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「お灸」と「お経」で世界を救う by 内原 拓宗

【プロローグ】

こんにちは。
関東鍼灸専門学校 副校長の内原 拓宗(うちはら たくしゅう)です。

この文章は、現在わたしが所属している「面白文章力クラブ」という、オンラインのコミュニティで添削していただきながら書き上げたものです。

このクラブは、わたしに大きな影響を与えた『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』という本を書かれた、ふろむださんが主宰されています。
面白い文章を書きたい、という人たちが集まっています。

わたしは「こんなにも面白い鍼灸を、もっと多くの人に知ってもらうために、鍼灸を面白く伝えられるようになりたい」という野望を持って、このクラブに参加しています。

そんな中

・「ハリトヒト。」さんのインタビューを受けて、思いがけず自分自身と向かい合ったこと
・クラブの中で面白い文章を書くために四苦八苦していたこと
・趣味でやっていた読経中に何故か突然号泣してしまう、という体験が交錯したこと

が重なって、この文章ができました。

人に伝えるためにはどうしたらいいのか、ということを自分なりに考え抜いた、初めての作品です。

膨大な添削をしてくださったふろむださんとクラブの皆様、この作品が人目に触れる機会をくださった「ハリトヒト。」の皆様に、心より感謝申し上げます。

関東鍼灸専門学校 副校長:内原 拓宗

__________

「お灸」と「お経」で世界を救う


「お灸で世界を救う。」

鍼灸師なら1度は抱く野望だ。

最近、もうひとつ加わった。

「お経で世界を救う。」

これが、わたしの新たな野望。

よくよく考えると、「お灸」と「お経」は似ている。

え? どちらも知らない?

そんな馬鹿な。

お灸もお経も、はるか昔に中国大陸から日本にもたらされ、現在に至るまで続く、トラディショナルで、オリエンタルな、ナイスなツールではないですか。

かの有名な兼好法師が「足三里に灸据えて…」と徒然と綴ったり。

かの有名なオタキングこと岡田斗司夫氏が「祈るのはコスパがいい…」とニコ生で語ったり。

え? 知らない?

それは困りましたね。

わかりました。

では、「お経」は心の安定にとっても良い、ということを、わたしの超個人的な体験から語りましょう。

これを読めば、きっとあなたもお経を唱えたくなること間違いなしです。

__________

時は昭和58年。
次は「平成」だなんて、微塵も思わなかった頃のこと。

小学生のわたしにとって、事件は会議室ならぬ、教室で起きるのが常でした。

「ウチハラくんのどこがいけないのか、みんなで教えてあげましょう。」

担任の女性教師の提案で、帰りの学活は延長され、わたしが《どうしてみんなの仲間に入れないのか》が議題に。

「…だと思います。」
「……なところが良くないです。」

前から後ろから、矢が刺さる感じ。
矢ガモが話題になったのは平成に入ってからだっけ。
言葉であっても、刺されば痛い。

「よかれと思ってやってるのに、どうしていつもこうなるのだろう…?」

頭の中はそればかり。

何人かのクラスメイトに謝られたけれど、かえって申し訳ないやら恥ずかしいやら。
子どものころから、人の気持ちを考えることがどうも苦手。

「あぁ、もう。どうしたらいいのかな…。」

湯船につかりながら、そんな言葉が思わず漏れ出た。

短い、というかほとんど残っていない髪の毛を、石けんで洗っていた父が顔を上げる。

「何かあったか。」

…しまった、と思ったけれど、もう遅い。
ごまかそうとしても言葉が出ない。

黙るわたしをしばらく眺めていた父が、ポツリと話した。

「うまくいかない時はお経を唱えてごらん。」

「お経?」

「般若心経。」

「あの、お寺で唱えるやつ?」

「そう。それ。」

「あんなので、効果あるの?」

「そりゃあるよ。お経はね、ありがたいものなんだよ。般若心経。」

「そうなんだ…。」

まだ素直だった当時のわたし。
父親の言葉を真に受けて、しっかり煙に巻かれてしまった。

「般若心経か…。」

40歳で脱サラして指圧師になった父は「押すだけじゃ治らん!」とボヤキながら、さまざまな施術方法を渡り歩いていた。

そんな中、とある師匠に学ぶことになったのだが、その師匠に学ぶためには、なぜか山伏の格好をして霊山を巡らないといけないらしく、父は週末になると変な格好をして出かけていた。

激怒したのは母。「家族をほったらかして!」と怒り心頭に。
ほったらかしていない、という言い訳なのか、小学生のわたしまで、父の霊山巡りに連れ出される羽目になった。

そこで出会ったのが、「般若心経」と「観音経」。
いわゆる「お経」だった。

車酔いがひどく、すぐ気持ち悪くなるわたしにとって、父のお供をするのは本当に憂鬱だった。

けれど、時はまだ昭和。
親に「行くぞ」と言われれば、観念してついていくしかない。

自然が好きなわたしは、山に登ること自体は楽しかった。

問題は、山頂のお寺。
そこでひたすらお経を唱えるのだ。

何を唱えるのかは、父の師匠の気分しだい。

「般若心経」と言われると、ほっとする。
1回が短いからだ。

「観音経!」と言われると、気分は真っ暗。
1回唱えるのに15分はかかる。
それを「5回!」と言われると泣きそうになる。

繰り返される「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」を呪いながら、山伏の集団の中で、ひたすら口をパクパクさせていた。

__________

話は飛んで、35年後。

平成が終わろうとするいま、父の遺伝をしっかり受け継いで、わたしは髪の毛の薄い中年のおじさんになってしまった。

そして、毎日「般若心経」と「観音経」を唱えている。

父の「お経を唱えるといいよ」という言葉を真に受けた小学生のわたしは、その後「般若心経」を暗唱することに成功。

大事な試合の前や、試験の前に「般若心経」を唱えると、何故か気持ちが落ち着いて、いい結果が出ることが多かった。

「すごいや。親父の言うとおりだ。」

ただし、それで何とかなったのは社会に出るまで。

会社に入り、組織の中で仕事をするようになると、持ち前の協調性の無さが浮き彫りになってくる。
過剰に人の気持ちを考えすぎて動けなくなったり、その反動で周囲の感情を無視して爆発したり。

「般若心経」は「色即是空」を説くけれど、自分の心の中はそれどころではない感じ。

「かりそめの”いま”の状態をただ味わう」?
なんだそれ状態。

「やっぱり、うまくいかないや…。」

そんなときに思い出したのが、もうひとつの「観音経」。
そう、あの15分かかる、長いやつ。

正確には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」。
タイトルまで長い。

困り果てたわたしは、「長い方が効果がありそう」という、いかにもテキトーな動機で「観音経」も唱えてみることにした。
雰囲気を出すために、YouTubeで見つけた、永平寺のお坊さんの読経動画を流して一緒に唱える。

久しぶりの「観音経」は新鮮だった。
しかし、やがてその長さに辟易する。
口が慣れてくると、余計に雑念ばかり湧くのだ。

「ちくしょう。あの野郎、あのとき、あんなこと言いやがって。」
そんなことばかり。

「それではいけない、台無しだ。」と思った時に、ふと心に浮かんだ光景がひとつ。

それは、一昨年96歳で他界した祖母が仏壇に手を合わせて、一心に「般若心経」を唱える姿だった。

そう。

わたしはいま、あの時の祖母と同じようにお経を唱えている。

…。

…。

いままでどれだけの人が、こうやってお経を唱えてきたのだろう。

…。

何を想い、何を考えながらお経を唱えてきたのだろう。

…。

何を託してお経を唱えたのたのだろう。

やがて、読経をするわたしの心の中を、そういった問いや、思いが占めるようになっていった。

それは、他人には「他人の都合」や「思い」があり、自分のそれとは別のものではあるけれど、でもその「都合」や「思い」に、想いを馳せることはできる、という感覚をわたしに染み込ませていったのだった。

そして、ある日のこと。
その時は突然やってきた。

いつもと同じように「観音経」を唱えるわたしの心の中に、《行方知れずになった子どもに「どうか、帰ってきてほしい」と熱心に祈る母親の気持ち》が飛び込んできた。

背筋が震えた。

妙に生々しい感情に戸惑いながら読経を続けると、今度は《いままさに命を終えようとする人が、薄れゆく意識の中で、耳にするお経に救われ、涙するシーン》が克明に湧き上がってきた。

これはいったい何なのか。
わたしの想像力が暴走しているのか。
なぜ、こんなにもわたしの目から涙があふれ出るのか。

繰り返される、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」に、いままでどれだけの人が、救いを求めてきたのだろう。

そう思うと、経文の中にある、

「火の池に投げ込まれても、観音様の加護を念じたら(念彼観音力)、火が収まった」

とか、

「処刑されそうになっても、観音様の加護を念じたら(念彼観音力)、刀が折れ曲がった」

という、いままで荒唐無稽と感じていた表現も、人々の切実な願いの表れのような気がしてきた。

そうか。
「祈る」とは「他人の思いとつながること」だったのだ。

__________

1日も欠かさず「般若心経」と「観音経」を唱える現在のわたし。

人の気持ちを考えずに、自分の考えを優先してしまうのは相変わらずだけれど、以前より、《他人には「他人の都合」があり、そして、どこかでわたしたちはつながっている》という思いを持てるようになったと感じる。

ちなみに、読経のたびに号泣しているといろいろ大変なので、最近はできるだけ想像力を掻き立てないようにしている。

当面の目標は、この長いお経を、死ぬまでに暗唱すること。

内心では「このまま続けていけば、よく分からない法力が身に着いたりしないかな」と妄想している。

というわけで。

すぐにでも「お経」を唱えたくなった方!
「誰でも手軽に!「お経LIFE」のはじめ方(仮)」
というブログを近いうちに公開しますので、そちらを是非お読みください。

別に唱えたくないという方!
せめて「お灸」を生活に取り入れてみてはいかがでしょうか。
詳細は、最寄りの鍼灸師さんに尋ねてみてください。

お灸にしろ、お経にしろ、続けることが大切です!

毎日続けて、健康に、自分の人生を楽しみましょう。

そして、世界を救いましょう!!!!

…え? やっぱりわからない?

それは困りましたね。

<おしまい>

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