだろう。だが、生活にいちおう不安がない人の場合は、収入が増えてもその分だけ幸福度が上がるわけではない。収入がある水準を上回ると、それ以上の収入増加は幸福度をほとんど、あるいはまったく向上させないことがいくつかの調査で明らかになっている。また、最近の研究では、ある水準以上になると、収入の増加によって幸福度や生活への満足度がかえって低下することもある、という結果も得られている。
 北米では、収入が9万5000ドルに達すると生活への満足度が、6万ドルに達すると幸福度が頭打ちになるようだ。西ヨーロッパ諸国では、10万ドル、5万ドルがそれぞれ境界線になるらしい。そして東ヨーロッパ諸国だとその水準は下がり、4万5000ドル、3万5000ドルがそれぞれ境界線になる。先進国では経済の成長とともに、国民の収入は大きく向上してきたが、それが必ずしも幸福度の向上にはつながっていない。アメリカの社会心理学者、ジョナサン・ハイトはこの点について「先進国の多くでは過去50年間に富は2倍、3倍になったが、幸福度や生活への満足度はさほど変わっておらず、しかもうつ病が以前よりも多く見られるようになっている」と書いている。富が増えれば、最初のうちは確かに嬉しいと感じるものの、しばらくするとそれが当たり前の水準になってしまい、幸福感は消える。以前にはなかった新しい商品を手に入れて最初は快適さに喜ぶが、時間が経つと持っているのが当然になり、なにも感じなくなる。次の新しい商品が発売されるまではその状態が続く。誰もがもっと豊かに、もっと快適にと思い、上を求めてきりがなくなる。
 表向き物質主義や大量消費主義を否定している人は、物を手に入れることは人生の目的にはなり得ないと言いがちだ。誰かに尋ねられれば、自分はもっと大きな目的のために生き、行動していると答える人も多いはずだ。ところが人々の実際の行動を見ていると、本音は違うように思える。なかなか認めたがらないだろうが、実は大半の人がいわゆる〝ヘドニック・トレッドミル〟に乗っている。つまり、つねに今よりもう少しお金が、物が手に入れば、それで幸せになれると思っていて、いつまでも本当に満足することはない、という状態に陥っているのだ。チャック・パラニュークは小説『ファイト・クラブ』にこんなふうに書いている。「若者の中には男女問わず強者がいて、皆、何者かになりたいと思っている。広告は、こういう若者たちに、必要のない車や服を買うように仕向ける。いつの時代でも、彼ら、彼女らは自分が本当に欲しいわけでもないものを買うために、好きでもない仕事に懸命に取り組んでいるのだ」
 今や20億ドルもの規模になった広告産業はただ1つの目的のために動いている。それは、人々に「今の生活は間違っている」と感じさせることだ。今のままでは十分に幸せではないと感じさせるのだ。大量消費主義は、人々が今の自分の生活に満足し、「もうなにもいらない。もう欲しいものは全部持っているから」と言い始めたときに終わってしまう。それは、キリスト教から仏教まで多くの宗教が理想としている状態である。どの宗教も人々をその状態へと導こうとしている。しかし、宗教が以前のような力を失った現代では、人々がその状態に達するのを阻止するためのメッセージを発するのに何十億ドルものお金が使われている。
 現代はかつてないほど選択の幅の広い時代である。なにを買うにしても、競合する似たような商品が数多く売られている。そのせいで私たちは容易に罠にかかって抜け出せなくなってしまう。選択の自由があるのは良いこととされるが、あまりにも選択の幅が広いとかえって害になることもある。そのせいで一種の中毒状態になってしまうのだ。皮肉なことに現代では、選択肢が多すぎるために、誰も自分の選択に絶対の自信を持つことができない。選択をしなくて済むのならそうしたいと思う人も実は多いはずだ。心理学者のバリー・シュワルツはこの現象を「選択のパラドックス」と呼んでいる。私たちは選択の幅が広いことを良しとし、選択の幅が広がることを望む。しかし、あまりに選択肢が増えると結局、幸福感は減ることになる。昔の人は今の私たちほど、こうしたジレンマに悩まされることはなかった。飢えることはあっても、美味しそうな食べ物が多すぎてどれを食べていいか悩むということはまずなかった。
 日々、選択肢があまりに多すぎるという問題に対処するには、〝満足化〟という方法を採るといいだろう。これは、ノーベル賞を受賞した経済学者、ハーバート・サイモンが最初に唱えた方法で、シュワルツもこれに賛同している。満足化とは、ある程度以上、良いと思えるものが1つ見つかったら即、それを選ぶ、という方法である。それ以降はもう検討をせずに先へ進む。なにかを買うとき、決断を下すときに、細かいところまですべてを検討するわけではない。なにもかもが最良と思えるものが見つかるまで待つということはしないのだ。あまりに細かく検討をしてしまうとストレスもたまるし、かえって不満や後悔が大きくなる。それでは時間やエネルギーなどの資源を無駄遣いすることになるだろう。
 だが、広告の影響力は大きい。絶えず、これを買えば生活はもっと良くなると訴えてくる。それに対抗するためには、自分の心の中に確固たる指針を持っていなくてはならない。自分なりの価値観、人生の目標をしっかり持っていないと、この広告だらけの社会に振り回されずに生きることは難しいだろう。どうすれば自分の人生が意味のあるものになるのか、それを知っていれば大いに助けになる。そうすれば、派手に宣伝される高価な新商品を手に入れなくても、十分に満足のできる人生を歩めるはずだ。


続きは本書でお楽しみください。



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