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アメリカ社会から学ぶべきことは何か ~アメリカと人種差別②~

前回は、アメリカ社会に多大なる影響を及ぼす人種差別の存在を紹介した。

今日はそこから少し話を広げてみる。

あらゆる社会課題に人種差別が影を落とすことが特徴であるアメリカ社会では、社会課題の「解決手法」を考える際も、人種的公正さの観点から批判的な検討がなされる


「社会課題解決」と聞けば、誰もが当然望ましいことだと感じる。実際、課題が100%解決するのであればそれ以上のことはない。

しかし、現実はもう少し複雑である。

問題の解決に向けて社会運動が誕生し、改革の機運が高まったとして、その運動が「困っている人全体」ではなく「困っている人の一部」だけを救うものだったとしたら、どうだろうか。社会の"平均"をみれば改善しているかもしれないが、社会の底にいる人々は依然底から抜け出せない、といった状況は実はよく起こる。

人種差別が影を落とすアメリカ社会は、この「困っている人の一部」だけを救出するアプローチに、極めて敏感である。「この手法は白人のエゴになっていないか?」「マイノリティの中でも白人を優遇し、黒人やヒスパニックを取り残していないか?」といった批判的な検証を見ることが日常茶飯事なのである。

2つ例を挙げよう。

糾弾の対象としての米国の社会運動

①フェミニズム

第二派フェミニズム、と呼ばれる社会運動がある(あった)。

フェミニズムは古くから存在する概念だが、いくつかの段階に分かれて発展している。アメリカにおける第一波というのは19世紀半ばに広がった、「女性参政権獲得」をミッションとした社会運動である。それに対して、第二派というのは、20世紀半ばから広まった「女性の社会進出」をミッションとした社会運動である。第一波も第二派も女性の権利を拡大し、男女平等を志向するという点では”望ましい”運動であった。

しかし、どちらのフェミニズムも「女性=白人女性」という暗黙の方程式の元に成り立っていた運動だった。そして、「女性」は均質的なカテゴリーであって、「女性」をエンパワーすれば問題は解決する、という乱雑な主張に立ち向かったのが、黒人フェミニストたちであった。この流れの中で前回も紹介したブラックフェミニズムインターセクショナリティといった重要概念が生まれていき、フェミニズムは第三派と呼ばれる段階へと移行していく。

まさに、人種的公正さ(racial justice)が社会運動に待ったをかけた事例である。

インターセクショナリティを提唱したキンバリークレンショー

②企業のDEI

近年はDEIという言葉を聞くことが増えた。Diversity, Equity, and Inclusionの略で、企業においては、社員や経営層のメンバーに多様性を求める運動と理解できる。

人材の多様性といえば、女性の採用・登用の促進が真っ先に思い浮かぶ。しかし、この女性登用に取り組んだアメリカの大手企業が批判を受ける結果となった。なぜか。

もうお分かりだと思うが、白人女性ばかりを登用したからである。DEIで重視される「女性比率」だけでは見えない”真のDiversity”に取り組むことが、現在のアメリカ企業には求められている(もちろん日本でも)。
*当然、黒人女性が増えれば、それで真のDiversityなのか?については批判的なくてはならない。他にも不平等を被っているグループは多々存在する。

アメリカと日本は異なる、という当たり前の事実

ここまでアメリカにおける社会運動が人種的公正の観点から批判を受けた事例を紹介した。(人種×ジェンダーで2つの例を挙げたが、それ以外にも人種×階級など、他の要素で批判を招いた事例もある。これについては次回記事を参照のこと)。

さて、これらのアメリカの事例から導くことができる日本への示唆は何だろうか。

一つは、アメリカから学ぶべきだということである。何事も一つのカテゴリー(例:女性)だけに着目すると、本当に支援を必要とする人を置き去りにしかねない。これは当然重要である。

しかし、そのコインの裏表の関係で、もう一つの示唆があるように思う。それは、アメリカで批判された手法だからと言って、日本でもその手法が誤りだとは限らないということである。

前回の記事でも深堀したように、アメリカというのは(構造的)人種差別の影響が極めて大きい特殊な社会である。そしてそれゆえに多くの社会運動が批判に晒されてきた。もちろん、その批判はアメリカにおいては至極妥当なものである。

しかし、その批判は日本でも”同じくらい”妥当に当てはまるものだろうか?

繰り返すが、日本に人種差別がないなどというつもりは毛頭ない。外国人ヘイトの問題や琉球への人種差別などを知ることは重要である。だが、その深刻さ、根深さはアメリカの方がはるかに重い。言ってしまえば歴史的文脈や人口構成が全く異なる国なのである。

たとえば女性の政治家を増やすことを目指す運動を考えたときに、アメリカであれば「結局白人女性しか増えていないではないか」といった反論が考えられる。しかし、その批判は日本では当たらない。誰も「アジア系日本人女性しか増えていないではないか」などとは言いださない。

もちろん、貧困層出身者や障害を持つ女性も増やそう、という考え方はあるだろうが、そもそも女性の政治家が少なすぎる日本においては、まず「女性」の政治家を増やすべきだということに異論がある人は少ないだろう(最近の女性政治家トレンドについて参考になったポッドキャスト)。

回りくどく説明してきたが、要は、米国とは文脈も異なり、かつ対策も遅れている分野において、むやみに米国でのトレンドを形だけ真似ようとすると、かえって正しい運動にブレーキをかけかねないということだ。「アメリカでダメだといわれているから」ではなく、日本の文脈に即した社会運動の促進と建設的な批判が必要である。

よくわからない挿絵(ブレーキとドライブらしい)

何かと「アメリカ新興」が強い日本だからこそ、この点を心に留めていきたい。

(本当はこの回を最終回にしたかったのだが、実はもう一つ話したいことがあるので、次回もこのトピックを続けたいと思う。ただし次回は、ソーシャルセクターやフィランソロピーにおけるトレンドの話なので、正直かなりマニアック…。)

ではまた。


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