見出し画像

傘とネクタイピン

人生で一度だけ、告白をした事がある。
付き合ってください、とは言えなかった。
「ずっと好きでした」
その言葉を伝えるだけで、精一杯だった。

***

高校生の頃。
駅を降りて高校に向かって歩いている間に、突然、スコールのような雨が降ってきた。
私は傘を持っておらず、走ったけれど、学校まであと半分という所で諦め、本屋さんの軒下で雨宿りをする事にした。

その時、傘をさした一人の先輩が、私の前を通り過ぎた。

その先輩とは、一度も話したことはない。
先輩が、しなやかな身体を使って球技をする姿を、いつも遠くから見ていた。
身体や手、指、視線、全てがお手本のようで、その動く様を見ているのが好きだったのだ。

私は豪雨の中、先輩の後を歩き出した。
身体が、コントロールを失ったように勝手に動き始めた。
早足になり、そして後ろから、大きな声で先輩の名前を呼んだ。

そんな事ができる自分が、全く信じられない。自分に、そんな勇気があるなんて知らなかった。
先輩は、足を止めて振り向いた。

一緒に登校させてもらえませんか。

先輩は驚いた表情をしたけれど、いいよ、と言って私のために場所を作ってくれた。

本屋さんから学校まで、数百メートル。
とても長くて、そして、とても短かった。

今日は雨がすごいね、と先輩は短く言った。
私は聞かれてもいないのに、家を出る時には降っていなかったので、傘を持ってこなかった事を、言い訳がましく説明した。

先輩の傘は優しい茶色で、私がいつも使う傘よりも随分大きかった。
雨は、傘を容赦なく叩く。
轟々と降る雨の音は、私達の会話さえ掻き消す。
その音のせいか、私はなぜか自分の気持ちを言ってみたくなった。
先輩が球技をしている姿に憧れていること、私もあんな風にプレーできたらいいなと思っている事を。

先輩は私のほうを見て、いつも練習しているのを見ていたよ、と言ってくれた。
私の事など知らないと思っていたから、知っていてくれた事が嬉しいのと同時に、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
先輩の視界の中に自分がいたこと、そして今この瞬間も、自分を見ている事が信じられなかった。
まさに、穴があったら入りたいくらいだった。

そうしているうちに、校門の近くまでやってきた。
すでに登校している生徒が、校舎から校門を見下ろしている。
先輩の隣を歩く私の事は、大きな傘が邪魔をして、誰も分からないだろうと思った。

昇降口まで来てから、私は先輩の右側がすっかり濡れていることに気付いた。
私は、何と馬鹿な事をしたのだろう。
土砂降りの雨は、たとえ大きな傘でも、一人だけだったとしても防ぎきれない程の酷さだった。
それなのに、一緒に登校して下さいなんて、何と図太い事をお願いしたのだろう。
先輩のニューバランスのグレーの靴も、斜めがけにしていたバッグも、ずぶ濡れだった。
ふと我に返り、急いでハンカチで先輩のバッグと制服を拭った。
自分の事を嫌いになりそうだった。

ハンカチ程度では全く役に立たない事はすぐに分かったけれど、先輩は笑って、大丈夫だよと言ってくれた。

夢見心地のまま、私は教室へ向かった。

雨はすぐに止んだ。
すっかり雨が上がると太陽が出て、驚くほど綺麗な空気がそこに漂っているのを感じた。
しばらくすると、はっきりと虹が出た。
その日には音楽の授業があり、音楽室からは都心の高層ビルが見えた。
あのビルが見えたのは、一度きりしかない。
へぇ、ここからこんなにハッキリ見えるものなんだねと、みんなが驚いたものだ。

音楽室の窓から、ふと校門を見下ろす。
ついさっき、先輩の傘の下、一緒に登校した場所。
何だか、急に恥ずかしくなった。

先輩には、彼女らしき人はいなかった。
それでも、いつも人に囲まれていた。
男子生徒にも、女子生徒にも。
誰とでも気さくに話す姿や、声、話し方や笑顔、そして真剣な眼差しに惹かれていった。
先輩が、友達からあだ名で呼ばれるのを偶然聞き、そのあだ名が可愛いくて、つい笑ったりもした。
学食で先輩の姿を見かけ、たまたま近くの席に座れた時には、その一日が最高の一日に思えた。
憧れは、好きという気持ちに変わっていた。

***

それから長い間、悩んで悩んだ末に、先輩に告白をした。
一生に一度だけ。
好きな人に、好きですと言った。
ただ、それだけだ。

私は、そんな中途半端な告白しかできなかった。
先輩と付き合いたいなんて、おこがましくて口に出す事もできなかったのだ。

先輩は、そんな私の中途半端な、でも精一杯の告白を聞いて、ありがとう、と言ってくれた。

私の生活は、特に何も変わらなかった。
私は他に好きになれる人を見つけられず、先輩に対しての気持ちだけは、ずっとそこにあり続けた。
友達から、彼氏ができた話やデートの話を聞くと、ワクワクしたりドキドキしたり、ちょっぴり羨ましかった。
こんな私を好きだと言ってくれる物好きな人も幾人かいたけれど、私はどうしても、自分が好きになれる人と一緒にいたかった。
付き合ったら好きになれるかもよ?という友達からのアドバイスも、そんな気持ちで付き合うなんて相手に申し訳ないような気がして、お付き合いする事が出来なかった。

先輩も、相変わらず人気者であったけれど、彼女はいなかった。

そして、先輩の卒業式の日。
私は先輩から、校章の入ったネクタイピンをもらった。
第ニボタンの代わりに、三年間、胸の近くにあったもの。
悲しくて、嬉しくて、涙が出た。
私の初めての、そして一度だけの片思い。
先輩は、こんな不器用な私に対しても、優しい人だった。

大学生になってから、先輩とは何度か電車の中や駅で偶然ばったり出会った。
先輩は私の事を覚えていてくれて、私はドキドキしながらも、近況報告をした。
先輩の元気そうな姿を見ると、何だかホッとした。

それからしばらく経っても、私は先輩の事が好きだったと思う。
そして今も先輩を思うと、胸をキュッと掴まれたような気持ちになる。

恋って、不思議なものだ。
その人を良く知る訳でもなく、性格を知っている訳でもないのに、あれほど強く誰かを想えるなんて。
私は、恋に恋していただけだったかもしれないけれど。

***

暖かくなってくる春。
春は、嵐の季節でもある。
こんな季節に強い雨音を聞くと、私は容赦なく傘を叩いたあの日のスコールを思い出す。

大きな茶色の傘。
轟音の中の会話。
好きな人の瞳の中に、自分を見つけたあの日。
遠くに高層ビルを見つけた日。
綺麗な虹が出た日。

思い出は何故かいつも綺麗で、キラキラ輝いている。
あの日の虹と同じように。

今、先輩はどんな男性になっているのだろう。
先輩はずっと、私の理想の男性のまま。
たくさんの人に愛される人は、今もきっと、たくさんの人に笑顔を見せている事だろう。
そして私は今も、不器用なまま。

先輩が、この淡い片思いの話を偶然読んでくれる確率は、一体どれくらいなのだろう。
これを読んだら、自分の事だと気付いてくれるのかしら。。。

先輩。
これからもずっとずっと、幸せでいてください。

この記事が参加している募集

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?