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ありふれた日常を宝石箱に変える方法

今日は体験のシェアです。
昨日さも自分が地に足の着いたスピリチュアルを生きているような、模索しているようなそんな記事を書きながら、今日の話題はいきなり

オーラについて

の話です。

こういう話は拒絶感をお持ちの方もいらっしゃるとのことで、Uターンできるよう最初に書きました。
なのでここから先を読んで得た感情はあなたの責任ですよ~。

そもそもの発端は写真を整理していたことです。
プロフなど少々写真を変えました。記事ごとに写真を設定する需要から画像保管庫を漁っていたというわけです。

・前置き

まず最初に当のわたし本人はオーラが視えるのか?という話。
あえて言いましょう

「視えます」・・・・・・・・・・・・一応、かろうじて、ですが。


固定記事で書かせていただいていますが、わたしは当時のゲリーボーネル・ジャパンが主催するノウイングスクールというところで「自主独立した存在として、なれる最高の自分になる」為に学んでおりました。

皆さんは「自主独立した存在になるためにはなにが必要か」と訊かれたらどう答えますか?
自己啓発セミナーなど参加されている方は訳もないかもしれません。

わたしにはその定義づけはできませんが、学び終えた経緯から「人間とはどういう存在なのか」という理解が欠かせないと感じています。

ノウイングでは人間とはどういう存在かということを最初に教わります。

進化する肉体に永遠なる魂が宿った存在―と。
もう少し正確にいうと有限である肉体と身体感覚意識に魂という永遠不滅の存在がコラボレートした矛盾した存在―なのですが、聞くほどにわからなくなってしまいそうですね。

そして得た知識の混乱を体験で理解するために(とわたしは理解していますが)幾つかのセクションを経てアカシックレコードを含めた様々な実践があり、その中にオーラ視の授業も含まれています。

まずオーラとは誰でも―動物や物質でさえも持っていて、そしてそれを感知する能力は誰でもが持っているということを先に述べておきます。
感知という書き方をしたのは、オーラは多次元的なものであるため必ずしも視覚だけを通して認識されるものではないからです。

自覚している人は少ないかもしれませんが、人は誰しも得意な感覚器官、不得意な感覚器官があります。
よく目や耳など特定の感覚器官に不自由を抱える人は他の感覚器官が健常者より格段に優れているという話を耳にしたことはないでしょうか?

どこかが不自由でなくても得意不得意はあって、気が付けば得意な器官に頼っているものです。
それはどうしたらわかるでしょう?

無意識に使っていることばがそのひとつ。
「あの人とは肌が合わない」
「あの人の話し方ってちょっと鼻につくなぁ」
「いちいち目障り」「耳障り」

拒絶反応ばかりあげましたが、他にも
「~な感じがする」
「~ぽくみえるよね」
なんて表現にも現れたりします。

またスクールでは相手を好ましいと思うときどこに反応しているかなんていう話も!

顔で選ぶか、声で選ぶか。肌感もありますね。
よく動物としての人間は匂いが受け入れられないとその関係は・・・なんて話もありますね。
そこで外せない、優位な感覚が得意器官なのです。

なのでオーラが「みえない」と言っていた方はスタートが違うかもしれませんね。
ちなみにスクールで全くオーラがわからない方というのはいませんでしたよ。
皆横並びでやっていると「これがそうかも?」って受け入れていけるのです。

この話でみなさんのオーラアレルギーが少し和らいでいたら嬉しいです。

ここまででわたしが話したかったのはオーラを見る方法ではなく、誰にでも感知できる=わたしは特別じゃないよ(みんなみえるんだよ)という前置きだったということです。

・本題①~なにがみえてるの?

さて本題です。
写真の中にノウイングスクール時代のオーラ視の時の写真がありました。
授業ではオーラを観察される側は、白い壁を背景に、服の色の影響もなるべく受けないように服の上から布を被せて立つように指示がありました。
たまたまそれをやったわたしの様子が「聖骸布を纏ったイエスだ‼」と爆笑を引き起こして、たまたま撮影大会になったのですね。

懐かしく思ってみると、当時見えていたオーラと見え方がちょっと違うのです。色も変わっています。

実は疑問に思っておりました。

写真から見えるオーラって、写真のようにその時のその人の状態を映しているのか、それともいまのその人の状態が見えるのだろうか?と。

なぜそんな疑問を抱いたかというと、写真でオーラを見ているときって、ゆらゆらはっきりしないものが揺らめいているようにみえるのです。

勿論、凄くみえる人はその人が抱えているトラウマとかがそこで劇場のように見えたりもするらしく、層も見えるし、本当に人間がエネルギーなのだと実感するような映像として認識されるそうなのでこれは習熟度の差なのかもしれません。

わたしの場合背景が鮮やかだったり明るすぎる場所だと粘っても見えない程度ですからなかなか確信が持てませんでした。
でも今日明らかに色まで違って見えたことではっきり思ったのです。

わたしが写真でみているものはなんなのか?
もしかしたらリアルタイムのその人のオーラなのかもしれない、と。

・本題②~みえてから、その後

で、疑問に思ったのでお尋ねしたのですよ。Google先生に。
基本引きこもりなのでこういう時気軽に誰かに声かけて訊ねようという発想がありませんでした(書きながら気づきました、なぜGoogleと)。

そうするとわたしの質問に直接答えてくれるサイトはありませんでしたが興味深い体験ができました。
そして自分なりに答えを得ました。

オーラを写すことができるオーラ写真の方がより多くヒットしますが、写真からオーラを読み取れるかという話題を知恵袋で散見。
場所が場所だけにアレルギー的反応や冷やかしも見られる中、写真やテレビでもみえると返答されている方が。

更には「わたしのオーラ見てください」と手の写真をアップして質問する方数名。
そしたら本当にびっくりするぐらいオーラがみえるのです。
面白いのは回答者とすり合わせができたこと。

・同じものが見えていることで本当にみえているんだなぁという自信
・回答によって「このもやもやをこの人はピンク、ここを明るい水色と表現しているんだな」と表現の理解

そして

・やっぱりオーラは写真を写した時の時間に縛られていない

という自分なりの結論に至りました。

考えたら当たり前の話なのですが、オーラは3次元の物質ではなく、前置きに書いたとおり、ひかりであり、同時に色、匂い、音でもあるものです。
写真は2次元ですからそこにオーラの情報を留め置けるなんてことができるのならそれこそ魔法具ですよね。

ひかりでも色でもあるが故の表現の難しさは虹を思えばわかっていただけるかと思います。
凄くくっきりしているときでさえその境界は曖昧で、7色の色名を言おうとすれば選択に迷うことでしょう。虹の色の数の認識も文化で違うとか。
まして彩雲とか形を保たない虹の姿はいうまでもありません。

ただ美しくてことばを失うだけです。

手のオーラも本当に人それぞれで「視て欲しい」と意図して撮られているせいか本当に生き生きと鮮やかに輝いていて魅せられました。

そして気づきました。
オーラって、視えてると認めるとますますみえるようになる!?

そうなんです。
授業で習いました。

視ようとしないこと。
ただ視えていると知ること。
頑張らないこと。

頑張らないのは努力型の人間には本当に難しいことです。
わたしも「誰でもみえることはわかったけれど、殆ど視えないし視えるなんて公言できるレベルじゃないなぁ」なんてトライするたびに思っていました。

別の目的の為に夢中になっていて頑張るのを忘れていた時、ただ興味のまま楽しんでいた時、思いがけず視えていることに気づいたのでした。

・みんなにオーラが視えたら

これは昔オーラの泉で有名な江原さんの最初の著書で読んだ話だったと思います。

運転していたら、突然すべてのものが輝いて見えた―それが江原さんが初めてオーラが視えるようになった時のエピソードだったと記憶しています。

今思うとゲリーさんが話していたアセンションのひとつのパターンみたいですが、読んだ当時はその夢のような状況に憧れてワクワクしつつも想像もつかない感覚を覚えていました。

でも、今日かつてなくオーラが視えて思いました。
これ、本当にみんなが視えたら素敵だなぁ。わたしも練習したらもっと視えるようになるかな?

怖いと思うのは制限された意識にいるからだと思います。
制限された意識に縛られているのは知識が欠けているのも一因だと思います。

想像してください。みんなが虹のように煌めいているのを。

色んな色があります。
でもどれが優れているか劣っているかなんて色にあるでしょうか?
あるとしたら輝きを自分で曇らせているかどうか、だと思います。

あとは、好みだけではないでしょうか?

みんなに自分の輝きを知ってほしい。
誰とも比べようもない、唯一の色を誇り、他の輝きとともに楽しんで欲しい。

それが「わたしの願い」です。

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