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シンドラーのリストに出会う

ベルリンにあるドイツ抵抗記念館。
Gedenkstätte Deutscher Widerstand
 
恥ずかしながら、パートナーから聞くまで、私はその存在すら知らなかった。
私が絵画館に行きたいと話したら、近くにあるので是非訪れたいと言う。
ヒットラーの暗殺計画を立て、そのために命を落としたかたを追悼する場所と聞かされた。
 
そして、ドイツ人にとっては、とても大切な場所だという。
 
大学時代に、ユダヤ人と経済発展の繋がりに興味があり、ユダヤ人に関する書籍を読んだ事があった。
その中でも忘れられない一冊が、シンドラーのリストだ。
本を読んで想像した光景。
そして、それよりも何倍も恐ろしい光景を、私は後に、映画の中で見ることになった。

ドイツ各地に点在している強制労働収容施設にも、足を運んだ。
ここデュッセルドルフにも、強制労働収容施設があった。
子供たちが楽しそうに遊ぶ公園の隅に、ひっそりと佇んでいるオブジェを偶然見つけるまで、私はその存在を知らなかった。

もちろん、アウシュビッツも訪れた。
私は、アウシュビッツに行った時ほど、ドイツ語を理解できる事が悲しいと思ったことはない。

全ての展示物には、解説が記載されている。
しかし、展示物そのものに記載してある言葉、指令、数、名前、場所、様々な情報が私の目に飛び込み、私にその内容を理解させる。
 
人々の命を、ただの数字や文章で整理していく様が、とても恐ろしかった。
 
それは、文字だけではない。
山のように積み上げられた、持ち主を失った旅行鞄。
フレームがぐにゃっと曲がり、グラスが片方だけになった、とてつもない数の眼鏡。
無残に切り取られた、色とりどりの女性の長い髪の毛。
そして、抜き取られたのであろう金歯の山。
 
それが一体何を意味するのか、考えるまでもない。
それは、解説以上の圧倒的な強い力で、否応なしにその残虐さを私に理解させた。

あまりにもつらい経験で、鳥肌が立ち、そして手先が冷えてくるほどの衝撃だった。
今まで見てきた強制労働収容施設とは、全く違うレベルのものだ。
 
高く聳え立つ煙突。
そして、鉄道の終着駅。
それは、まさに命の終着駅でもあるのだ。

 ポロリと溢れた涙は、いつしか止められなくなり、私は過呼吸になるほどに泣いてしまった。
 
友達は、私の背中をずっとさすってくれていたが、友達の目からも涙が流れていた。
 
私達だけではない。
そこを訪れた人はみな、手にハンカチやティッシュを持っていた。

私にとって、ドイツを知ることは、暗い過去を知ることでもある。
シンドラー氏を英雄に仕立て上げすぎているという批判もあるようだが、数々の本、場所を知るにつれ、シンドラーのリストは、私にとってまるで救いのように映った。
 
話は逸れるが、日本のシンドラーと呼ばれる杉原千畝氏。
一昨年は、杉原氏生誕から120年だった。
杉原氏が駐在していたリトアニアでは、杉原イヤーとして、この年を大切に扱っていたそうだ。
日本でも、杉原氏が近年になってようやく評価されているようだが、もっと多くの人に知ってほしいと思う。

そのシンドラーのリストの一部に、私はドイツ抵抗記念館で出会うことになった。
 
一つ一つの展示物を見ていると、そこに2枚、ガラスに入った紙があった。
それが、シンドラーのリストだったのだ。
私は、アメリカとイスラエルにあるとばかり思っていたので、驚いてしまった。
パートナーに話をしたら、パートナーも知らなかったと驚いている。

スティーブン・スピルバーグ監督が、いかにこの映画を丁寧に作られたのかが分かる。
映画に出てきたのと同じ、いや、監督が同じものを再現し、映画にしたのだと理解できた。

記念館には、ナチス政権に対する抵抗運動について、様々な資料が展示されている。
ここを訪れる人は多く、みな真剣に資料を読み続けていた。

暗殺計画は未遂に終わり、計画を立てた6名のうち、4名が銃殺刑にされたという中庭には、銅像が建っている。
 
 
ドイツのために、ここに死す
 
 
この言葉と共に、銃殺刑にされた方のお名前が刻まれている。

私達は、静かに黙祷を捧げた。
 
そして、何故ここがドイツ人にとって大切な場所なのかが分かった。
 
賑やかな街の中に、こうしてひっそりと歴史を伝える場所がある。
私は、訪れることができて本当に良かったと思った。

留学中には、政治と宗教、戦争のテーマは話さないほうがいい、そんな事を言われた。
それでも、仲良くなった友達とは、自然にそのような話題になる。
 
私は、パートナーとも、戦争について話す。
パートナーが広島の原爆記念館を訪れた際も、唯一の被爆国である日本について、私の知る限りのことを伝えた。

そして、私達が数十年早く生まれていたら、もしくは今も戦時中であったならば、出会っていなかっただろうという結論に至る。
そして、こうしてお互いを見つけられたこと、そして今の平和を享受できることをありがたいと心から思うのだ。
 
ベルリンは、色々な暗い過去を持った街だ。
それは、ベルリンだけでなく、ドイツだけでもなく、全ての国が背負っている過去でもある。

私達は、その暗い過去を忘れ去ってはいけない。
たとえ、知ることが過呼吸になるほどつらい事であっても、私は知りたいと思うのだ。
一体何が起きて、どのような状態だったのか。
 
2022年2月24日。
本来であれば、デュッセルドルフはAltweiberfastnachtというカーニバルに関連するお祭りの日で賑やかな一日のはずだった。
朝のニュースで、ロシア・ウクライナ情勢を知るまでは。

第二次世界大戦以降、ヨーロッパで初めて戦争が起きている。

私は、湾岸戦争が始まった日のことを思い出していた。
授業中だったので、私達は教室に座っていた。
先生はこう言った。

僕の授業の事は、君達はいつか忘れてしまうだろう。
でも、この瞬間の事は、忘れないでいて欲しい。

先生は授業を中断し、教室の右前方の掛け時計を見るようにと言った。

秒針が12を指した時、先生は静かにこう言った。

今、戦争が始まりました。

私はその言葉の冷たさに、自分の体温が低くなったかのような錯覚を覚えた。

その日のことを思い出して調べてみると、それは1991年1月15日の事だったようだ。
安保理はイラクに対し、その日までにクウェートから撤退しない場合、武力行使をすると伝えていた。
あれは、アメリカ時間だったのだろうか。
時計の針は無情にも進み、その時を指し示した。

実際に空爆が行われたのは、その二日後だった。
でも、その瞬間を私達に刻み込んでくれたのは、あの先生だ。

その後、生配信される空爆の様子が、とても恐ろしかった。
戦争なんて嫌だと、強く思った。

そして私はまた、戦争が始まる瞬間を経験した。
ここから2000kmしか離れていない場所で、突然日常を奪われた人達がいる。
なんと悲しい事だろう。

ガスパイプラインの凍結で、ガス・光熱費の高騰は私達の生活にも大きな影響があるだろう。
金融市場も荒れ、混乱している。
しかし、それよりもなお心配な事は、この寒空の下、家を失った人、家族を失った人、家族と引き離された生活をせざるを得ない人々がいるという現実だ。

私の祖父も、戦争で亡くなっている。
太平洋の島で亡くなり、日本に帰ってくることもなかった。
遺体さえ見つからなかったのだから。

祖父の名は、一人の名前として、島の共同墓地の墓標に刻まれている。
でも、私にとっては、名前だけではその価値が表せない、かけがえのない人だ。
 
ベルリンにて、シンドラーのリストに並ぶ名前を見て、白黒写真の祖父の顔が浮かんできたのだった。

父は、祖父によく似ている。
そして私は、父によく似ている。
 
一度でいいから、会いたかった。
 
一人の命を、たった一行の名前だけで取り扱うような時代は、二度と来て欲しくない。

そして、今始まったばかりの戦争で、犠牲者の名前が多く残される事がないようにと、心から祈っている。


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