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ハーモニーを感じる、ということ

道のり

 17歳の頃、私は高校の文化祭でBandを作り「ジャズ」に初めて挑戦した。後にそれが「アドリブ」というものだと知ることになるのだが、所謂"Theme"の後に続く不思議な「メロディーと伴奏のやり取り」をどうにかして演奏するために、取り敢えずバンド全員で必死になってジャズの名演奏の完全コピーをした。それら10曲を丸暗記し、リハーサルを重ね、本番ではなかなかの好評を得ることができた。
 特に、ジャズが趣味の数人の先生方はこの演奏を聴き、大いに気に入ってくださり、卒業が危うかった私の成績を救うべく大変なお骨折りをいただいた。(本当の話、涙…)

 大学に進学し趣味で続けるつもりだったジャズが様々な「縁」で、私の人生の中心となった。 

 数々の音楽体験の中で、私はアドリブが「即興の作曲」であることを知った。
Themeを包んでいる和音の流れ(コード進行)が繰り返される中で、keyやコードの構成音などを頼りにメロディを作り、リズムを付けて「うた」を制作し演奏する、そんな感じの「作曲」である。
そのアドリブと、ピアノ、ギター、ベース、ドラムの様な「リズムセクション」の作り出す伴奏とのコミュニケーションによる協働制作で曲が構築されていく。
 私は、より高度なアドリブ、より高度なコミュニケーションを実現するために過去の偉大なジャズミュージシャンたちの音楽を研究し、手探りではあったが和声についても学んだ。
コード進行を言葉にして分かり易く整理しメロディを作る素材にし、できたものを演奏する。自分では考えつかなかった(未体験の)面白く不思議なメロディや洗練された(と当時感じた)メロディを習得し、私は実際にライブで吹くようになった。
 そして難しい言葉や考え方を披露する同世代のミュージシャンに羨望の眼差しを向け、乗り遅れないように頑張って勉強した。

 気がつくと、ある楽曲のコード進行を見て、意味や広がりについて考え、メロディを作るようになっていた。初見に近い状態で、コード進行を見てアドリブを吹くことも出来るようになっていた。
アドリブやアンサンブル内でのコミュニケーションが音楽的になるように、アーティキュレーションにも気を配り、歌心を大切にした。何かを会得したような気持ちになった。

 そうした中でやがて私はいくつかの大きな壁にぶち当たることになった。
 研究や練習に多くの時間を使い、そのことが音楽的能力を高めるという意味では本当に有益だとは思うが、、、もしこれが「アドリブ」なんだとしたら、簡単すぎないか?練習や記憶の積み重ねの応用だとしたら、あまり想像力を使う必要が無いのだから。
 物凄い量の練習と研究をするとは言え、獲得できるのが「これ」なんだとしたら、同じような音楽を作り出す人が沢山できてしまい多様性のない世界になってしまわないだろうか?
 そして、ゴールや目標、競争や作品への評価が生まれ、そこに重きを置くこの世界は「アート」ではないのではなかろうか?(それが作品制作の発展への大きな励みになったとしても、やはり他人のジャッジメントを基準に作る「自己の世界の掘り下げではないもの」を私はアートとは思わない。)
 また、アドリブをコード進行だけで作っていくのだとしたら、Themeの持つ趣や雰囲気、深いところでの物語、あらゆる可能性への広がりはどこにあるのだろう?
 ・・・・・・

いま

 たくさんの苦悩や先を行く素晴らしいアーティストたちの導きもあり、今の私はこのように考えるようになった。
コード進行のような「ハーモニーの流れ」は感じるものである。
 しかし、ある楽曲で(まず最初に)ハーモニーを言葉を使って解釈し、そこからアドリブや音楽の展開を考えている時点ではまだ「流れ」を感覚で捉えて細かく理解することは大抵の場合無理だと思う。
流れ(進行)を言葉で完全に理解し、様々な展開を体験しその楽曲のコード進行についての説明が要らなくなる段階に到達してから、初めて自分に聴こえてくるハーモニーの「感じ」を感覚が繊細に捉え、音楽的に発展させることが出来るようになるのだと私は思う。そしてそれは同時に、ハーモニーの流れを「Themeのメロディに伴うもの」として感じることとなり、きっとその展開からはThemeの持つイメージの広がりや繋がりが聴こえてくるだろう。
 楽曲を徹底的に脳に貼り付ける作業の先に「感じる」があるのだと思う。
 ハーモニーを感じながらその中で「その瞬間の感覚を中心に、直感でメロディを創っていく」ことが、私は「自分の内側で作ったアドリブ」だと思っている。

  学生時代の見様見真似でアドリブをやっていた頃、私にとってハーモニーは感じるものだった。
というよりも、言葉にすると意味が全くわからないので、聴こえてくるハーモニーの流れを大雑把に「感じる」ことしか出来なかった、というのが正しいだろう。
 直感が中心ではあったが、時にはヤマカンにもなっていた。
 時々、奇跡的にカッコ良く出来たりしていた。雰囲気のみで演奏し、稚拙な箇所や確信の持てないところはニュアンスで誤魔化していた。
 「嘘をついている」認識があった。
・・・なので全然面白くなく、でも適当に誤魔化してやって奇跡的なところでのおいしい思いもして、それはまさに「子どもの遊び」の世界と同じようなものだった。
だからこの世界を良しとする人間の「勉強なんかするな」とか「メチャクチャにやってカッコ良い」、「少しダメなところがいいんだ」などの無責任な言葉や、音の世界の本質を知らないが故の「悪意の無い変なアドバイス」などを発する人間は、ばかだと思うし、必要のないものだと思う。


 いろいろな道を通ってきて、また昔のような感覚になったというのは実に面白い。

  ほんとうに面白い。

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