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日本のソーシャルセクターの「北極星」は何か ~アメリカと人種差別③~

今日は少し専門的だが、日本のソーシャルセクターでも徐々に流行し始めている2つのコンセプトに関するアメリカでの議論を、人種的公正という観点から紐解きたい。そしてその上で視点を日本に移して持論を述べようと思う。

今回の議論は、前々回と前回で紹介した「アメリカと人種差別の不可分性」への理解が前提となるので、ここに再掲する。

今回紹介する2つのコンセプトとは、collective impact(コレクティブインパクト)strategic philanthropy(戦略的フィランソロピー)である。


①”Collective impact”の意味すること

アメリカを中心に、2010年代のソーシャルセクターで爆発的にヒットした社会変革手法、それがコレクティブインパクトである。

この概念の詳細はこの考えが提唱された記事に譲るが、ものすごく平易に言えば、みんなで力を合わせて社会課題を解決しましょう、という考え方である。「みんな」には具体的には、ソーシャルベンチャー、受益者、ドナー、政府、コミュニティ、企業など、あらゆるアクターが含まれる。

コレクティブインパクトが生まれた背景には、社会課題解決は得てして断片的、散逸的に行われがちだという課題意識がある。各々の団体が、それぞれ自分たちが大事だと感じる課題に取り組むばかりで、互いの情報交換や連携が不十分になり、結果的に取り組みが重複したり非効率化したりすることは世界中で起きている。複雑化する課題に対応するためには、もっと多様なアクター同士が手を取り合い、長期的な目標を見据えて協働していくべきだ、というのがコレクティブインパクトの主たる主張である。

少し手が多すぎやしないか

当然、この概念が重要であることは言うまでもなく、「コレクティブインパクト」という名前は何だかかっこいい。しかし、日本語に訳してしまえば、実は多分野協力、包括的連携、くらいの言葉である。そんな概念が、最近も最近、2011年に提唱されたというのはいささか信じがたい。なんだか極めて素朴な古風な概念のように思える。

そのような感覚とは裏腹に、元の記事は100万回以上ダウンロードされ、引用回数は優に3,000回を超える。なぜこの概念が、”こんなにも爆発的に”ヒットしたのだろうか?

そう、ここで登場するのが「人種」のレンズである。

ここまでしつこく述べてきたが、アメリカの社会課題解決の世界は、構造的人種差別の結果を色濃く表している。貧困、教育、ジェンダー、気候変動などあらゆる問題に人種が影を落とすことは散々強調してきた。そしてそれは社会課題の解決においても重要になる。

構造的人種差別の結果として、受益者(支援を必要とする人)となることが多いのは有色人種だが、そこに救いの手を差し伸べる団体や、そこに資金を出すドナーであればなおさら、極めて白人がマジョリティな組織である。

もちろん白人が黒人をサポートすること自体には何の問題もない。しかし、たとえば支援団体が白人のみで構成され、受益者が黒人のみであったときに、支援団体が自分たちだけで議論したことは、果たしてどれだけ真に受益者のニーズに即していると言えるだろうか。

人種だけが全てではないが、ことアメリカにおいてこの人種による「支援者」と「受益者」の分断は、お互いの理解が進まない、効果的な支援ができない最大のボトルネックの一つであった。

だからこそ、その分断を「かき混ぜる」役割を担ったコレクティブインパクトが大きくヒットしたのである(もちろんそれだけが理由ではない)。そして当然ながら、人種的公正さを中心に据えたコレクティブインパクトは成功し、そうでない「コレクティブインパクト」は失敗に終わってきたのである。(この点については日本語記事も出ている。)

つまり、アメリカで唱える"collective impact"の響きと、日本で唱える「コレクティブインパクト」のそれは、大きく異なるのである。コレクティブインパクトが流行し、日本でも実践が進むのは望ましいことだが、「他分野協力」の同義語として捉えるだけでは、コレクティブインパクトの真の価値は掴みきれない。

アメリカでは人種的公正さがコレクティブインパクトの「北極星」であった。

では、日本における北極星は何だろうか。

②”戦略的フィランソロピー”批判の裏には

全く同じことが戦略的フィランソロピーという概念にも当てはまる。

この概念は、”伝統的フィランソロピー”を進化させた概念として生まれたものだ。こちらも簡単に言えば、「ただ単に寄付をするのではなく、取り組む社会課題の選定、Theory of Changeの明確化、寄付先の選定から寄付後の成果マネジメントに至るまで、寄付の社会的効果を最大化しようと試みる運動」のことである。

正直、日本ではまだ「導入期」の序盤も序盤という印象だが、アメリカではこれをバリューに掲げる財団が数多く登場しており、「成長期」の中盤に差し掛かっている。(ちなみに、私が良い事例だと思っているのは、OpenPhilanthropyである)

さて、成長期の社会運動によくあるように、この戦略的フィランソロピーもアメリカで批判を受けることがある。そして、前回の記事を読んでくださった方であればその批判の種はもうお分かりだろう。

そう、人種的公正である。下記がその典型的な批判だ。

『戦略的フィランソロピーはどこで間違ったのか』
スタンフォードソーシャルイノベーションレビュー 2024年夏

正直、この記事はツッコミどころがたくさんあり、論理の飛躍も多いのだが、それでも一流の雑誌に載るあたりにアメリカにおける人種的公正の存在感の大きさを私は感じる。

追記(2024/07/12):
予想通り、すぐにこの記事への批判記事が同雑誌に掲載された。

色々と細かいことは書いてあるが、主な指摘は、戦略的フィランソロピーの広まりによって、白人を中心とした資金の出し手による「ドナーは社会課題とその解決手法をすべて理解している」という思い込みが広がり、受益者を真に助けないフィランソロピーに成り下がっている、というものである。

まず、この指摘は極めて重要である。それはアメリカという文脈を考えれば一層理解できる。コレクティブインパクトの追い風にもなった人種による「支援者」と「受益者」の分断が、この批判にもよく表れているからだ。

その上で、この批判を日本のソーシャルセクターに持ち込む際には2つ注意しなければいけないことがある。

第一に、この批判は「戦略的フィランソロピー」の目指す方向自体は称賛しているということである。既に成果が出ている試みもある一方で、「実行」が疎かになると問題がある、と述べている。つまりこれは、典型的なGood intention, bad implementation(意図は素晴らしいが、実行に難あり)の事例なのである。そしてなぜ実行に問題があるかと言えば、受益者の声を聴かない(理解できない)白人中心のドナーが活動を父性的に管理するからだ、という論理なのである。

これを、日本にいる我々が「戦略的フィランソロピーは良くない」と結論(の一部)だけを切り取るかたちで理解してしまうのは極めて勿体ないことである。それよりもむしろ、アメリカで改善提案がなされたのだから、日本で戦略的フィランソロピーを実行する際にはその経験から学ぼう、という方向に歩いていくべきではないだろうか。Good intention, good implementationを作りに行くという前向きな姿勢が求められる。

第二に、日本の文脈にアメリカの批判はフィットしないということである。これまでの記事でアメリカにおける人種的公正の存在感の大きさを述べてきた。今回の戦略的フィランソロピーへの批判の原動力が何かと考えれば、それもまたご多分に漏れず「人種的公正」なのである。

ここで、前回の記事を締めくくった言葉をそのまま記載する。

要は、米国とは文脈も異なり、かつ対策も遅れている分野において、むやみに米国でのトレンドを形だけ真似ようとすると、かえって正しい運動にブレーキをかけかねないということだ。「アメリカでダメだといわれているから」ではなく、日本の文脈に即した社会運動の促進と建設的な批判が必要である。

アメリカ社会から学ぶべきことは何か ~アメリカと人種差別②~

日本において、「戦略的フィランソロピーが人種的公正を欠く」という批判は、果たしてどれだけ当てはまるだろうか。皆無とは言わないが、アメリカとは比べ物にならないくらい小さな問題だろう。そもそも日本において「戦略的フィランソロピー」はまだ緒に就いたばかりである。ケーススタディさえ生まれる前から、食わず嫌いをしていてはこの分野にイノベーションは起こらない。

しかし、そうは言っても、我々が必ず考えなくてはいけない問いがある。それは、アメリカで批判の原動力となっている「人種的公正さ」にあたるものは、日本社会においては一体何なのか、ということである。

日本社会における「北極星」はジェンダー平等である

ここまで、コレクティブインパクトと戦略的フィランソロピーを例に、アメリカの人種差別の影響を理解する必要性について述べてきた。

さて、ここで日本社会に視点を移したい。

日本のコレクティブインパクトにおける「北極星」は何なのだろうか。日本の戦略的フィランソロピーを監視する役割を果たす「北極星」は何なのだろうか。

多くの候補はあるが、現時点での私の回答は、それは「ジェンダー平等」の視点ではないか、というものである。

日本のジェンダーギャップの大きさは広く知られたところであり、受益者コミュニティが女性中心となる社会課題は無数に存在する。一部にはなるが例を挙げれば、シングルマザー過剰な借金の結果としての人身売買女性のみが違法となる売春地方における女性への固定観念理数系を選ぶ女子学生への偏見リベンジポルノ緊急避妊薬へのアクセスなどがそうだ。(おすすめの記事や動画をリンクしました)

幸い、資金の受け手側(活動を実行するNPOなど)には、近年非常に多くの女性が参画してきた(もちろんまだ不十分ではある)。しかし、資金の出し手側(助成財団、地方自治体、企業など)はどうだろうか。当然、団体による差も大きいが、依然として極めて男性中心のコミュニティである。そしてその結果として起きているのは、女性支援を掲げる団体の多くが、日本ではなく海外の出資者にアプローチし、活動を続けなくてはならないという皮肉な状況である。

私はこの構造に、アメリカにおける人種による「支援者」と「受益者」の分断の相似形を感じる。これをお読みの方々の意見も気になるところである。


社会にはその社会特有の歴史があり、課題があり、語りがある。アメリカは社会課題解決の手法が進んだ国ではあるが、その裏には人種差別を含む数多くの歴史の過ちがあり、深刻な課題があり、その改善を望む人々の声がある。

アメリカから学べることは多い。私自身、アメリカに身を置いて勉強して、日々ハッとさせられることばかりである。しかし、アメリカと日本は異なる。アメリカで上手くいったことが日本で上手くいくとも限らないし、逆も然りである。そこを過信してはいけない。

日本における「北極星」が何なのか、それを探り続けることなしに、アメリカの社会課題解決を「見学」しても、空回りするだけである。頭はアメリカにあっても、足は日本に。自戒を込めて、ここで強調しておきたい。

(ここまで長い文章を読んでくださった皆さん、ありがとうございました。)

ではまた。

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