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才能のカタチ

あいも変わらずノウイング認定プロアカシックリーダーの認定試験に向けて、受験資格であるレポート100セッション分目指して取り組んでおります。

よくある質問というのはやっぱりあって、「今世のテーマ」とか「誰かとの関係性」とか「避けられないイベント」とか。

そして「今世の自分に眠っている才能」というのもよく聞かれます。

自己価値が低い人にとっては聞きたいような、蓋を開けるのが怖いプレゼントボックスみたいな質問かもしれないなぁなんて思います。自分にはなにもないんじゃないかと。
で、聞いた後納得もすれば拍子抜けもすることもある質問なのではないかとも思います。

才能というと、なにかのスポーツセンスがあるとか芸術的才能がというはっきりしたことを期待する部分も多いのではないかと。

でもわたしが見ていて思うのは「才能」としてみえるのは気質や性質に近い感覚がするものかなと思います。
例えばわたしだと目に見えないものを捉えてそれを言語化すること、そしてそれを人に理解されやすい形で共有することも得意、という風に読んで戴いたことがあります。

確かにそれを聞いたときはなるほど!とそうそう!という両方の感覚でした。

わたしにとって話すときは大抵なにかビジョンを受け取っていて、それをなるべく齟齬がないように翻訳して口にしています。反射的に話すことも、なにか考えて話すこともないわけではないですが、まぁ大体はそんな感じです。

相手がいまひとつ説明に対して理解できなさそうなときなど、伝えたいと思うとビジョンが降りてきて、それを元に例え話をしたりすると、非常にわかりやすいとよく喜ばれたりしています。

そんなときはやっぱり嬉しかったり。
これが自分らしい才能で、それが人の役に立っているんだなぁと。

でもわたしも最初は「音楽の才能があります!」とか言ってほしかったですよ。で、言われないことで自分をダメなんだって責めたりけなしたりしていました。

ただ、気づいたのです。

才能があってもなくても自分が好きなものがあるんだということ。
才能があるということがそれをやってもいいという許可ではないこと。つまり才能がなくても、収入に結びつかなかったり誰かの役に立つことじゃなくても、ただ「好きだ」というだけで、やってて自分だけが楽しいというそれだけでそれをやってもいいこと。

才能ということばにやりたいことについての適性を求めたのは、単に許可が欲しかったのですよね。
もしくは失敗が怖かったか。
芽が出ないまま長い時間を浪費したという後悔が怖かったのだと思います。

でも本当は好きなことをやったなら、やっているだけで幸せなのだから後悔なんてないのですよね。
自分の好きだという気持ちから目を背けて大義名分を掲げるから辛くなったり許可が欲しくなったり自分を否定したくなったりするのだと思います。

もうひとつありがちな勘違いは、これは誰でもできる大したことないこと、才能なんかじゃないと思ってしまうこと。

わたしも注意されました。

「自分にとっての当たり前が当たり前じゃないんだよ。みんなが自分と同じようにできると思っちゃだめだよ」と。

だって、皆さん自分よりなんでもできて素晴らしいようにみえるのです。
だからまさか「こんなわたしなんかが」大した労もなくできることが他の誰かにとってはできないことなんて考えもしなかったのです。
単純に劣等感が強すぎて視野が狭くなっていたのでした。

ちなみに「わたしなんか」「わたしなんて」という無駄にへりくだったことばはしつこく染みついているので、意識して会話から排除するように努めています。

あなたは素晴らしいかけがえのない存在なのです。

みんなが自分の才能に目覚めて輝くのが見られたらわたしの幸せです。
今日もありがとうございます。

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