見出し画像

姪っ子と一本の薔薇

姪っ子が、何やら嬉しそうな顔で私のところに駆け寄ってきた事があった。
あれは、コロナが始まる前の事だったと思う。

そして、みんなが座っているソファーではなく、リビングのテーブルに引っ張って行かれ、『ここに座って』と椅子を叩きながら場所を指定された。
言われたまま椅子に座ると、姪っ子は私の隣の椅子にちょこんと座り、そっと私に寄り添いながらこう聞いた。

Ditoは、薔薇の花をもらったことがある?

私はある年の誕生日に、パートナーから薔薇の花束をもらった。
その事を聞いているのかと思い、パートナーからもらったことがあると答えた。

そうすると、姪っ子はちょっとがっかりした表情になった後、こんな風に続けた。

Ditoは、私よりずっと大人でしょ?
私は、もう薔薇をもらったのよ!

姪っ子は、幼稚園のクラスの男の子から、お誕生日に薔薇をもらったのだそうだ。
最近の子供はおませだなあと、びっくりしてしまう。
なるほど、私がもらった事がないと言うのを期待して、私に薔薇を自慢したかったのだと分かると、少しだけ申し訳ない気分になる。

私達の会話を聞いた義妹がリビングにやって来て、私に補足説明をしてくれた。
その男の子は、一本だけ綺麗にラッピングされた薔薇を、姪っ子にプレゼントしてくれたのだそうだ。
幼稚園のお迎えでその男の子の母に会った時に、男の子が薔薇を買う時の様子を話してくれたそうだが、これが何とも可愛らしい。

お花屋さんに行きたい男の子。
でも、一人では行けないから、母親に付き添ってもらいたい。
お花屋さんに行きたいと言うので、理由を聞くと、少し恥ずかしそうに、薔薇をあげたい人がいると言ったのだそうだ。
そして、自分のお小遣いから一本の薔薇を買い、ラッピングをお願いしたのだと言う。

聞いているだけで胸がときめいてしまうほど、可愛らしい。


姪っ子は、得意そうに話を続ける。
姪っ子には、好きなお友達がたくさんいるそうだ。
だからその男の子は、今までは姪っ子のお気に入りのうちの『一人』だったらしい。
でも今は、その男の子が一番好きかもしれない、と恥ずかしそうに言う。
その話し方が可愛くて、思わず抱きしめたくなる。

そして、まだ見た事もないその男の子に対し、薔薇のプレゼント成功おめでとう!と言ってあげたくなった。

そんな姪っ子は、コロナの影響が濃くなってきた頃、公園のブランコから落ちて、腕の骨を折ってしまった。
私はその電話をもらった時に、自分の体温が一気に低くなるのを感じたほどだ。

幸い、一週間程の入院だけで済んだが、姪っ子はその時も気丈で一度も泣かなかった。
私のほうは、心配で泣きたいくらいだったのだけれど。

病院には、コロナの影響でお見舞いにも行けないので、写真だけが送られてきた。
私達の心配をよそに、美味しそうに病院のご飯を食べている姿。
それを見て、ようやくみんなが笑った。

しばらくの間ギプスをしていた姪っ子だが、ギプスをしていても、あちこち遊び回って腕をどこかにぶつけて、痛い!と叫んでいる。
その度に誰かが、大人しくしていなさい!と声をかけるけれど、あまり効果はなかった。

後日、腕に入れていた金属を抜く必要があったのだが、その時も姪っ子は泣かなかったそうだ。
その時の様子を、身振り手振りで一生懸命に伝えてくれる。
痛々しい傷跡を見せながら、ここからこうなって、これをこうしてと説明するのだ。

幼いながら、その痛みを我慢して一度も泣かなかったなんて、本当に気丈な子だ。
私の骨なら何度折れてもいいけれど、もうニ度と姪っ子の骨は折れないで欲しい。

金属が取れた日の翌日、姪っ子はまたあの薔薇の男の子から小さな花束と、チョコレートをもらったそうだ。
今度は、自分で公園で集めたお花でブーケを作り、それはとても綺麗だったと言う。

姪っ子はお礼に、お花の絵を描いてプレゼントしたそうだ。
その話をしている時、姪っ子はとっても嬉しそうで、そんな姪っ子を見て、私まで嬉しくなる。

私に初めて会った時、母親の後ろにピョンと隠れ、顔だけ出して私を見ていた姪っ子。
初めて抱っこした時には、まだほんのり子供特有のミルクの匂いがした。
今は、こんな秘密のお話までしてくれるようになった。

そう言えば一度、私をパートナーの母と間違えて『オーマ』と呼んだことがあった。
オーマとは、Oma、おばあちゃんという意味だ。
姪っ子は、自分でその間違いに気付いて、

『ごめんなさい、Ditoが歳を取っているからオーマって言ったんじゃなくて、ただ間違えちゃったの。許してくれる?』

と聞いたのだ。
私は、姪っ子の気遣いやその成長に驚いてしまった。

姪っ子だけではない。
子供達には毎日会える訳ではないから、会う度にその成長に驚く。
きちんとこうして意思疎通ができる年齢になってきたことや、それを私が理解できることが嬉しくてならない。

ドイツ語を勉強していて良かったと、子供達の成長を見るたびに思う。

勉強や仕事、趣味などを全てを抜きにして、子供達が話すことを理解し、一緒の時間を過ごすツールとしてのドイツ語。

言葉は、目的ではなくて手段。

伝えたいことがあるから、言葉がある。
知りたいことがあるから、話す。

それは、私がいつも念頭に置いてきたことだけれども、子供達と過ごすたびに強く思う。

それでも、私のドイツ語レベルはまだまだだ。
大人は、私の話す文法が間違っていても、たとえ間違った単語を使っても、その内容全体を聞いて理解してくれる。
大抵の場合は、ドイツ語が上手ねと言ってくださるが、それは外国人としての評価であって、むしろそんな事を言われているうちは、それほど高いレベルではない証拠だと思っている。

私の周りには、日本語もドイツ語も母国語のかたがたくさんいるし、ドイツ語を専門に学んでこられた方がたくさんいる。
私は、私自身のドイツ語レベルを知っている。
間違いをいちいち指摘する人もいないから、私はずっと同じ間違いをしているのだろう。

しかし、子供は私が間違ったことを言うと、???という顔をする。
そして、すかさず私のパートナーの顔を見る。
パートナーは、私の言いたいことを汲み取って、それを子供たちに説明する。
あぁ、私はこの単語を間違ったのかと理解する。
その度に、私のドイツ語はまだまだだと思う。
子供の反応は、まるでリトマス紙。

その逆もまたしかり。
子供たちが使う言葉を、私は時々知らない事がある。
だから、子供たちが一生懸命に話してくれても、意味が汲み取れない事があるのだ。
その度に、あぁ、もっとドイツ語が話せたらと悔しく思う。
パートナーは、これは子供の言葉だから知らなくて当然だと言ってくれるけれど、私は子供たちの話す全ての言葉が理解できたら、どんなに嬉しいだろうかと思う。

それでも、私は子供達との会話、子供達との時間が大好きだ。
一緒に外で遊んだり、家の中でゲームをしたり、私はその時間を存分に楽しむ。

子供達の好きな色、好きな動物、好きな本、好きなお菓子、好きな歌、好きなテレビ番組、大好きな友達、好きな男の子、好きな女の子。

私の中に、子供達の情報がどんどん積み上げられていく。

子供達は、これからどんな少年、少女に成長するのだろう。

私は傍でずっと見守っていたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?