短読⑤ 鳥の子にだざい・みしまと名づければふたりねじれて道になります
はじめに
五首目は、紙さんの歌です。ご投稿ありがとうございました。短歌作品における固有名詞をどう読んでいくかについて考えました。どうぞよろしくお願いします。
まず読んで思ったこと
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〈名づければ〉という表現は、「名付けた場合」というある一定の条件を持ったシーンを提示するので、逆に「名付けなければその事態は発生しなかった」という想定も同時に引き出すようなところがあります。この歌では、「鳥に〈だざい〉と〈みしま〉と名付けたからこそ、2羽がねじれて道になった」ということも一つ導けると思うし、だから異空間を生み出す言葉の一種魔法めいた力を見ることができるように思いました。
また〈だざい〉と〈みしま〉と名付けることも上記の条件に含まれてくると考えると、〈だざい〉と〈みしま〉がもつ固有名詞性(だざいが太宰治であり、みしまが三島由紀夫であるとみなすこと)を抜きにして読むのは不十分なのではないかと思います。
この二人について少し調べる(完全なる孫引きですが)と、二人の関係を示す大きなエピソードに「三島は大の太宰嫌いで、本人に面と向かって嫌いだと告げた」というものがあるようです。しかもエピソードにおける記憶が人によって異なるのもまたいびつな感じがします。結局(参考にした資料からは)太宰の方がどう思っていたかまではよくわからなかったのですが、それでもこのエピソードに則するなら、おそらく交わることがなかったはずの二人でしょう。でもそれが言葉の上で形を変えながら、道になってしまう。〈ねじれて〉というのも、変形させる上で少し「いびつさ」のニュアンスがあって、この言葉の選択にもこのエピソードに由来するものが窺えるように感じました。
ただ〈だざい〉と〈みしま〉が固有名詞であると判断してしまうのは、一つ、そういう知識を持っているから、ということは大きくて、もしこの二人の名前すら知らない人が読んだら、また全く別の解釈が生まれるようにも思います。それは固有名詞を短歌に生かしていくことの難しさでもあるなあと思いました。
ちなみに〈鳥〉がチョイスされたことについては、いまいち踏み込みができなくて、ただ自分のなかでは本物の鳥というよりも、紙でできた、式神のような鳥のイメージが強く浮かんでいました。
参考リンク
三島の太宰嫌い:https://uranaka-shobou.com/dazai-mishima/
企画趣旨はこちらから
https://note.com/harecono/n/n744d4c605855
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