モーツァルトの「悲しみ」は教会のパイプオルガンではどう響くのか?(クラシックの編曲作品を聴く楽しみ)
モーツァルトの交響曲第40番がパイプオルガンで演奏されているCDを聴いた。
それはピアノ練習曲でも有名なカール・ツェルニーが編曲したもので、4手(連弾)で演奏するオルガン版である。
ツェルニーはハイドンやモーツァルトの交響曲など、多くの作品をピアノ連弾版に編曲しているので、もしかしたら、元々はピアノのためのものかもしれない。
モーツァルトの「交響曲第40番ト短調」は「悲しみ」という言葉で形容されることが多い。
短調という調性自体が悲しい曲調になるのだが、中でもこの交響曲の調である「ト短調」は、特に「モーツァルトのト短調」は、それが強く表現される。
通常はオーケストラで演奏される、このモーツァルトの「悲しみ」を表現する交響曲が、荘厳な空間を有する教会のパイプオルガンで演奏されるとどう聴こえるのか。
教会といえば神と通じる場所、いわば天国に近い場所とも言える。祝い事があれば神へ感謝するために教会へ行き、悩みがあれば神に打ち明けて道を求めるために教会へ行く。
自らの「悲しみ」を訴え、その救済を願う場所、でもある。
そこに置かれているパイプオルガンは、天にも登るような高さを有し、発する音は天にも届くように大きく、天を揺るがすような響きを作り出す。
「悲しみ」を表現するこの曲が、「悲しみ」を訴え、癒すことを求める場所にあるパイプオルガンで演奏される、という繋がりも、何かとても興味深く感じたのである。
それでは、いったい、どのように聴こえるのだろうか?
あの何かやるせない、ため息をつくような「悲しみ」を感じる名旋律で始まる第1楽章の出だしは?
意外にも、リコーダーのような音色、ちょっと可愛らしく思えるような「悲しみ」で奏でられ始めた。
しかし、突然、それを打ち破るような堅く鋭い音色が降ってきた。
バッハのオルガン曲「トッカータとフーガ ニ短調」冒頭で鳴り響く、鮮烈な音色に近いものだ。
そのギャップにハッと驚くのだが、 そう、パイプオルガンという楽器は様々な音色を出すことができ、途中で変化させることができるのだ。
これは、やるせない悲しみの中、紋々とした自分に、突如天から落ちてきた稲妻に打ちのめされたような感じ、だろうか。
これは聴きなれたオーケストラ版よりも強烈なインパクトを残す効果だ。
しかし、聴き進めていくにつれ、徐々にオルガンの音色に慣れてくる。すると何やら教会で執り行われる華麗で豪華な式典のBGMのようにも思えてきた。
「悲しみ」は癒されてきた、のか?
続く第2楽章の優雅なアンダンテは、元々
ちょっとユーモラスな感じもある第2楽章は、オカリナみたいな音色がのんびりした田舎の風景が思い起こさせる。
変わって第3楽章のメヌエットの舞曲は、オーケストラよりも重々しく感じる「悲しみ」で、大きなパイプオルガンの重量を背負うような、とても踊りにくい、重い重いステップを踏む。元々が何かカクカクした踊りにくい曲になっているので、余計に踊りにくくなっている。
最後の第4楽章はテンポがかなり遅くて驚く。
悲しみが激しく突進するような現代のオーケストラ版の演奏に比べて、このゆったりした「悲しみ」が表すものは何なのであろうか?
「悲しみ」の解決には程遠いような諦めのようにも感じる。しかし、その隙間から何か美しさが顔を出すようにも思え、オーケストラが奏でる激しい「悲しみ」とは、また違う表現が面白い。
もちろんモーツァルトはこの交響曲に関して「悲しみ」を表現したと言っているわけではない。なぜ作られたのか、謎が多い交響曲でもある。
しかし、現在まで多くの人がこの作品に「悲しみ」を感じているわけで、モーツァルトもきっと「悲しみ」を表現したと思いたい。
パイプオルガンという通常とは違う楽器を通じて聴いたのだが、パイプオルガンの音色はたくさん作ることができる。
その音色は、恐らく編曲者は指定していないのであろう。演奏者が思う最適な音色で変えているのであろう。
当然、それによって表情が大きく変わるわけで、このCDとは違う音色で演奏されれば、また違う「悲しみ」の表情を感じることができるはずだ。
一般家庭のオーディオシステムという限られた条件を介するのではなく、 あの広い教会という空間の中で、大きな音量で鳴り響くパイプオルガンを介して聴いた時には、また違う「悲しみ」を感じることができるだろう。
機会があれば聴いてみたいものだ。
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