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「I’ll Be Your Mirror」 Jen Mazza

Ulterior Galleryの展覧会 "Recurrent"(*1) にて展示された播磨みどりの3つの作品の中から、私は、ギャラリーのキッチンに展示された、3分間(*2)の映像作品 “This is a Mirror, after Camnitzer”について考察してみたい。

私は、背の低いスツールに座っている。背後にある流しのカウンターには、ブリタの水差し、グラスやコーヒーメーカーが置かれている。室内から窓を通して撮影された屋外の風景らしき映像と向かい合いながら私は、友人アーティストのアーロン・ウィリアムスと交わした会話を思い出していた。彼とのスタジオビジットでは、作品とは全く関係のない他の話題に話が逸れていくことが多く、この時も私たちは、スカーレット・ヨハンソンが、人間の女性と化したエイリアンを演じた2013年公開の映画「アンダー・ザ・スキン」について話していた。この映画については、私には語れることが沢山あり、そこには私がこれから書こうとしていることと関連のある事柄も多く含まれているのだが、ここでは、記録の不備とでもいうような、決定的なずれにフォーカスして書いてみようと思う。アーロンとの会話の中で、私は、映画のラストシーンについて、自分が重要なプロットポイントを見過ごしていたことに気がついた。(ネタバレ注意!)劇中のエイリアン/女性は、人里離れた森の中に居る。自然が彼女を取り囲み、小雨が降ってはいるものの平穏な森の中を、道沿いにゆっくりと歩いている。突然彼女は、後に彼女を追いかけて殺す男と、面と向かって出くわす。アーロンはその男が、映画の初めの方に、男達を誘惑して集めるという捕食の役割から、彼女が逸脱しないようにする為の、エイリアンのハンドラーのような役として登場していたことを指摘した。私はプロットの重要な局面を見逃したり、同じ映画内に再度登場する役者を見落とすようなことは滅多にない方なので、この事実は私を驚愕させた。一体どのように、またどうして私はこの重大な局面を見落としたのだろうか?この事について考えを巡らせてみると、私はある理解にたどり着いた。それは即ち、エイリアン/女性が、映画の最後に森で男に殺されるという事実は、私にとっては、映画の筋書き上で正当化される必要がなかったのだ。女性が一人きりで、森に居る男に殺されるかもしれないということは、私の住む世界の全般的な筋書きに属することであって、特別な説明を必要としない。私が解っていることは、私自身が森を一人で歩く事がリスクの一つであるということだ。私の頭の中では、森には常に男が居る。それなのに、播磨の映像の冒頭を見ていると不意に森の中に男が居るのが見え始める。説明を加えると、この映像を見たのは、この時が初めてではない。一体どうして私は彼を見落としたのだろう?その答えもまた、ある程度までは、私の知る世界の内的論理に存在している。即ち、私は彼を探す必要がなかったのだ。彼が見えようが見えまいが、私の頭の中では、彼は私を見ているし、森には常に男がいる。

はっきりさせておきたいのは、私がこの映像を初めて観た時、確かに私はこの男を見たが、それは映画の最初ではなく、最後だけだったという事だ。映像の最後の瞬間に、アーティスト/女性が、私たちの視界を遮っていたスクリーンを運びさり、窓枠に縁取られた景色が再び現れた時、木々の狭間に男が立っている。不自然に脚を左右に大きく拡げて、半ダース程度の傾いた幹と一緒に緑の中に植えられている。私たちは、鑑賞者に対峙する男 –この森の中の観察者– を見て、そして画面は暗転する。

初めてこの映像を観た際、私は、アーティストの動作、視界に入ってくるその動きに恐らく全ての注意を向けていたのだと推測する。また、映像の端が、中央にある同じような比率の長方形の窓を縁取るという、フレームの二重性に気づく喜びといった形式的な側面にも没頭していたに違いない。風景のゴーストイメージをその画面上に宿したスクリーンを、アーティストが持ち上げて窓に嵌め込む。その向こうの風景をよく見て、それがスクリーン上のイメージと同じ風景であることを確認するまでに、私は何度も鑑賞を繰り返した。繰り返し何度も私は窓から見える実際の風景を記憶に留めようとし、その都度、スクリーン上のアクションが、繰り返し何度も記憶に留められたそのイメージを消し去ろうとする。しかし、私はついに、実際の自然の残像を保持することに成功し、スクリーン上のイメージが実はその向こう側にある風景の薄いコピーであり、写真による複製であるとはっきりと認めることができた。それを可能にしたのは、ある種のずれであり、確実な、記録の不備であった。イメージの右側は、実際の木々と自然の再現イメージとが、完全に一致して重なっており、幻影が完璧に現実を消し去っている。しかし、左側では、実際の木の幹が、そのゴーストイメージの輪郭を越えてわずかに顔を覗かせるような、微細なずれが発生している。

ゴーストイメージのベールに隠されつつも見えているのは、女性アーティストの身体である。しかし、この身体もまた、彼女が、シルクスクリーンの上方へと水平にシアンのインクを引っ張り上げた途端に消えてしまう。一回引っ張り上げるだけで、力強く動いている両腕と共に彼女の上半身が消えてしまう。それは唐突で、ショッキングに感じられる。画面に残ったまま見えているのは、インクを集めて拡げる道具が、スクリーン上を動いているその接触面である。先走り過ぎかもしれなかったが、しかし、私はその結果を想像することで、直ちに自分をなだめることができた。私の中のアーティストがそのイメージに強い興味を抱き、完成されたイメージ即ちコピーを渇望し、自然界の残余としてスクリーン上に残された光線の上に、頭の中でシアンのインクを押し上げる。

私が、言葉によって播磨の作品を満たしていくのと同じようにして、画面はインクで満たされ、その過程で一つの絵は別の絵に取って代わられる。スクリーン上の自然のイメージは、映像が黒に切り替わった時点でほぼ完成している。再び映像が現れると、その光景は変わらず、アーティストはやはり下半身しか見せないまま、スクリーンを外して、再び現実の風景をあらわにする。

そして私は、画面の中央から私を見ている彼に気がつく。森の中に居る男は木のように動かずにじっとそこに佇んでいる。カメラを持っているので、顔が見えない。私にとっての彼の顔は、カメラアイであり、8mmフィルムカメラのレンズである。そのことについて、私は、なぜそれがフィルムカメラで、ビデオカメラでないのかと疑問を持ち、フィルムカメラの内部構造を想像する。シャッターは、時間の流れとアーティストの行為とを多くのフレームへと断片化し、それぞれが個別のイメージとなる。このように監視された女性の身体は、窃視の複製現場となる。彼女はスペクタクルなのだ。彼女の身体は何千ものイメージに複製されるが、同時に彼女がスクリーンに押し込み続けたインクは一枚のプリントも作り出す事はない。ここで私は、ジョージ・スタッブスが描いた、自身の複製を残すことができなかった、シャーロット女王の、孤独な雌シマウマ(*3)のことを思い出す。そして、映画は、私たちの社会で女性が "意味の担い手であって意味の作り手ではない "という事実を強化しているというローラ・マルヴィの分析を思い出す。播磨の仕事とマルヴィの理論を混同したいとは思わないが、この二つを並行して読むと、解る事がある。マルヴィのエッセイ "Visual Pleasure and Narrative Cinema "から、文脈から少し外れた引用をしたい。彼女はまさに、凝視という活動をする能動的な男性像について書いているが、彼について彼女はこう書いている。”He is a figure in a landscape."(彼は風景の中の人影である。)

そして、私たちは播磨の映像の最後に戻ってくる。シルクスクリーンを携えて、アーティストはフレームを離れ、風景の中に男が残っていて、まだ撮影行為の最中であるとき。では、彼の視線は今、誰に向けられているのだろう。スクリーンが取り払われた今、彼は窓から中を覗き込んでいるのだろうか?彼はこの内部を、私が居るこの家庭内空間を見ることができるのだろうか?暗い台所でこの小さなスツールに座っているただの鑑賞者である私を、彼が見ることができないのは確かなのに、なぜ私は巻き込まれたと感じるのだろう?アーティストが不在の間,突然私が視線の対象となることに私は驚くべきなのだろうか?


(*1)"Recurrent"ニューヨークのUlterior Galleryにて2022年10月28日-12月16日に行われた3人展。ディレクターの田邊多佳子によって関連づけられた3人の女性作家の、それぞれ3点の作品によって構成された。参加作家は播磨の他、Selena KimballとJen Mazza。
会場風景:http://www.ulteriorgallery.com/recurrent

田邊の提案により、会期中に、それぞれの作家が互いの作品についてテキストを寄せるライティングプロジェクトに発展し、播磨はKimballについて、KimballはMazzaについて、Mazzaは播磨についてのテキストを執筆し、成果物はZineとして纏められた。本稿はそのライティングプロジェクトの為に執筆されたMazzaによるテキストに多少の変更を加えたものである。

(*2)上記展覧会に播磨は、“This is a Mirror, after Camnitzer”の2チャンネルの15分8秒フルバージョンから、デジタルカメラで撮影された方の映像の冒頭を3分15秒に編集した、シングルチャンネルの “This is a Mirror, after
Camnitzer”(Version#1 for Recurrent)を出品し、映像はギャラリーの壁面の裏側に位置するキッチンの壁に投影されて展示された。Mazzaによる本テキストは、播磨が画面の向かって右側からフレームインし、版にインクを与える行為を繰り返し、一旦画面が暗転した後、絵の具の行き渡ったシルクスクリーンを持ち去り、画面の向かって左側へとフレームアウトして画面が暗転するというシーンが繰り返される“This is a Mirror, after Camnitzer”(Version#1 for Recurrent)を元に執筆されている。

(*3)上記展覧会に出品されたJen Mazzaの3枚組の絵画作品“Terpsichore (1785)”の元となったジョージ・スタッブス(George Stubbs, 1724- 1806)の絵画作品“Zebra“(1763)
作品画像:https://collections.britishart.yale.edu/catalog/tms:5009 動物の絵を多く手がけたスタッブスは、特に馬の絵で知られるイギリスの画家である。“Zebra“に書かれているシマウマは、1762年に、南アフリカから、ジョージ3世の妻であるシャルロット妃に贈られ、バッキンガム宮殿で実際に飼育されていたシマウマであり、スタッブスが描いた一番初めの野生動物である。描かれているのは雌のシマウマで、当初は雄と雌のペアで贈られたが、船で輸送されている最中に雄シマウマが死亡した為、残された雌シマウマは子孫を残す事なくその生涯をイギリスの地で終えた。


Jen Mazza
1972年ワシントンD.C生まれ。2001年Mason Gross School of the Arts at Rutgers University 修士卒。現在はニューヨークを拠点に活動。教育者であると同時に、熱心な思想家、ライターでもあるMazzaは、哲学、文学、視覚文化など、さまざまな分野からインスピレーションを得た活動を行うアーティストである。近年の活動に、The James Gallery at the Center for the Humanitiesでのミッドキャリア・レトロスペクティブ展やArtist Alliance Inc.でのデジタルプロジェクト、Getty Museumにて行われた作品と自然に関するトークなどが挙げられ、作品は、New York TimesやArt in America、Art News、Hyperallergic等で取り上げられている。ニューヨークTibor de Nagyギャラリー所属

訳及び注記:播磨みどり


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